「令安かすみん物語」cι˘σ ᴗ σ˘* ~13~
パン作りにイースト菌が必要だということと、もやし○んで読んだふんわりした知識のみで、とても議論できるほどではありません。
しかし、憶えているでしょうか? 我が同好会には、菌を素手でコントロールし利用するスペシャリストがいることを。
ひとくちに菌といっても色々あるんだけどね、とぬか漬けの主――愛先輩は語ります。
愛「細菌、古細菌、真菌……名前は似てるけど、まったくの別ものでね」
愛「すべての生物は3つのドメイン……細菌と古細菌と真核生物に分けることができるんだけど、真菌はヒトと同じ真核生物に入る」
愛「真菌が細菌よりもヒトに近しいってのは不思議だよね」
真菌に親近感わいちゃうかも! なんちゃって、とだじゃれを欠かさない愛先輩です。
愛「乳酸菌ひとつとっても複数種が混在したりしてるし……そんなわけで、ぬか漬けは毎日手入れしてバランスを整えないといけないんだね」
愛「丁寧に面倒を見てあげれば酸味と旨味と香りが整った美味しい漬け物ができあがる……これは複雑な菌のバランスが生み出す唯一無二の味なんだねぇ」
愛「あ、ぬか漬けに話それちゃった」
てへ、と愛先輩は可愛らしく舌先を見せます。
愛「さて……細菌、古細菌、真核生物」
愛「この3つのドメインは遺伝子から進化の過程を推定して決めたものでさ、すべての生物の共通祖先からまず細菌と古細菌に分かれて、古細菌の一部がさらに細菌を取り込んで真核生物に進化した、なんて考えられてるんだよ」
愛「この進化系統樹でみると、ヒトを含めた動物や真菌、植物はずいぶん近縁な種に感じちゃう」
愛「あるいは、それが……」
というわけで、ここから先はかすみんのお話です。
きのこ🍄について。
愛先輩の話に合わせると、きのこは真菌に属します。ヒトと同じ真核生物というやつですね。
また、自然界では分解者という役割を持つ、ということはうっすら憶えていて……まぁ、それ以上の知識は残念ながら出てこないのですけれど。
かすみんとしては、この荒唐無稽な現象へ理屈を当てはめることに、どれだけの価値があるのだろうと思っちゃいます。
理屈から逃げる言い訳ではないですよ?
衣装箪笥が魔法の国につながるように。
サメにチェーンソーがつきものであるように。
理解しがたい現象は、その現象そのものよりも、もっと広い視点に意味を持つことがあるのですから。
例えばきのこは、共生のメタファー、なんて。
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ディスプレイの中、りな子の示す場所には真っ黒な建物がありました。『マーケット』からも海越しに見えた、あの建物です。
璃奈『レインボーブリッジのすぐそば、第三台場にいつの間にかできていた黒いビル』
璃奈『屋上は飛行船の係留ポイントになってて、普段は特殊なフィルムでできたドームに包まれて、雨風と紫外線から守られてるみたい。飛ぶときにドームがぱっくり開く仕組み』
半透明のドームの中に飛行船がたたずんでいるその様子は、どこか蛹のような生物的な印象を与えました。
かすみ「歩夢先輩があそこに?」
璃奈『うん、いる』
かすみ「…………」
目の前で浮かぶドローンについた小さなディスプレイが、デフォルトされたしたり顔を映します。
りな子の変異はある意味わかりやすくて、一言でいえば、身体の損失と精神のネットワーク上への移行でした。
通常はいまのように、ドローンの中に潜んでいるのだとか。
そんなことあり得るのかなんて、『マーケット』を経験したかすみんにとっては疑問にもなりません。
ただ一点、気になることはあります。
かすみ「やっぱり璃奈ちゃんドローンって語呂悪くない?」
璃奈『そうかな』
かすみ「もう略しちゃおうよ。リ○リーとかどう? 空飛べるし」
璃奈『リド○ーだと最後のリが余計。というか別物。璃奈ちゃんドローン「それはNG」』
璃奈『これはきっと報いだから』
喉ではなく無機質なスピーカーを震わせて、りな子は声を発します。
璃奈『生身の表情を隠していた、きっと報い。これはそういう病だから、私は受け入れるの。……でも』
