梢と花帆が海を見に行く話【SS】
そう云った後輩の顔は、期待溢れんとばかりだったのを覚えている。
入学して――否。正確に言うならば、スクールアイドルクラブに入って一月の節目として、自ら作った舞台に皆で立ったライブステージ。スリーズブーケの乙宗梢が、日野下花帆と共に踊り、歌い、叫んだそのライブは大成功だったと言えるだろう。
周知であろうが、梢は先達として、大人として、こころを厳しく在るべきだと思っている。それは花帆の指導の様子にも垣間見えるものであるし、己のライブの演技を五十五点とした様にも如実に表れていた。
しかしながら、厳しく在るこころと、自分たちを褒め称える気持は相反するものではない。自戒と同じくらいには、己や花帆を称賛したい気持を持っていた。
花帆にしてみれば、紅茶と茶菓子を日頃よりも一等高級なものにするだとか、金沢の街に繰り出してパンケーキを奢ってやるだとかでも十二分に満足できただろう。ただ、梢と花帆は随分趣味が違うようで、梢からすれば花帆の満足というのは未知の領域に在ったのだ。
仕方なく、梢は花帆本人に尋ねることにした。サプライズにできれば越したことはないが、梢は血に足をつけ、花帆を満足させることを優先したのだ。
とはいえ、なんでも言ってみろと促した手前の、可愛い後輩の頼みである。梢に断る理由は無かった。
幸い学校は約一週間の休みに入っていたので、花帆に懇願された翌日に、二人で出掛けることになった。
蓮ノ空は山中に聳え、紫幹翠葉こそが唯一の友と言わんばかりの有様であるが、決して海街と千里離れた深山幽谷という訳ではない。学校から金沢駅前、そして更に海の方へとバスを乗り継いでやれば、辿り着けない距離ではないのだ。
梢は立地のわからぬであろう花帆を連れて、朝から昼へと移り変わる頃に蓮ノ空を発つことにした。
「花帆さんは…どうして海に?」
ふと、梢はそんなことを聞きたくなった。最初に頼まれた時には二つ返事で了承したのに、行きの途中で唐突に尋ねたのだから、自分でもおかしな感覚がした。
「あたし、海って見たこと無かったんです」
「そう言えばお家、長野だったわね。こっちに来てからも?」
「はい。すぐ蓮ノ空に来ちゃったし、駅前には行けても海の方まで足を伸ばせないし……」
折角の休みに街よりも海を優先するのだから、花帆にとってもさぞ期待の光景なのだろう。
「そうね。まだ晩春だから海には入れないけれど……ただ眺めるのも、楽しいと思うわ」
未だ変わり映えの無い鬱蒼たる車窓をさえも珍しいという雰囲気で覗き込む彼女は幼娘のようで、小さく笑いが溢れた。ご機嫌の様子で小さく歌い出した花帆の鼻歌とともに、バスはもう三十分ほど、梢たちを揺らし続けた。
浅野川に従い住宅を抜けながら、観光客で賑わう金沢城を遠目に横切る。梢は明るく塗られた城も、山々とは違った形で緑を彩る六勝の景観も嫌いではなかったが、如何せんこの年頃の少女はそうでもないのが普通らしい。一人で歩き回るのも物寂しく、結局数年前に一度訪れた位だった。
今はどうにも休暇のせいで、観光客がごった返しているようだった。霞ヶ池で釜茹でにしても溢れる位の人が訪ねてくるというのだから、気が滅入る話である。
しかしながら、隣で小さく身体を揺らす後輩にも、松を背後に可憐な淡紅色を咲かせる菊桜をいつか見せてやりたいものである。二百枚の花弁は己を知ってか知らずか、今年も美しい数学比の螺旋を描き咲き誇っていることだろう。見る者の心を揺らすそれは、彼女にも良く似合うだろうと思った。
「うわぁ、すっごい人ですねえ」
「仮にも観光地ね。これほどとは思わなかったけれど…」
駅からは、雑踏がそのまま移動しているかの如く観光客が流れていく。きっと電車は芋を洗うような様子なのだろう。
花帆は桃色の肩掛け巾着を引き寄せ、きゅっとその肩紐を握り込んでいた。丁度、兼六園の菊桜と同じ桃色である。上着の水色と合わせて、その格好は春霞を纏っているようにも見えた。
怯えを見せるその右手と反対の手を取り、梢は彼女を安心させようと微笑んだ。
「逸れるといけないわ。一緒に行きましょう?」
「梢センパイ……はい!」
市場の団子汁が旨かっただとか、土産の阿蘭陀煮を買い損ねただとか、各々の気持のままに口に出された言葉が綯い交ぜになって、バスの中で出発を急かすようだった。
バスは二分も待たずにエンジンがかかった。梢は電光掲示板で停留所を確認し、ふと窓の外を見た。すると、人の群れに混じり、いくつか見覚えのある姿が目に留まった。私服ではあるものの、その顔ぶれは同級生の団体に違いない。四人ほどで固まり、正に和気藹々を喋るようにして、駅のざわめきへと消えていった。
梢は半ば無意識調に疑問を投げかけていた。花帆はそれを聞くと、きょとんとした顔を浮かべた後、笑顔に戻って言った。
「梢センパイとが良いんです!」
