「令安かすみん物語」cι˘σ ᴗ σ˘* ~12~
かすみ「――というわけでぇ、かすみんなんと! お仕事中なんですよぉ」
かすみ「ふっふっふー。歌って踊れてお仕事もしちゃうアイドル! もうプロって呼べちゃいますよね」
かすみ「ほら見てくださいかすみんのお仕事風景……ふんふ~ん♪」
かすみ「えへへ~みんな見て
「新入りうるさいよ!!」
あわわわわわわわわ。
ストップです。ステイです。録画も停止です。
やってしまいました。
怒られちゃいました。
かすみ「はい……」
お店の2階から降りてきた教育係の先輩は眠そうな顔をしています。
それもそのはず、このお店のメインの営業時間は夜なので、お昼はみなさん休みたい時間なのです。
2階の寝室とは離れているから大丈夫かと思いましたけど……だめだったみたいで。
反省です。
蝶女先輩「はぁ。掃除は……いいみたいね。じゃあ早いとこ買い出し行ってきなさい」
かすみ「了解です!」
『マーケット』に入ったあの夜。管理人を名乗る人外に招かれるままについた先がこのお店です。
管理人『――そういうわけだ』
ママ『ま、いいけどね』
ママと呼ばれる牝牛のような店主と話はついたらしく、管理人はどこかへ去りました。
次にママが呼んだのが教育係の女性でした。美しい蝶の翅をもった人外でした。
彼女を呼ぶとママもお店の中へ消えてしまっていました。
かすみ『あの、ここって飲食店、ですか……?』
またたく間にヒトからヒトへと引き渡されて、なにがなんだかわからなくなっているかすみでしたが、ザワザワと賑わう店内を見ると食事をしている多様な人外たちがいるとわかります。
なので、当たり前のように飲食店かと思ったのですが。
蝶女先輩『半分はね』
かすみ『半分??』
蝶女先輩『もう半分は娼館』
しょーかん。しょうかん。召喚?
はて、と思いもう一度お店を眺めると、お客らしき緋色のネズミが蜘蛛型の女性と手をつなぎ、暗い階段を上っていくのが見えました。
蝶女先輩『ああやってお客をとって、対価をもらうのが私たちの仕事』
これも引きこもり時代の知識の蓄えのおかげといいますか。
ぱっと気づきはしなかったものの、しょうかんが『娼館』だと変換されるまで、それほど時間はかかりませんでした。
まあちょっぴりびっくりはしちゃいましたけど。
蝶女先輩『あ、ちょっと』
かすみ『あわわわわわわ……いや、あわわわわわわわわっっっ』
蝶女先輩『落ち着きなさいって』
かすみ『ひやぁあああああ!!!』
蝶女先輩『ちょ、うるさい!』
という感じにお勤めが決定したのが、もうすでに5日前のことでした。
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いよいよ薄幸の美少女と呼んでもいいかもしれません。
いや薄幸はいらないんですけども。
かすみ「えーと野菜野菜」
とはいえかすみのお仕事はもっぱらサポートで、お客をとる、ということはないのでした。
今日も掃除洗濯をすませてお昼を過ぎたこの時間、あとは食材を買い込んで夜の飲食店側の対応をする流れになります。
『マーケット』は昼間もやっています。夜はよすがら市、昼はひねもす市として、24時間営業というよりは一個の街のように機能しているようです。
夜は妖しく不透明だったこの場所も、昼は拍子抜けするほど現実的です。夜の異界じみた空気は、暗闇に浮かぶ提灯や店の明かりがもたらしているせいと言えなくもないですが、それだけではないようで。
お客『みんなくたびれてるんだよ』
それはしおれたサボテンのような人外でした。
お客『だから夜に紛れようとする。夜になれば境界があいまいになって、溶けこめる気がするから、少し落ち着く』
しみじみとつぶやいて、あとはメタノールを煽って気分が最高にハイ! ってやつになったのか、陽気に帰りましたが。
思い返せば、そういった陰鬱な気分も、夜の『マーケット』特有の雰囲気を構成する一つの要素なのかもしれません。
かすみ「……閉まってる」
目の前には幕の下りたお店があります。ここ数日、お昼に見にくるといつもそうです。
初日の夜、ガラス瓶が色とりどりのステンドグラスのように並んでいたお店。
果林先輩を見つけた場所……どうやら瓶売りは夜しかやっていないのでした。
これも、かすみがなんとかしなければならないことでした。
本屋「あら、いらっしゃい」
初日の夜に見つけたお店で昼もやっているところといったら、この本屋さんくらいでした。夜の『マーケット』の歩き方を教えてくれた本屋さんです。
目深にかぶった帽子と作業着のような服装、なんだか路上でカメと一緒に出会ったおばさんと似たような格好をしているとおもったら、やっぱりその類のヒトだそうです。
いわく、『マーケット』は『接点』由来の商品に溢れているのだとか。
『マーケット』の人外たちが『泉』と呼ぶその根源。それを閉じたいけれど、占領されちゃってすぐにはできないから、商人にまぎれて様子見とのことです。
相変わらずなんのことだかという感じではありますが。
かすみんが買出しのたびに本屋さんに寄るのは、単に彼女が人間の見た目で安心するからなのですけれど。
かすみ「ふむふむ」
得意気に本屋さんが紹介したのは『徹底考察! ワンピ○スの正体』というタイトルでした。
少なくともかすみんは要りません。あれ、今後判明することがないなら実は貴重なのでしょうか?