璃奈『ねえかすみちゃん。そんな私にとってかすみちゃんは、笑ったり泣いたり表情が豊かで、目標の一つだったのに』
璃奈『再会してから、かすみちゃんが笑ってるところ、見たことない』
かすみ「…………」
目を覚ましてからすぐ聞いた話ですが、どうやらかすみは一人で大学の敷地内に倒れていたようです。
意識の途切れる直前を思い出そうとして、瞼に浮かぶのは果林先輩とせつ菜先輩の姿。
いったいどこからどこまでが夢で、現実だったのか。
どうやってここまでたどり着いたのか。
記憶を紐解こうにも、フラッシュバックする炎と暗闇と血の臭いが、恐怖を連れてかすみの心を縛っていました。
ぽつりと、思わずにはいられません。どうしてだろう、と。
どうして、かすみだけ助かっちゃったんだろう。
不思議と涙は出ませんでした。もう枯れたのかもしれません。
しばらく引きこもり貴族を謳歌したかすみんとは違って、愛先輩とエマ先輩の二人は外で異変発生に巻き込まれたために、例の地下商業施設で生活していたようです。
外の世界に注意を払いながらの、見知らぬ人々との生活……暗くなりがちな環境で、愛先輩とエマ先輩は明るくあろうとしました。
それがアイドル活動です。
愛「やっぱり楽しくないとってね!」
エマ「平和が一番だもん~」
思えば、同好会の中で最もポジティブなのがこの二人かもしれません。
けれどその後の顛末は、かすみも知るところです。
『マーケット』由来の薬物DDDにより地下生活は崩壊し、人々は互いに争い、残りは『マーケット』に向かいました。
その時点で、すでに二人の居場所は残っていませんでした。
愛「ただ楽しくあろうとしただけなんだけどね」
失敗しちゃったなぁと、愛先輩はつぶやきました。
エマ「薬……気づいてあげられなかったなぁ」
りな子の慰めも、効果は薄いようでした。変異は大人ほど重篤ですから、エマ先輩にとっては地下の人々もほとんどが年下だったはずです。
迷い、悲しみ、さまよう幼い彼らと、祖国の弟妹たちを重ねることもあったかもしれません。
とにかく、地下を失った二人は地上に出て、りな子と合流します。
それがこの大学でした。いろいろな道具と環境が整っていて、しかも誰も通ってこないという点に目をつけて、りな子が導いたのでした。
ふと思いつく集合場所で言えばニジガクですけれど、そこはすでに再編された自分たちの場所になっていますから、近寄ることも難しいようです。
ネットワーク上にのみ存在したりな子の精神は、愛先輩の助力もあり専用のドローンへも移行できるようになります。
璃奈『愛さんがつくってくれたの。璃奈ちゃんドローン「にっこりん」』
愛「いやいや、りなりーに言われたとおり組み立てただけだって」
これが三人の大まかな流れでした。
『マーケット』なりで人外と関わりことの多かったかすみの情報は、三人にとっては初めて聞くことが多々あるようでした。
摩訶不思議な外の世界の一例だとか、彼方先輩(の偽物)の事情だとか。
かすみの理解できなかったことを話し合う、という当初の目的の一部は、この場である程度果たされているのかもしれません。
それにどれほどの意味があるのか、いまではわからないけれど。
かすみ「……うん、お願い」
最初の話し合いは、その言葉で締めくくられました。
見方によっては、ここが終着点なのかもしれません。
あの日、再編された自分に部屋を譲って、みんなに会うために家を飛び出してから始まったこの旅路。
果林先輩を連れてせつ菜先輩に出会って、りな子のマップを元にエマ先輩と愛先輩を探した。
遠回りしつつもエマ先輩と愛先輩、それにりな子と合流を果たしたけれども、帰るべき場所……果林先輩とせつ菜先輩を失ってしまった。
正気か判断困難な歩夢先輩をおいて、あとの二人、彼方先輩としず子はりな子の情報力でも行方が知れません。
行き止まりでした。縁のない大学で、これ以上の行き先はありませんでした。
地上は再編された人々と、『マーケット』を起点とする人外になすすべもなく支配され、残されたかすみ達は、あとはできるだけ緩やかに、穏やかにいられるよう願うしかなくて。
異変が起きたあの日からずっと、無意識に張り詰めていたなにかが、すとんと落ちる音が聞こえました。