数瞬して、梢は己の無神経を恥じた。
この一月、日野下花帆という少女の純粋さをひたすら真っ直ぐ目にしてきたつもりであった。しかし、その様を見ていてもこのような巫山戯た質問をしてしまうのだから、どうにも自己嫌悪に襲われるものだ。
幼い頃にソワレを鑑賞した時、その爽快なはずのオーケストラが自分の未熟さを嘲笑っているように耳障りに感じたのを思い出した。きっとそれはありえないことだが、結局のところどう受け取るかというのは己の問題なのだ。梢は花帆の笑顔に対してだけは、純粋でいたいと思った。
「昨日、さやかちゃんにあたしの髪留めとおんなじのをプレゼントしたんですよ。そしたらすっごく可愛くて!ずーっとそれでいてってお願いしたんですけど、たまにだけって言われちゃいました」
「ふふ、いつもの村野さんも素敵だけれど…他の髪型もきっと可愛らしいわね」
「センパイたちにも今度お披露目します!ちょっと恥ずかしがってだけど……きっと綴理センパイも喜ぶのになぁ。配信でお揃いにするのも良いし!そうだ、梢センパイも髪型変えてみませんか?」
「私も…?構わないけれど、花帆さんのような可愛らしい髪型は似合わないのではないかしら」
「そんなことないです!絶対可愛いですよ!」
「そ、そうかしら……なら今度、お願いするわね」
「そう言えば、この前さやかちゃんが作ってたおかずをちょっとだけ食べさせてもらったんですけど、すごく美味しかったんです!あたし驚いちゃいました、こんなに上手だったなんて」
「綴理も、お弁当は本当に美味しそうに食べるものね。あの子は幸せ者だわ…」
花帆は特にさやかと仲が良かった。互いの部屋にも行き交うことが多く、勉強や練習の振り返り、配信も一緒に行っているらしい。一見して花帆が振り回していると思えるが、実際のところさやかも好んで花帆に付き合っているようだ。
段々近付いてきた目的地に花帆は気分も浮かれているらしく、跳ねるように歩き出したので、梢も自然と顔が綻んだ。彼女の雰囲気は周りにも伝播する感覚があり、気付かぬうちに腕を景気良く振り、大股で歩を進めていった。
「あっ、芍薬だ」
花帆がぽつりと呟く。その眼差しを追えば、民家の庭から飛び出すように芍薬の花が群れて咲いていた。真白な花弁は八重に開き、真っ直ぐと立っている。艶のある葉茎と合わせて、気持の良い陽気を思わせた。
「結構早いですね。綺麗だなぁ」
「そうね。良い香りだわ…にしても、良く知っていたわね。直ぐにわかる人は少ないと思うのだけれど」
「えへへ…お花は詳しいですから」
「どうかしたんですか?」
「…いいえ。なんでもないの。良い季節だと思っただけよ」
「…?そうですね!暖かいし、お花も沢山咲いてきてますし」
そう言えば、と学校の中庭から見える山法師や鈴蘭の花を思い浮かべた。最近は開花も早くなり、四季との相違も珍しくはなくなってきている。花帆たちが入学して桜を見ることができたのも、中々気候が素直だったお陰と言えた。
「芍薬のお花って…梢センパイみたいで、綺麗ですね」
花帆の言葉に、梢は面食らう他無かった。春うららの天気に気を抜いていたものだから、濁った驚嘆が飛び出てしまったが、それよりも突然己を襲った気障な台詞に意識が向き、恥じらう余裕は無かった。
「あぁ…確かにまっ白で、綴理センパイの髪みたいですよね。でも、なんていうか…すくっと立ってる様子に、ステージの梢センパイを思い出したんです。だから、芍薬は梢センパイです」
芍薬の花に顔を近付けていた彼女は、くるりと一回転してこちらに向き直った。その破顔に、まるで春風が吹き抜けるかのように、視線が吸い込まれる。ビードロのような瞳は、台詞に世辞が無いことを証明するかのように陽光を反射していた。
「全く……貴女は本当、計算ずくのように私の欲しい言葉をくれるのね」
「?…わわっ、梢センパイ?」
頬に熱が浮かぶのを誤魔化すように、花帆の頭を撫でた。髪を崩さぬようにそっとやったのだが、絹のように滑らかながらも温かな和毛に指を這わせるのは、止め難い心地良さがあった。
「えへへ、くすぐったいですよ~」
口とは裏腹に、梢の手に合わせて頭を押し付ける花帆の様子は仔猫のようで、まるで路地裏で腹を晒して眠る野良猫を見たときのような高揚と罪悪を覚え、ドキリとした。
「んんっ、ごめんなさい。そろそろ行きましょうか」
「あっ…はい、そうですね!」
態とらしい咳払いで自分のこころを切り替えて、足を動かし始める。芍薬の香は後ろに流され、土やアスファルト舗装に混じって、潮の匂いに入れ替わっていた。
遠い頭の上で、うみねこの鳴き声が聴こえた。きっともう五、十分もすれば開けた砂浜が見えてくるだろう。
梢はその光景に不思議な安堵と、一抹の不安を覚えた。幼少の頃から眺めていた海は変わらずそこに在ったのだが、それが花帆の空想と一致していたのかはわからなかったのだ。