かすみ「あ、そっちの本は知ってますよ」
本屋「これ?」
本屋さんが持っている文庫本は『涼宮ハ○ヒの消失』でした。せつ菜先輩が部室に隠していて、かすみんが「りょうぐう」と読んだら真顔で訂正されたのを覚えています。
本屋「これは私の愛読書用だからダメ」
いや欲しくはないですけども。
かすみ「そういえば、ここって本屋なのに意外と『マーケット』の奥まったところにありますよね」
『マーケット』は奥へ進むほどこの世離れしたモノが売っています。そのルールでいくと、本という実体のあるものがこの場所にあるのは意外に感じられるのでした。
本屋「本そのものなら不思議かもしれないけど、本の中身はカタチのない体験だったり知識だったりするから」
かすみ「はぁ、そういうものですか」
本屋「読む人によって得るものも違うしね。『視点』の数だけ物語が広がるんだよ」
私たちなんかはただのバランサーに過ぎないけど、と本屋さんは続けます。
本屋「この先、あなた達っていう『視点』がどんな物語を選択するのかも自由だと、覚えておいてもいいかもね」
本屋さんで道草を食って、買出しもすませた後のこと。
風向きのせいでしょうか? お店に戻る途中で、『マーケット』に入る前にたしかに感じた潮風を鼻に受けました。
自然と足が向かってしまいます。特に理由はないですけれど、海ってそういうものですよね。
方向としては『マーケット』の入り口から反対をずっと進んだ先、冗談でも無限なのではなんて思っちゃった『マーケット』でしたが、当たり前のように果てはありました。
コンクリートで固められた海岸線。東京湾の入り口も入り口の港に、暗い水面が揺れています。
かすみんの興味は、海の向こう側にありました。
水上に架かっている巨大な白い橋……レインボーブリッジ。その先にある広大な商業地区。
お台場です。
ただ一つだけ、見慣れない建造物が……。
かすみ「なにあれ……」
思わず素で呟いちゃいます。レインボーブリッジの向こう側、お台場のちょうど海岸沿いでしょうか?
真っ黒い羊羹みたいな建造物がでかでかと居座っていました。この位置からだとフジ○レビが完全に覆い隠されちゃっているほどの大きさです。いつの間にあんなものが。
しかも、その建物の一番上にある白い物体、あれは……歩夢先輩の飛行船?
見た目のシュールさは海馬コ○ポレーションだって躊躇しそうなレベルなのですけれど。
この時代にアサヒビ○ルのウ○コビル並に異彩を放ってるのですが。
かすみ「歩夢先輩……」
空から響くあの無機質な声を思い出します。
そこに、いるのでしょうか。
そろそろと、誰かが近づいてくるのに気づいてはっとしました。
女「ちょっと、邪魔なんだけど」
若い女性でした。どこか小綺麗な外見で、けれど疲れた目をしている女性でした。袖から伸びる腕にはわずかに鱗が見えます。
女「ここに立っちゃダメでしょ」
かすみ「え、え?」
ここ、と言われて足元を確認しても、ただのコンクリートで変哲もありません。
けれど、女性は変わらずプレッシャーを与えてきます。
よくわかりませんが、そろそろお店に戻ったほうがいいかも。
かすみ「へ!?」
今度は背後から蝶女先輩まで現れました。
これはあれです。完全にサボりがバレた形です。
蝶女先輩「なかなか戻ってこないと思ったら……まったく。早くしなさい」
かすみ「は、はい!」
女「…………」
蝶女先輩「……悪かったね。この子まだ疎いから」
かすみ「……?」
蝶女先輩は女性にひと言残したようですが、特に反応はありませんでした。
蝶女先輩「あそこはあの子らの仕事場だから立っちゃダメなのよ」
かすみ「仕事場、ですか?」
蝶女先輩「そ。人の子はあそこでお客とってるの」
蝶女先輩「橋の向こうにおっきな黒い建物あったでしょ? 一時期妙な飛行船に誘われて、コナプトって呼ばれてるあの建物に人がいっぱい集まっていったけど、海岸にいるのはそうしなかった人たち」
蝶女先輩「その上『マーケット』にも深く馴染めなかった人たちが、いつの間にかあそこに立つようになったの。いつもあの建物を眺めるみたいに」
かすみ「人……」
かすみと同じ、変異を受けた人間ということでしょうか。それなら若い外見は当然です。そもそも大人たちはほとんど残っていないのですから。
もっとちゃんと話せばよかったかも。
蝶女先輩「……新入りもああならないうちに、はやく出たほうがいいよ」
それは先輩としての気づかいの言葉でした。
はやく出たほうがいい、そんなのかすみんだって同意見です。……けれど。
かすみ「……大切な仲間を探してるんです。信頼できない細い糸かもしれないですけど、それでもすがりたい情報がここにあるんです」
かすみ「大切な仲間そのものだって……だから、手に入れるまでは、まだ」
蝶女先輩「……そ」
人の子はみんなそうね、と蝶女先輩はつぶやきました。
お店に戻る途中、蝶女先輩はたびたびそう言ってまわりのお店に声をかけにいきました。
最初はこれが井戸端会議かぁと思ったのですが、ものの数分で話を切り上げるということを、すでに何店も繰り返しています。
お友達が多いのでしょうか。
かすみ「なにしてるんですか?」
蝶女先輩「ん。情報収集」
どこか後ろ暗いような雰囲気がありますが、かすみん相手に隠すことでもないようです。
蝶女先輩「地下上がり組はここじゃ立場弱いから」
地下? と聞き返す間もなく、ぱたぱたとまた別のお店に声をかけにいきます。
どういうわけか忙しそうな蝶女先輩です。かすみと海岸で出会ったのも、むしろオマケだったのかもしれません。
かすみ「? はい」
話のためにたびたび足を止めながらも、そろそろお店が近くなってきたころ、蝶女先輩は言いました。
蝶女先輩「早めに出たほうがいいよ、ほんと」
妙に言い切る彼女の視線の先には、かすみではなく。
初日の夜、管理人と名乗った彼に付き添っていたのと同じ爬虫類型の人外がいました。統率のとれた動きをしていたあの一体か、はたまた似た別人か。
そこで気づきました。蝶女先輩がお店に話をするときは、周りに彼らがいないことを確認していたと。
彼ら……『マーケット』の秩序的存在。それを避けての内緒の相談。
あらゆる欲が闇鍋で煮込まれているような『マーケット』も、どうやら単純ではないようで。
ふと見上げると、ぽつぽつと頭上の赤い提灯が灯っています。
いつの間にか日は暮れてきて、客層も変わり始めていました。
潮風は遠く、特徴的な獣臭と香辛料の匂いが下りてくる。
『マーケット』にまた、夜がきます。
(更新おそすぎですみません)
(おそすぎなんで今さらですけど、無敵級PV最高じゃあないですか?グレートですよこいつはァ……)
更新おつです。いつも楽しみに待ってます。
無敵級早くフルで見たいですね。
更新お疲れ様です
一番楽しみにしてるSSなのでいつもわくわくしながらまったりお待ちしております
無敵級の雰囲気が今作にマッチしてて驚きました
更新お疲れ様
無敵級最高すぎますね!