それが自分でも驚くほど楽で。
ああ、もう。
なんだか。
疲れたな――――
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かすみ「うん」
りな子にいって、ディスプレイの映像をコナプトから虹ヶ咲学園のカメラに切り替えてもらいます。
そこには再編された自分たちの姿が映っていました。
まるで何事もなかったかのように、あの日の続きを生きる自分たち。キラキラと、笑顔がまぶしかったり、頑張って練習してたり……そこにデジャヴはありません。
彼らはすでに再現を終えて、新しい一日を進んでいるのでした。
りな子たちと合流して、はや数週間……彼らの生活をこうして覗き見することが、かすみの日常のひとつとなっていました。
突然現れた彼らは当たり前のようにインターネットも使用していました。そのため、トラフィック? が急激に増大したのだとか。
精神がネット上にあるりな子は混乱して、一時的にいわば機能不全な状態になったようです。
そうこうしているうちに、かすみはせつ菜先輩と再会したり、地下世界にDDDが持ち込まれたりします。DDDも彼ら由来であることを考えると、ずいぶん振り回された印象がありますね。
けれど意外なことに、こうして彼らを眺めていても、怒りも嫉妬もありません。
楽しそうな日常を過ごす新しい自分たちに対して、ただ純粋に濾過された『いいな』という気持ちが、澄んだ小川のようにこぼれていくのみです。
心は凪のように、ある意味でかすみは救われていました。
それが偽りだとしても。
かすみ「あぁ!」
ぷつりと、映像が消されてしまいました。ちょうどカメラに生徒会長バージョンのせつ菜先輩が映ったのに……。
璃奈『画面を見るのは一日三時間まで。約束したはず』
かすみ「ぜったい短すぎると思うんだけど……」
璃奈『かすみちゃんの目の健康のためなの。約束しないと、かすみちゃんずっと見てるし。璃奈ちゃんドローン「ふんす」』
こうなってはどうすることもできません。支配権はりな子にありますし。
カレー○イスでコードを抜かれるより強力です。
絶対に「ごめんなさい。」は言わないとか決意する隙もないですよ。
璃奈『散歩?』
かすみ「うん、愛先輩かエマ先輩のとこ」
璃奈『私もいく』
お台場にほど近いこの大学は、工学系の学部がコンパクトに収まっていて、それほど広くありません。
ニジガクというマンモス校にようにいろいろ歩き回る必要もなくて、大した散歩にもなりませんが、ちょっとした気分転換に。
二人……少なくとも愛先輩は、きっといつもの研究室にいるはずです。
かすみ「…………」
歩き出して、ふと脳裏に浮かぶのは、りな子に見せられたコナプトの映像。
歩夢先輩の甘い声につれられて、生き残った人々の多くが収容された黒い摩天楼。
知らない、関係ない……そう思うだけでも、ひどい罪悪感に襲われるのが嫌で。
自分に自分で、言い訳します。
――――だって、かすみには何もできないんだから。
愛先輩はいつもの場所にいました。この大学の中で、一番生物系の装置が整った研究室だとか。
かすみ「かすかすやめてください」
愛「もぅ~冷たいな~」
いいながら、愛先輩はかすみの腰あたりをぐりぐり小突いてきます。
身長差的に、自然とそこになるのでした。……いまの愛先輩は、かすみよりずっと背が低いですから。
見た目の幼児化。それが愛先輩の変異です。
見た目は子供、頭脳は大人といいますか。
ぱないの! とか言いそうな金髪ロリになってしまっています。
愛「う~ん、ひとまず近くの病院で手に入った抗真菌薬のスクリーニングしてみたんだけど、うまくいってないみたい」
璃奈『うまくいってない、って?』
愛「単純に効いてないのか、それとも素人だから試験として間違ってるのかだけど、少なくとも菌は元気してるんだよねぇ」
璃奈『むむ……』
愛先輩はこの変異を『病気』として治療できないか試みているのでした。
アイ・アム・レジェ○ドを地でいっているわけです、愛だけに。
璃奈『誰かに教わったわけでもなく、本で勉強しただけだから、時間がかかるのは仕方ない。愛さんは頑張ってる、と思う』
愛「りなりーは優しいな~」