「……」
花帆は言葉を発さなかった。結び目が解けたように唇は薄く開いていたものの、そこからは見えない吐息が溢れるばかりだった。
聴こえるのは波音と、うみねこの鳴き声くらいだ。それがかえって静寂を引き立てて、梢のこころを緊張させた。きっと五月の陽射しのせいではないだろう、潮風が雫になったような、湿った汗が頬を伝った。
およそ五十秒。無言を貫いていた花帆が、ようやく口を開いた。
「センパイは、海、好きですか?」
花帆の視線は、水平線の向こうへ伸びていた。横目からではその台詞の真意はわからない。梢はその裏を読むことを諦め、花帆と同じように海を向いた。
その時、ごうと一等激しい海風が吹いた。砂浜に茂る浜昼顔がざわめき、その葉に舞い上がった砂がパラパラと落ちる音がした。
すると梢の視界に映る海原が急にうねり、低く鳴き声を響かせ、その全貌を曝け出し始めた。少なくとも梢には、そう感じられた。一瞬、潮が急激に満ちて波が自分たちの足元まで及んだのかと錯覚したほどだ。
しかし、そうではなかった。梢の理性は、己に起きた変化を鳥瞰的に捉えていた。
そして今、梢の頭に浮かんでいた記憶の中の海ではしゃぐ花帆のイメージ――先入観と言っても良い――は完全に消滅していた。それは逆説的に梢と現実の海を相対させ、花帆の問いに真正面から答えねばならない状況を作り出していた。
度々見てきた金沢の海。しかしながら、梢はそれを初めて見たかのように思えた。穏やかな海と霞がかった空、その境界は曖昧で、視界の端から端まで横断している。そこから流れてくる潮風や砂に沈み込んだヒールの触覚まで全て含めて、海という空間なのだ。十六になって初めて、梢は海を真正面から見た気がした。
「私は、好きよ。とても……花帆さんは?」
隣を向くと、丁度目が合った。優しく微笑みかければ、同じように笑った顔が帰ってきた。
「あたしも、とっても好きになりました。梢センパイと来れて…一緒に見れて良かったです」
花帆は、決して海だけを目当てに来たわけでは無かった。梢と二人で出掛けて、その時間と気持を共感したかったのだ。それをようやく、梢は理解したのだ。
「え?お、お礼を言うのはあたしの方ですよ?」
「いいえ、私からも…言わせて頂戴。ね?」
「はい…?」
梢は不思議がる花帆の頭を軽く撫でて、もう一度海の方に向き直った。波は寝息のように、規則正しく響いている。耳をくすぐるその音は、なんとも心地良い感覚だった。
「もう少し、波打ち際の方まで行ってみましょうか」
「はい!」
「きゃっ」
花帆の足を捉えるべく海から現れた新たな波を、花帆は既のところで避ける。泥が跳ね、波に落ちていった。やがてまた波が引っ込むと、花帆のつけた足跡は整地されたように無くなっていた。
足跡をつけ、波を避け、また足跡をつける。何が楽しいのか――否、何がおきても楽しいのだろう。彼女は箸が転んでもおかしい年頃のようで、無邪気に笑いながら、かごめ唄のようにそれを繰り返していた。梢は一歩下がり、乾いた砂にしゃがんでしばらく花帆を眺めていたが、飽きることはなかった。
そうして五分か十分か、しばらくの時間が過ぎた頃。花帆の靴の踵についた海水の雫がきらりと輝き、梢は思わず目を瞑った。眩しい景色に緞帳が降りた瞬間、ニャアニャアといううみねこの鳴き声が波打ち際を横断したのが耳に入ってきて、はっと目を見開いた。
オーケストラが不協和音に聴こえるように、ただ単純なはずの海の音が、柔らかい調べのように聴こえてくる。そんな感性が芽生える程に、梢は幸福な気持だった。
「花帆さん!」
波音に負けないよう、彼女に呼びかけた。息を吸いすぎたせいで思ったよりも大きな声が出たが、花帆もまた、口をいっぱいに広げて返してくれた。
「海、どうかしら?」
花帆は一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、直ぐに笑顔になって言った。
「楽しいです!」
「ええ。私もよ。……それで、実はね。お弁当を作ってきたの。良ければお昼にしましょう?」
「ホントですか!?やった~!いただきます!」
兎のように飛び跳ねて喜ぶ姿は梢の全く想像通りで、なんともおかしく吹き出してしまう。花帆はそれを理解していないようで、吊られてにこにこと笑っていた。
季節を先んじるかの如く照りつける太陽は、丁度真上に来ている。その周りを旋回するうみねこに弁当を攫われないよう、梢たちはレジャー・シートを広げる場所を探すため、砂浜に沿って歩き出した。
ありがとうございました!
引用元:https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1683892568/
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