更新も無敵級も楽しみにしとるよ
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6日目の夜ともなれば仕事にも慣れがでてきます。
もともと家事だって苦手ではありませんし、食事の仕込みや給仕はすでに手早くこなせるようになっています。
そんなわけで、時間が余ったのでした。
かすみ「…………」
まだ賑やかに人外たちが食事やお酒を楽しむ店内……に背を向けて、かすみは裏口に向かいます。
抜け出そうという企みです。
実のところここ数日、ずっとスキを見計らっていたのですが、仕事に慣れたおかげでようやく時間ができました。
逃げ出すわけではありません。それなら昼にやっています。
ただ、果林先輩に会えるのは夜だけみたいですからね。夜に時間をつくる必要があったというわけです。
それだけあれば果林先輩を連れ出すこともできる、かも。
なんてことを考えながら、裏口の扉に手をかけた時でした。……すぐ外から声が聞こえると気づいたのは。
ママ「結論はでた?」
管理人「ああ、もういいだろう」
その声はどこか暗い響きをもって耳に残っていました。
お店のママと『マーケット』の管理人。いわば『マーケット』の運営する側の二人です。
こんなところでなにを?
管理人「宮下愛の知り合いだというから慎重に様子をみていたが、問題ない」
聞き間違いでしょうか? 愛先輩の名前が出たような気がします。
たしかに「宮下愛」という人名はあの情報屋を介して共有されているのですが。
しかし、おかしな言葉でした。「宮下愛の知り合いだというから」……それは愛先輩のことを知っているヒトの言葉でした。
少なくとも、どうやらかすみの話題のようです。
ママ「じゃあ、好きにしていいんだね」
管理人「約束どおりに。今後も預かってもらうが、生きてさえいればあとは自由だ。命があるだけでも餌になる」
ママ「ああよかった。人の子のままだとつく客もつかないから」
せめて喉に蚯蚓は移植しないと、とママはつぶやきました。
好きにしていい、生きてさえいれば、ミミズは移植……頭の中で、彼らの言葉がうつろに響きます。
かすみの話題だと思っていました。けれど、自分に降りかかる災禍にしてはおおげさすぎて、受け止めることができません。
逃げて! 心の中で誰かが叫んでいました。
それでもかすみの足は地面に根が生えたように動きません。固まっていました。
痛みが喉元を過ぎ去るのをただ待つように、かすみはじっとしていました。
けれどもちろん、それでなにかが解決するはずもなく。
裏口の扉が、ぎぃと開きます。
管理人「おや」
おやおやおや。管理人は笑いました。
人間のように笑いました。
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管理人「『マーケット』はいい場所だ」
彼はそんなことから話し始めました。
かすみをお店から連行し、どこか薄暗い部屋で椅子に縛りつけたあとのことでした。
管理人「『泉』を中心に発展させたおかげで、訪れるモノの望みを見せてくれる。それにつられて皆が集まる、頭数が増えて街のようになる」
ぎりぎりと縄が肌に食い込みます。
動かせるのは、あとは口だけでした。
かすみ「……なんの話ですか」
管理人「宮下愛とエマ・ヴェルデに繋がる話だ」
愛先輩だけじゃなく、エマ先輩のことまで……。
順番に話そう、と彼は続けます。
管理人「あの日、人間たちのほとんどが死ぬか原型もないほど樹化してから、地上の支配者はいなくなった」
管理人「あとに残ったのは若い人間、大変異して人間性を獲得した我々、それから新政府と名乗る何者か」
管理人「新政府は、実のところ脅威ではない。生き残った人間を集めたり、人間の偽物を放って無垢に生活させているが、それだけだ。目的がわからない以上警戒はするが、いまのところ障害にはならない」
管理人「だから……玉座が空になったこの時代、次の支配者に一番近いのは我々というわけだ」
黙って聞きつづけることはできませんでした。
かすみ「支配って、なんのことですか。そんな話どうでもいいですよ、それより愛先輩やエマ先輩の……」
管理人「お前たち人間はみんなそれだ」
かすみの言葉をさえぎって、彼はふん、と鼻を鳴らします。
管理人「前時代の思い出を大切に抱いて、無事かどうかもわからない愛する相手を探して、それでどうする?」
かすみ「え?」
それは虚をつく問いでした。
管理人「運良く見つかったとして、ほそぼそと生きていくのか? 生活の基盤はどうする? いつまでライフラインが持つと思う?」
管理人「『マーケット』も無限じゃない。ここ以外の似たような『泉』はどんどん閉じている。世界の恒常性とでも言おうか、そういう力が働いて、いずれ空気中に充満した不確定性の胞子も消滅するだろう」
管理人「だが『マーケット』の街のように繋がったコネクションは今後も活きる。みな新しい役割を見つけ、雑多とした我々にも名前が与えられ、新しい世界が確立する」
管理人「いまここが黎明期だ。ここで過去にすがっているお前たち人間に未来はない」
かすみ「地下……?」
それは知っている話でした。壁さんから聞いた二人のお話……けれど絶対、派閥なんて打算的なものじゃなくて、もっと純粋な……。
管理人「カリスマ性というのか……『アイドル』という人種がこの時代にこれほど厄介だとは思わなかった」
管理人「我々が地上を支配していく上で彼女たちは邪魔だった。だから――内側から破壊した」
かすみ「なっ……」
管理人「DDD、夢に堕ちる薬を地下でひっそり広めさせた。『アイドル』という夢を与える人種との相性は最悪で、見事に彼女たちのコミュニティは崩壊したわけだ」
かすみ「あ、あれは……あなた……あんたが!」
管理人「知っていたのか。いや、なるほど、それで『マーケット』に流れ着いたわけか」
管理人「そのとおり。行き場を失った地下の連中も吸収して、『マーケット』はさらに大きくなった」