静止したりな子ドローンをぎゅうと抱きしめる小柄な愛先輩は、見た目相応の無邪気な子供に、まぁ、見えなくもありません。
璃奈『生物としての進化の逆行と、融合ってこと?』
愛「そう。それに加えて超短期間での細胞の脱分化と再分化。植物化してる大人が多いっていうのと、植物の分化全能性は無関係じゃないと思って」
璃奈『でも愛さん、その理屈だと私みたいな場合が説明できない』
愛「うっ……そうだよねぇ、りなりーは厳しいな~」
璃奈『私はかすみちゃんが聞いた「ブレーンワールド」も気になる。この4次元世界が膜の上に成り立っていて、そんな膜が複数あるバルク世界に収まっているっていう弦理論のシナリオ』
璃奈『あり得ないように思える現象は、別のブレーンではあり得る現象が持ち込まれたものなんじゃないかって』
愛「だとするとりなりー、お手上げになっちゃう……いや、そういう『なんでもあり得る』をこの菌が引き起こすなら、元に戻すのだってできるはずだよね」
愛「にしし~。お手上げかと思ったらおーテンアゲー! って感じだね」
璃奈『でもその考えでいくと、ブレーンから離れられるのは重力子だけらしいけど、菌にどうやって情報が持ち込まれて、混ざったのか、よくわからない』
愛「そもそも何者なんだろうね、その人達。妖怪? あんまりこういうこと考えると、収集つかなくなっちゃうけど、ロマンだなぁ」
璃奈『妖怪……「マーケット」にはたくさんいたみたいだけど。璃奈ちゃんドローン「がくぶる」』
璃奈『私はまたいろいろ調べてみる』
愛先輩はパソコンに、りな子はネットに意識を集中し始めました。
そんな二人を横目に、かすみは窓の外を眺めます。みんな黙って、静かになったからでしょうか。
窓越しに、歌声が届いてきました。
エマ先輩の歌声です。
かすみ「…………」
集中している二人にはなにも告げず、かすみはその場を離れました。
エマ先輩はいつものように、屋上庭園で歌を歌っていました。
一日の大半をそうやって過ごすエマ先輩は、再編された自分たちを覗き見して過ごすかすみよりは、まあ、有意義に過ごしているのでしょう。
ふんわりと笑って、手招いてくれるエマ先輩の身体には、全身に蔓のような植物が巻き付いています。それがエマ先輩の変異でした。
痛々しいはずのその蔓は、けれどエマ先輩の歌唱力と合わせると木の精霊のような美しさを呈するのですから、不思議です。
エマ「ふふ、今日ももう璃奈ちゃんに取り上げられちゃったんだね」
かすみ「そーなんですよ~」
ベンチに座って、はい、と太ももを促すエマ先輩に、かすみはいつものように体重を預けます。
ころんと、なんの躊躇もなく。
かすみ「えへへ」
柔らかな体温の上で、なでなでと、エマ先輩は頭をなでてくれます。それがひどく心地良いのでした。
風がさわさわと、エマ先輩の蔓をこする音が聞こえます。お互いにしばし無言で、ゆるやかに時間だけが過ぎていく……。
『なにもしない』が許されるこの場所が、かすみのお気に入りでした。
エマ「……かすみちゃーん」
かすみ「…………」
エマ「えい、こしょこしょ」
かすみ「……くすぐったいです」
無防備な耳を蔓でくすぐられました。なんとも効果的な利用方法です。
エマ「なにか、あった?」
かすみ「…………」
かすみ「べつに、なにもないです。また愛先輩とりな子が難しい話してただけです」
エマ「そっかぁ」
かすみ「…………」
再び沈黙。こんどは居心地の悪い沈黙でした。
さっきまであんなに心地良かったのに……こしょこしょと、蔓で耳をくすぐられるのも、ひどく癇に障ります。
それが全部自分の気持ちのせいだとわかっていても、むかむかとした衝動が胸に登ってきて。
言葉が少し、こぼれてしまいました。
エマ「愛ちゃんと、璃奈ちゃんのこと?」
かすみ「……っ」
自分が卑屈で卑怯なことをいっている自覚はあって、けれど一度こぼれると、全然言い足りない気がしました。
かすみ「どうせ、誰も助けられないのに……いいですよね、あの二人は! 頭が良いから、それっぽい行動をとることができて」
かすみ「あんなのどうせ、意味ないのに。自己満足だけです」
できるだけ強い言葉を使いたくて、自分でも思っているのかどうかわからないことを吐き出していました。