管理人「宮下愛を探しているという人間が来たら教える……あの情報屋とはそう契約していてね」
そういって彼は懐から白い封筒を取り出しました。あの、愛先輩の居場所が書かれていると最初の夜に告げた封筒です。
彼はそれを無造作に冷たい地面に投げ捨てます。
ひらりと舞った中の紙は……白紙でした。
かすみ「最初から……」
だまされていた。いや、骨折り損のくたびれ儲けは覚悟の上ではありました。
けれど、悪い想定よりも、よっぽどたちの悪い状況に思われました。
管理人「逆に少し調べさせてもらった。どうやらお前も『アイドル』をしていたらしい」
管理人「『アイドル』のカリスマ性が人心掌握に有用だとは理解した。だから今度はうまくコントロールして使えないかと、しばらく様子を見ていたが……」
管理人「こうしてよく見てやはり確信した。お前は彼女たちとは違う――――カリスマ性のない、普通の人間だ」
アイドルは利用するものじゃない! とか。
怒りの気持ちが言葉になって爆発しそうなくらい、ぐるぐる高まっていたのに――――急にしぼんでいくのを感じました。
かすみ「…………っ」
ああ、どうして、この状況で。
普通といわれて、こんなにショックを受けちゃうの。
かすみんは――――。
かすみ「え……ひっ」
薄暗い部屋のすみから、誰かがかすみに近づいてきました。
いつからいて、準備していたのか、その人外の手には注射器が構えられています。
すみれ色の液体が詰まった注射器でした。
管理人「無垢の偽物を消滅させずに利用できないか試している過程で、偶然固定化できた抽出液。普通は流通のために固体化させているが……そういえば、お前は近江彼方とも繋がっているらしいな」
管理人「この因果に意味はあるのか……いや、もう大したことじゃない」
管理人「お前には現実を忘れて、仲間を呼ぶ餌になってもらう。そのあとは店に引き渡す約束だ」
かすみ「や……いや!」
薄暗いなかで注射針の先端が鋭く反射しました。逃げようにも、荒縄がぎりぎりと食い込むだけで暴れることさえ叶いません。
つぷりと。
容赦なく、針がかすみの肌へ侵入します。
じんわり、じんわりと夢の結晶が血流に混じっていく。
管理人「今度は『アイドル』らしい仲間が現れればいいが……」
かすみ「違う……かすみは……かすみんは」
薄れていく意識のなかで、なにかを否定しようとして。
けれど現実は紐切れのように散り散りに解けていって。
痛みは消えて、重力は反転して。
耳鳴りの薄膜が繭のように世界を分断する。
明滅を繰り返した視界が最後に捉えたのは、白でも黒でもなくて。
すみれ色の歌がどこかから響きました。
「かすみちゃんは可愛いね」
その声は白い情景とともに浮かび上がります。
白いシーツ、白いカーテン、清潔そうに見えるそれらは、けれども、そう演出しなければ不潔となっていく現れでもありました。
鼻をつくのはつんとした消毒液と、ねっとりした排泄物の臭い。
「かすみちゃんは可愛い」
それが彼女の口癖でした。
夕暮れの病室で、可愛い、可愛いと、いつも頭をなでてくれました。
――――かすみのお母さん。
白いベッドに乱暴に乗っかって、気ままに抱きついても決して怒ることがなくて。
ただ優しく、頭をなでてくれながらお母さんはそういってくれました。
「かすみちゃんは可愛い」
物心がつく前から、お母さんはずっと入院していました。
だからかすみはそれが当たり前だと思っていて。
重い病気にかかっているなんて、知りもしませんでした。
可愛い、可愛いと、お母さんはいつも優しく囁いてくれます。
だから、かすみはそれが一番の褒め言葉だと理解していました。
だから、いつもそう言ってくれるのを待っていました。
「かすみちゃん」
でも、いつからか、お母さんの言葉はつづかなくなりました。
お母さんはかすみの名前を囁きます。ほそぼそと、口元だけを動かして。
いつからでしょう。お母さんは身体を起こしていることもなくなりました。
それから、身体が小さくなっていくような錯覚がありました。
かすみが小学生になって、少し大きくなってきたからそう感じたのかもしれません。
けれどそれ以上に、やせ細っていたのは、思い返せば明らかでした。
注意深く耳を傾けなければ、ただの呼吸音にも聞こえるその中に、お母さんの囁きは混じっていました。
手を握れば不自然なほどさらさらと乾いていて、けれど驚くほど強い力で握り返してくれました。
「かすみちゃん」
可愛いねと、ただ続けてほしかった。どれだけか細い声でも、きっと聞き分けてみせるから。
でも。
「――――大好き」
その言葉を最後に、お母さんはなにもいってくれなくなりました。
その意味を、かすみは理解することができませんでした。
可愛くないと、お母さんに褒めてもらうことができないんです。
可愛くないと、お母さんは頭をなでてくれません。
可愛くないと、お母さんの手は力を失ってしまいます。
可愛くないと、お母さんはどこかに行ってしまう。
かすみ「だからかすみは、世界一可愛くならないと」
かすみの背後で、誰かが責め立てます。
少女「スクールアイドルになっても、お母さんは帰ってこなかった」
それはいつかの罪でした。
それはいつかの罰でした。
少女「ずっと自分磨きしても、可愛くはなれなかった」
そんなことない。
そんなことないと、否定したくても。
少女「みんなのほうが、キラキラ輝いていた」
少女の言葉はかすみ自身の言葉でした。
少女は過去の、そして現在のかすみ自身でした。
身体を持たない夢の世界で、少女の言葉はナイフよりも鋭利にかすみの心を刻みます。
少女「可愛くなれない……」
それは自分に諦めを促す言葉でした。
かすみ「ああ、たしかに」
きっと、溺れてしまえば楽になれるのです。
抗わず、自分を責め続けて、上を目指さないことの、なんて楽なことでしょう。
かすみ「そう、このまま……」
かすみ「――――え?」
お母さんの声……じゃない?
「かすみちゃんすっごく可愛い!」
その声は、ああ、どうして忘れていたのか。
「よしよし」
かすみ「えへへ」
お母さんと同じように、頭をなでてくれるその人は、かすみんの大好きな――――
ーーーーーーーーーーーー
かすみ「――ん痛ぁっ!?」
思わず叫んで、それから視界が回りました。
ヒリヒリとほっぺたが痛みます。
蝶女先輩「やれやれ」
かすみ「へ? あれ?」
前を見れば、承○郎ばりにやれやれしてる蝶女先輩がいます。
えーと、たしかかすみん、DDDを無理やり投与されて、それから……。
かすみ「う……」
思い返そうとして、軽いめまい。まだ頭が起ききってないみたいです。
蝶女先輩「おかしいと思った。管理者の連中が急に少なくなったと思ったら、新入りまでいなくなるんだから」
蝶女先輩「まったく、まさかの初指名でアフター緊縛SMドラッグプレイをしているわけじゃなけりゃ、面倒事ね」
さらっと気持ち悪い単語を羅列されるのは普通にびびります。いや、それが隣り合わせの世界で働いているのですけれど。
かすみ「どうしてここに……?」
蝶女先輩「いやこっちのセリフだけど。外はお祭り騒ぎよ」
かすみ「?……あぅ」
蝶女先輩「ずいぶんと盛られたみたいね」
蝶女先輩「新入り、よく聞きなさい。なにがあったかは知らないけど、『マーケット』から逃げるなら今しかない。管理者の少なくなったこのタイミングを狙って、地下上がり組が叛乱を起こした今しか」
蝶女先輩「次にチャンスがきたらって話をして、どういうわけか、まさかこんなすぐにくるとは思わなかったけど」
かすみ「え……?」
蝶女先輩のいっていることは理解できませんでした。
同じです。『マーケット』にはじめて入ったあの夜。なすがままに管理人にお店へと連行されたあの夜と。
かすみの知らないところで話は進んでいて。
かすみはまた、わからないままに『マーケット』を出るのでしょう。
なにも得られないまま……。
かすみ「っ……だって、だって」
かすみ「なにもできないっ……みんなに会いたいだけなのに……そんなこともできなくて」
なぜだかひどく悲しい気分で。
一度せきをきってしまえば、もう止まりませんでした。
かすみ「たった一枚の紙切れにだまされて……でもっ信じるしかないから……必死でっ」
蝶女先輩「…………」
かすみ「やっぱり……やっぱりかすみはっ」
かすみ「……え」
気づけば、蝶女先輩がぎゅっと手を握っていてくれました。
蝶女先輩「やれやれ、DDDがダウン方向に入っちゃったの? 教育係として言うよ。あんたは、十分働いていた」
かすみ「あ……」
暖かい手のひらに、くしゃりと何かが包まれています。
蝶女先輩「『マーケット』でなにを取引したのか、おおよそ予想はつくけど、その対価としては十分にね」
かすみ「これって……」
広げてみると、それは白い紙きれ。管理人が封筒から取り出した、なにも書かれていなかった虚偽の紙。
そのはずなのに――――じわりじわりと、黒い斑点がにじんでつながって。
やがて、意味のある文字がそこに浮かび上がっていました。
かすみ「地名……まさか」
蝶女先輩はにこりと、微笑みました。
いってらっしゃい、と。
相変わらず引き込まれる
夜の闇の中で、『マーケット』の赤い提灯よりも激しく、お店がごうごうと燃えています。
それもひとつだけでなく、いくつものバラックが燃え上がり熱気と燃えカスが渦を巻いています。
どこかから叫び声や破壊音まで響きました。
叛乱、というよりも、暴動のような状態でした。
ちょっと見ない間に、アメリカドラマみたいな崩壊っぷりです。
蝶女先輩「これが起きる前に出なよって言いたかったんだけどね」
蝶女先輩はどこか楽しそうでした。
その表情と、管理人の説明がつながって、ひとつの理解が実感として染みてきます。
『マーケット』は彼らの国で、彼らの世界なのでした。
ここには彼らの人生があって、すでに前時代とは独立しているのです。
蝶女先輩「いい? DDDはある程度は吸い出したけど、まだ完全には抜けきってない」
かすみ「す、吸い出した!?」
蝶女先輩「そう、蝶らしく」
とんとんと、彼女は自身の唇を指しました。
眠っている間にさらっと吸血されていたようです。助けてもらったということなのでしょうが、なんだかムズムズします。
蝶女先輩「いまは意識が覚醒しているけど、たっぷり盛られたみたいだし、体内に残ったDDDはまたぶり返してくる」
蝶女先輩「ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返すように夢と現を行き来する……それが本来のDDDの作用だから」
蝶女先輩「だから、意識のはっきりしてるうちに素早く安全圏まで逃げること、わかった?」
かすみ「は、はい」
蝶女先輩「そ。じゃあ、元気で」
そんなあっさりとした言葉を最後に、彼女はひらりと、暴動の激しいほうへと向かっていきました。
かすみ「あの!」
その背中に、必死に叫びます。
かすみ「ありがとー!!」
周りのノイズがひどくて、ちゃんと届いたかどうか。そんな心配をよそに、彼女は叫び返しました。
蝶女先輩「うるさい! はやく行きな!」
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怒号と熱気の吹き荒れるなか、いまだ危機の渦中にあって、けれどどうしても寄るべき場所がありました。
瓶売りのお店……果林先輩を連れ出さなければなりません。
かすみ「………う?」
走りながら一歩、よろめきます。
DDDの残滓……時間がない、そうわかっていても、ここで果林先輩を見失えば二度と取り返せない予感がありました。
あのロイヤルブルーの輝きは、情報と違って明らかにそこにある実体です。
ぜったいに手に入れて、果林先輩を取り戻す。そうしてやっと、『マーケット』を後にすることができるんです。
瓶売りはまだ残っていました。お店にまだ被害はないようですが、急いでガラス瓶をアタッシュケースにしまっています。
ばくんとケースが閉じられる直前、果林先輩のガラス瓶も丁寧にしまわれているのを確かに認めました。
かすみ「………!」
時間がないということと、果林先輩がモノとして扱われているその様子にムカムカして……かすみは思いっきり、体当たりをかましました。
瓶売り「ぐぇ……!?」
瓶売り……耳ざといコウモリは骨格が脆いのか、簡単にくずおれました。それでも、アタッシュケースは執念深く掴んでいます。
かすみ「果林先輩を返して!」
瓶売り「!?……な、なんだ、火事場泥棒か!?」
かすみ「それはそっちでしょ! だってもともと……」
なにか感情をぶつけようとして、けれどうまく言葉を紡ぐ間もなく……目前に黒いものが突きつけられました。
瓶売りの手に握られた、まるでオモチャのようなそれは紛れもなく。
かすみ「じゅ、銃……?」
無機質な銃口を前に、そんな角張ったセリフを投げられました。
まるで予期しなかった事態に身体が硬直します。
拳銃。わかりやすい死の形。
荒廃した世界にあって、前時代の人類の武器がこうして自分に向かう展開は、ちゃんとゾンビ映画を見ていれば予想できたな、なんて頭のどこかでぼんやり思います。
かすみ「あ……」
せめてガン=○タを見ておけば……今際の際にしては脳天気な空想が浮かぶのもつかの間。
どずんと、重い音が響きました。
かすみ「へ?」
宙を舞ったのは銃弾ではなく、瓶売りでした。……強靭な足蹴で蹴り上げられて。
店主B「やぁ嬢ちゃん」
かすみ「え……あっ! 今川焼きの!」
颯爽と現れて瓶売りの横っ腹を蹴り飛ばしたのは、初日の夜に今川焼きを振る舞ってくれたあの店主、色が反転したパンダでした。
店主B「嬢ちゃんに渡したのは大判焼きだったはずだが……ともあれ、どうかね。あの日『マーケット』深くに招き入れたことで生まれたこの危機を救って、対価としてはとんとんといったところかね」
かすみ「あ、ありがとうございます……?」
彼の中では理屈があったようで、ちょっぴり困惑して思わず疑問形になってしまいましたが。
いやこのパンダ、イケメンすぎますよ。
シャバ○ニよりイケメンじゃないですか?