そうすれば、気持ちが楽になると思ったのに……ずきずきと、胸の痛みはかえって強くなって。
それが嫌で、どうしようもなく、言葉を続けました。
エマ「…………」
さらさらと、優しく頭をなでてくれるエマ先輩の表情を見るのが怖くて、かすみはぐっと視線をそらします。
かすみ「あの二人はなんだか、人類のため! みたいな場違いな使命感があって、息が詰まりますけど、エマ先輩は歌ってるだけですから」
かすみ「かすみんと一緒で、なにもしてないです。こっちのほうが楽ですよね!」
嫌な言葉でした。それは攻撃する言葉でした。胸の苦しさを吐き出したくて、あえぐほどに、そんな言葉しか出てこない。
違うのに。
ほんとうに言いたいことは、そんなことじゃなくて……。
かすみ「え?」
エマ「いまはもう、10才未満の見た目かな? ふふ、可愛いよね」
唐突な話に思わず見上げると、エマ先輩は変わらず微笑んでいました。
エマ「地下ではね、んーと、璃奈ちゃんと同じくらいだったかな。元気いっぱいに歌って、みんなを笑顔にしてたの」
エマ「たぶん愛ちゃんにとって、幼い頃の楽しい記憶が大きいんじゃないかなって思うの。ほら、愛ちゃんの誰とも友達になれる特技って、子供の頃はみんな当たり前に持っていて、でも失ったものだから」
エマ「だから愛ちゃんの見た目は、心とか、気持ちに大きく影響されてると思うんだ」
微笑みながらも、エマ先輩の瞳はどこか遠くへ思いを馳せているように見えました。
それは過去なのか――――はたまた祖国なのか。
エマ「でも、地下がだめになっちゃってから、気づいたら今の見た目になっててね」
エマ「愛ちゃんは笑顔を絶やさないけど、隠してる悲しみを打ち消すみたいに、幼くなったように思えて……」
エマ「大好きな歌を歌って……わたしにできるのは、それくらいだから」
かすみ「………!」
ひどく悲しそうな言葉なのに、エマ先輩は笑顔を絶やしていませんでした。その微笑みは天使と見紛うほどに。
愛先輩も、りな子も、それからエマ先輩も。
みんな前向きで、その姿は正しくアイドルで。
この場で諦めているのは、かすみだけでした。
エマ「それにね――」
かすみ「エマ先輩は」
え? と、きょとんとした表情のエマ先輩は、いまのかすみには残酷すぎるほどに可憐に見えて。
かすみ「エマ先輩は……アイドルですね」
どこか負け犬じみたそのセリフが、不思議なほど心に馴染むのは――――きっと当然なのでしょう。
わかってるんです。
ほんとうはわかってるんです。
なにもしていない自分を肯定したくて、だからなにかしている二人を否定しているだけだって。
でも、もう嫌だから。
かすみが動いて、誰かを失うのは嫌だから……。
かすみ「……彼方先輩? あれ」
そこは虹ヶ咲学園の部室でした。夕暮れの日差しで照らされた室内は、机の上で誰かのドリンクが長い影を伸ばしています。
少しだけ引かれた椅子や、簡単にたたまれた上着は、ついさっきまで確かにあったはずの人の気配を帯びていました。
けれど、そこにいるのはかすみと、布団を抱いた彼方先輩だけ。
かすみ「夢……」
彼方「そうだよ~。おひさだねぇ、かすみちゃん」
直感というより、思い出していました。
少し前、彼方先輩に猿夢から救ってもらったことを。
彼方先輩が夢の世界にいることを。
かすみ「あわわっ」
ぼんやり部室を眺めていると、彼方先輩が布団ごと巻き込んできました。
簀巻きは彼方先輩の専売特許でいいのに。これじゃ8番ら○めんのなるとです。
かすみ「むぐむっ……なにするんですか! 彼方先輩」
彼方「だってかすみちゃん、せっかく会えたのに暗い顔してるから~」
かすみ「それとこれとどう関係あるんですか……」
彼方「あったかいと、元気になると思って。彼方ちゃんもびっくりしたよ~。誰かがしくしく泣いてる夢があるなぁって思ったら、かすみちゃんの夢なんだもん」
かすみ「…………」
彼方「ほら、ぎゅ~~」
かすみ「く、苦しいですー」
えへへと笑いながら、彼方先輩は布団ごとかすみを抱き込みます。
わちゃわちゃと、二人だけの部室で子供みたいに転げ回って。最初はちょっと嫌だったのに、なんだか楽しくなっちゃって。