暴動の喧騒の中で、瓶売りが這いつくばりながら苦しんでいました。
色が反転したパンダの筋骨逞しい足蹴がよほど効いたのかと思ったのですが、どうやらそれだけでなく。
瓶売りが手をのばす先には、アタッシュケースが開いた状態で転がっていました。
色とりどりのガラス瓶は路上に散乱し、落下の衝撃のためか亀裂が入っています。
かすみ「果林先輩!」
思わず飛び出して、果林先輩のガラス瓶を両手に抱きます。人肌のように暖かなそれは、神秘なお香のようにロイヤルブルーの光が揺れています。
けれど、果林先輩のガラス瓶にもヒビが入っていました。
店主B「なるほど、魂か」
かすみ「だ、大丈夫なんですか、これは」
店主B「問題ないさ。あとは『マーケット』が判断する……『商品』として適切であればガラス瓶にとどまり、無理に詰めたとかで適切でなければ元の器に戻る」
かすみ「『マーケット』が……?」
『マーケット』に意思があるような不思議な言い方でしたが、かすみはそれをすでに体験していました。
ついさっき、ただの白紙に地名が浮かび上がったあれも、起源は同じなのでしょうか。
店主B「まぁ、あの瓶売りの様子を見るに……ほら」
かすみ「あ……」
ぽう、と。
手元で青い光が強まりました。
ガラス瓶から抜け出た光をはらんだ弱々しい風が、『マーケット』の夜空に伸びて。
若草色や琥珀色の風が暴動の炎よりも強く輝いて、まるで自由を祝福するように妖しく震えています。
神秘の風を得た光は鳥よりも早く、それぞれの家へとひとつ、またひとつと消えていきました。
そして……最後に残ったロイヤルブルーの光は、宝石みたいにきらめいて、夜の帳を照らしています。
それは星のように、銀河のように、遠い存在のようでありながら、意外なほど近くで寄り添ってくれる温かみがありました。
かすみ「果林先輩……」
かける言葉は、ひとつだけでした。
かすみ「迷子にならずに、ちゃんと帰ってくださいね」
青い光は最後にちかちかと瞬いて――抗議でしょうか?――遠く空へと駆けていきました。
瓶売り「………」
放心する瓶売りを気にせず、色が反転したパンダはあっさりとした感想をつぶやきます。
それから、じゃあねと、簡単に別れを告げて、暴動の中心へと進んでいきました。
かすみ「やった……」
瓶売りとは別に、かすみも放心に近い心境にありました。
愛先輩の居場所を手に入れ、果林先輩を解放できた……いろいろありましたが、『マーケット』に入った当初の目的をおおよそ完遂しています。
あとは無事に出るだけ……。
かすみ「……あぅ」
……このすみれ色の眠気が我慢できなくなる前に。
すみれ色にかすむ視界の中で、なにか変わったことはありませんでした。
店舗の消火に奔走する人外や、暴動に加担する人外という相反するように見えるグループは、渦のように混じり合って『マーケット』にひとつの盛り上がりを形成していきます。
意識が揺らいでいるせいか、夢へと近づいているせいか、その光景は即物的な認識をカットして、観念的な印象としてかすみに伝わりました。
すべてが崩壊に向かうかと思われた大きな熱気は、しかし破壊を伴いながらも、より生き生きとした活力を蓄えて『マーケット』に還元していくようでした。
――――東西、東西……たったいま貰いましたる花の御礼……ちょいと読み上げ奉る――――そんな口上がどこかから届きます。
一緒に和太鼓の重い響きと、笛の音まで聞こえました。
それは祭りの儀式。
それはある意味での、『マーケット』の日常でした。
昏く沈んでいく自我の中で、反対に冴えていく直感が、ひとつの未来を想起します。
かすみは『マーケット』を出るけれど。
盛況も、貧困も、奇跡も、闇も、恵みも、破壊も、狂乱も、慈しみも――――すべてを内包して、『マーケット』はこれからも在るのでしょう。
それはひとつの可能性として。
走る。
はやく、『マーケット』の外へ。外に出れば、お父さんの車があります。
車にのって、ひとまず遠くへ。どこかで休んで、それから紙に書かれた地名か、せつ菜先輩の部屋へ。
そうしたら、かすみんと、せつ菜先輩と、果林先輩と、愛先輩と、きっとエマ先輩もいて、同好会の半分が揃います。
半分も揃うんです。果てしなく思えたこの旅で、半分も揃えば、残りのみんなだってすぐに決まってます。
かすみんが同好会を繋いでみせる。
かすみんが同好会を守ってみせる。だってかすみは……。
前にも、一度――――
『マーケット』を抜け出た先、炎上する店舗も赤い提灯もなく、真っ暗なはずのその場所に、灼熱の光源が黒く煙を上げていました。
そこにあったはずのものは、お父さんの車でした。
いま眼前で燃えているそれが、恐らくは。
管理人「一つ尋ねたいことがある」
待ち構えていた彼が、なんの前振りもなく言葉を発します。
これが当然であるように。
これがあるべき結果であるように。
周囲には彼の仲間が控えていて、とても隙は見つかりません。
管理人「目が覚めたらゆっくり聞かせてもらうが」
すみれ色の帳も、宵闇の包囲も、どちらも抜け目はありません。
瞼は重く、けれど開いてどうなるというわけでもなく。
足は重く、けれど動いてどうなるというわけでもなく。
管理人「逃げ出したお前と一緒に例の白紙も消えていたが、まさかそこに書かれていたのか?」
管理人「だが、労働の対価だとしても『マーケット』に無から有は生まれない。そこに特別な『接点』が……繋がりがない限り」
いっそ夢に落ちてしまえば楽になれるのに。
それでも最後まで、意識が夢よりも現を選んだのは、声に出して答えたい問いかけがあったからでしょうか。
管理人「お前は一体、なにに繋がっている?」
かすみ「かすみ達が繋がっているのなんて、当然なんだから」
かすみ「だって――――バラバラなみんなを一人一人見守って、繋いでくれるあの人がいるから」
自分から出たその言葉の意味を、自分で理解するだけの余裕はなく。
それでも、すみれ色に染まる地面に踏み出した一歩は、果たして実際に踏み出していたのかどうか。
前に揺れた重心は、そのままふわりと浮き上がり。
つかの間の無重力はひどく心地よくて。
固く撚った集中の糸が水に溶けるようにほぐれる瞬間。
最後に見たのは、青色の……
かすみ「にひひ」
紙袋のコッペパンを見るたび、にやにやが止まりません。
ジャムの代わりにからしをたっぷり注入したかすみん特製コッペパン……これでライバルをノックアウトです。
もちろん、かすみんが食べる分はわかるように印をつけてあります。なんて賢い! 可愛いし賢いかすみん!
KKKですね!
果林「あら、かすみちゃん早いのね」
せつ菜「お待たせしました!」
扉を開けて二人の獲物がやってきます。ふふふ、まだニヤけちゃだめ、我慢我慢です。
かすみ「はい。活動前のエネルギー補給というやつです、ぜひぜひ」
せつ菜「美味しそうです!」
何食わぬ顔でコッペパンを手渡して、見事にからし入りを持たせることに成功します。
にひひ……いや、まだ我慢我慢。
なんだかすんなり事が運んでいますが、最後まで気は抜けません。
すんでのところでしっぺ返し、なんてありきたりですからね、注意しないと。
果林「私も、いただきます」
でも、二人はなんの警戒もせずコッペパンを口にして。
かすみ「あ……」
一瞬後に訪れる二人の苦しそうな表情を想像して、すごく、嫌な気持ちになって。
自分が招いた結果なのに、だめ! なんて思っちゃって。
もぐもぐと咀嚼を続ける二人の表情は……けれど、想像とは違っていました。
果林「ふふ、美味しい」
せつ菜「う~んっさすがかすみさんですね」
口を離した二人のコッペパンに詰まっているのは、からしではなく、ありきたりなジャムに変わっていました。
変に思って自分の持つコッペパンを割ってみても、そこにはジャムが覗いていて。
まるでからし入りなんて最初からなかったかのように。
そのことが、どういうわけかとても安心しました。
果林「知っているもの、かすみちゃんが優しい子だって」
せつ菜「同好会の誰よりも、同好会のみんなが大好き、ですよね」
気づけば、二人はかすみのすぐそばにいて。
ぎゅっと、優しい抱擁で温めてくれました。
二人の先輩の抱擁は、これ以上なく嬉しくて、幸せな気持ちにさせてくれるはずなのに。
そこに込められた意味を読み解くことが困難で、ふつふつとした焦燥が、胸の内に広がっていきました。
果林「大丈夫よ」
せつ菜「はい、すべて、任せてください」
優しくあやすようなその言葉は、安心させるためのものなのに。
どうして反対に、不安な気持ちが増していくのか。
いやだと言おうとして、けれど抱擁は強く、意思を表明することすら困難で。
すみれ色の夕暮れに、かすみは二人に守られながら、深く溶けていきます。
いつか見た、9色の虹を心に描いて。
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夢から醒めて、最初に感じたのは揺れでした。
ゆらりゆらりと、優しい揺籃。暖かなそこが、誰かの背中だと気づくのはすぐでした。
懐かしい声がしたから。
果林「……目が覚めた? かすみちゃん」
かすみ「え……か、果林先輩……!?」
すぐ目の前には果林先輩の髪の毛があります。かすみは果林先輩におぶられているようでした。
果林先輩です。
果林「ふふ、驚かせちゃったかしら」
かすみ「う、うそ……夢? これも……」
まだ空ろな頭を動かしてあたりを見回しても、そこは暗い路上で、夢にしてはどこか殺風景に過ぎます。
かすみ「え……?」
果林先輩は一歩一歩、かすみに話しかけながらも、暗い道を進んでいきます。
まるで立ち止まることが許されていないかのように。
果林「ごめんなさい、かすみちゃん。それから、ありがとう。私を助けてくれて」
果林「全部、憶えてるから……本当に、ありがとう」
かすみ「果林先輩……」
目頭が熱くなって、視界がにじみました。ぼろぼろとこぼれる涙を、止めることはできませんでした。
後ろから果林先輩の肩にぎゅっと抱きついて、瞼をおさえて、それでも大粒の涙は痛いほどに溢れてきます。
かすみ「ごめっ……ごめんなさい果林先輩……いま、今だけは」
果林「なにいってるのよ。かすみちゃんは後輩なんだから、本当はもっと甘えていいの」
かすみ「……っ」
久しぶりに――ほんとうに久しぶりに――話す果林先輩は、やっぱり大人で。
敵わないな、なんて心のどこかで思っちゃうことが、どうしてか誇らしくて、嬉しくて仕方ないのでした。
再会に水を差したのは、すみれ色の幻影。
それは再び夢に落ちる兆しでした。
でも、いまは一人じゃないから……。
果林「――かすみちゃんみたいに可愛かったらって、思ったことあるの」
かすみ「……え?」
それは想定外の果林先輩の言葉でした。
果林「本当よ。一度や、二度じゃないくらい……」
かすみ「な、なんの話ですか? 急に」
普段なら、鼻を高くして聞き入りたい話だというのに。
この時代に慣れてしまったかすみは、そこに不穏な気配を感じずにはいられませんでした。
果林「セクシーに、クールに……そうありたくなかったわけじゃないけれど、自然とそうなっただけで」
果林「他の可能性も、なんて」
かすみ「果林先輩……!?」
一歩一歩、たしかに踏みしめていた果林先輩の足は、けれどそこでくずおれました。
慌てて背中から降りて、そこでようやく気づきます。
暖かく感じていたそれは、果林先輩の血液だったということ。
対照的に果林先輩の身体は、少しずつ冷たくなっているということ。
ようやく対面した果林先輩の表情は、どうしてこんなに、安らかなのか……。
かすみ「だめ、だめです果林先輩……どうして」
ショックと一緒に、夢に落ちる直前の状況を思い出します。
あの包囲から、意識のないかすみを連れて、どうやって抜け出したのか。
どうしてかすみが無事で、果林先輩が傷ついているのか。
どうして……。
かすみ「…………うぅ」
果林先輩の身体の傷口をおさえても、なにも効果が見られません。
なんとかしたいのに、それなのに……すみれ色の誘惑は、この状況下でも容赦なく襲いかかります。
いっそのこと、いまが夢なら。
これがただの悪夢なら、醒めればいいだけなのに。
それは追手でした。新たなアイドルを求める『マーケット』の追手でした。
かすみには浅く呼吸を繰り返す果林先輩を、必死に抱きしめる以外にできることはありませんでした。
果林「かすみちゃん」
逃げてと、口元で果林先輩は囁きます。
その声は聞きたくなくて――いつかの記憶を刺激するようで――より強く、果林先輩を抱きしめます。
そのまま、追手と、夢と、どちらかが追いつくまでこうしていようと、覚悟を決めたかすみの元に先に現れたのは……意外にもそのどちらでもなく。
せつ菜「――お久しぶりです。かすみさん」
かすみ「せつ菜、先輩……?」
涙で歪んだ視界の向こう側で、悔しそうに頭を垂れるその人は、紛れもなくせつ菜先輩でした。
生徒会長の中川菜々ではなく、優木せつ菜の姿をしていました。
かすみ「ほんとに、せつ菜先輩……? でも、あの根っこは」
せつ菜「両親は今現在も、中川菜々を縛っています」
え? と困惑するかすみを横に、せつ菜先輩は果林先輩を背負います。
優しく、けれどキビキビとしたその所作だけで、記憶の中のせつ菜先輩と一致しました。
せつ菜「一言でいえば、これが私の変異なんです。中川菜々と優木せつ菜の分離」
かすみ「分離……?」
せつ菜「ええ……」
短く答えるせつ菜先輩の表情は、決して晴れていませんでした。
そういってせつ菜先輩が取り出したのは、折りたたまれたノートの切れ端です。
せつ菜「憶えてますか? みんなで言葉を出し合って、歌詞を書いていたことを」
せつ菜「完成したんです。かすみさんが出発したあの後すぐに……なぜだか、かすみさんと触れていたあの夜に、言葉が自然に繋がって」
せつ菜「まるで、元からあるべき形が決まっていたみたいに……」
せつ菜先輩はかすみを見つめていました。正確には、かすみを通してどこか遠くを見通しているような瞳でした。
でも、そんなことよりも。
かすみ「どうして、いまかすみに渡すんですか……?」
せつ菜「……………」
嫌な風が首元をなでました。
せつ菜先輩の申し訳なさそうな表情は、いったい何を意味しているのか。
果林先輩を背負って、せつ菜先輩は毅然と告げます。
せつ菜「分離するとはいいましたが……優木せつ菜には中川菜々が必要で、中川菜々には優木せつ菜が必要なんです」
せつ菜「両親の目を盗むような子供だまし……そう長くは持ちません」
果林さんもきっと……短く言って、せつ菜先輩は追手の方へ向きました。
その行動を、かすみはどうしても理解できませんでした。
かすみ「いや、いやですせつ菜先輩……どうして、せっかく」
身も心もボロボロで、それだけの言葉をちゃんと発することさえできたかどうか。
やめてくださいと、お願いだからただ一緒にいてよと、そう叫びたいのに。
思うほどに喉はつまって、焦るほどにDDDは血液を巡って。
せつ菜「あ……ふふ、そういえば、丁度いいセリフがありますね」
なんてうそぶくせつ菜先輩は、最後にちゃんと笑っていたでしょうか。
せつ菜「征ってください、かすみさん。手始めに世界を救うんです!」
――――そしてかすみの意識は翻り、三度目の夢に落ちる。
せつ菜「あなたは……いえ、そう、あなたが……」
せつ菜「かすみさんのこと、よろしくおねがいしますね」
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かすみ「?」
視線の先では、果林先輩とせつ菜先輩が歩いていました。
二人の先輩。二人のライバル。
負けないと思っているけれど、二人の背中はやっぱり遠くて。
追いついてやる! と思って追いかけてみたら、実は向こうからもかすみんの方へ近づいてきていて。
三人一緒になって、どこに行くんだっけ? なんて頭をかしげて。
とりあえずその場で話していたら、それだけで楽しくて。
風の薫るその場所で、充足と平穏の下に、かすみたちは一つの歌を歌いました。
それはいつかの日常として。
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目を覚ましてすぐ、自分が手を伸ばしていることに気づきました。
空に向かった手は、けれどなにも掴んでいません。
代わりに、隣から声をかけられます。
エマ「おはよう、かすみちゃん」
かすみ「エマ先輩……」
天使のように微笑むその人は、いったいいつぶりに見たでしょうか、たしかにエマ先輩で。
このあとすぐにわかることですが――――かすみは例の白紙の場所にいて。
そこにはエマ先輩と、愛先輩と、それからりな子が集まっていて。
果林先輩とせつ菜先輩の姿はありませんでした。
(次は最終、『あなたと彼女と彼女の愛』)
やっと果林さん復活する!って喜んだのもつかの間だった…二人がどうなったのかすごく気になる
続きが気になって仕方ない
更新楽しみにしてます
果林先輩…そして最終章期待してます
あなたちゃんの影がチラチラしてるのも…
もう終わりが近いのかぁ
楽しみに待っていた甲斐があった
続きも期待してる
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