こんなこと、異変前だってしたことないですけど(しようものなら二人揃ってしず子に叱られちゃいます)、ひどく懐かしい香りがしました。
いつかの日常に似た香りでした。
しばらくあと、彼方先輩はそう切り出しました。
彼方「夢の世界は全部つながってるとか、そういう話もあるけど、かすみちゃんの場合は、夢の中でようやくお互いにつながるって感じなのかな」
かすみ「?? どういうことですか?」
彼方「たとえば……おやおや、こんなところに楽譜が転がってるねぇ」
かすみ「なんですか、その芝居がかったセリフは……」
ぴらりと、彼方先輩は机の上からノートを拾い上げました。確かに、なにかの曲の楽譜のようです。
かすみ「絆創膏みたいに、またなにか生み出しちゃったんですか?」
彼方「ううん、これはかすみちゃんの夢の中にあったものだよ」
かすみ「はぁ」
楽譜に刻まれたメロディをそらんじてみて、たしかにどこかで耳馴染みがあるような気もしますが、楽譜というのはあんまりかすみんのイメージではありません。
かすみ「??」
したり顔で彼方先輩は笑っています。どういうことでしょう。
彼方「……うん、そういうわけだねぇ」
かすみ「え、それ以上の説明ないんですか!?」
彼方「彼方ちゃんは全知全能ではないのだぜ」
したり顔です。言ってやったぜという顔をしております。
こういう表情の犬動画みたことあるんですけど。
彼方「かすみちゃんがいい子だってことはみんな知ってるから、思うように行動すればいいんじゃないかな」
かすみ「…………」
ゆるく、ほんわかとした、いつもの彼方先輩の喋り方ですけれど、それはかすみを励ます言葉でした。
こういうとき、やっぱり三年生だなぁとか、お姉ちゃんなんだなぁとか思っちゃいます。
でも。
かすみ「……ほんとは、かすみんだってみんなを助けたいです。今度こそ助けたい」
夢だからでしょうか。それとも、彼方先輩の柔らかい雰囲気がそうさせるのでしょうか。
こらえていた言葉が、縷々としてあふれてきました。
かすみ「でも、だめなんです。元はと言えば、かすみが動いたから、果林先輩とせつ菜先輩がいなくなっちゃった。ずっとせつ菜先輩と一緒に、おとなしくしていればよかったのに、変な勇気を出したのが間違いだったんです」
かすみ「だからもう、嫌なんです。かすみが動いて、今度はエマ先輩と、愛先輩と、りな子の三人がいなくなっちゃうんじゃないかって」
かすみ「もう、嫌なんです……」
かすみ「え……?」
かすみの独白を、彼方先輩はそう評しました。
彼方「そういえば、イタズラ好きなのに小心者だし、意外でもないのかな?」
かすみ「んな、なんのことですか」
彼方「少なくとも果林ちゃんは、後悔してなかったよ」
かすみ「!」
彼方「夢を通して、かすみちゃんのところまで果林ちゃんをショートカットしたのは、彼方ちゃんだから。少しだけわかるんだ~」
ずっと身体から離れてた果林ちゃんだからできた荒技だったけどね、と彼方先輩はつぶやきます。
彼方「果林ちゃんは、後悔してなかった。だからかすみちゃんが間違ってるとは思わないなぁ」
彼方「まあ、かすみちゃんの夢なんだから、多少はホストをたてるのですよ。彼方ちゃん、えらいでしょ~」
かすみ「ちょっ! たち悪くないですか!」
彼方「冗談だよ~。ほんとほんと」
えへへ~と、彼方先輩は微笑みます。
その緩んだ表情をみると、なにもかも許してしまいたくなる誘惑に駆られるのですから、不思議どころか危険です。
これもまた、彼方先輩のアイドル性がもたらすものなのでしょう。
彼方「果林ちゃんも、せつ菜ちゃんも、きっとやるべきことをやっただけで……」
彼方「じゃあ、かすみちゃんのやるべきことって、なんだろう」
その問いかけはひどく重いものに感じました。それがわかれば、どれだけ楽か。
彼方「ふふふ、難しく考えてるねぇ」
かすみ「だってそんなの……」
答えようがない、そう口にしようとしたかすみに、彼方先輩は言葉をかぶせました。
彼方「簡単だよ~。かすみちゃんはスクールアイドルなんだから――――笑顔で歌って踊る、でしょ?」
かすみ「え?」
思わず、聞き返してしまいました。あまりに単純な、そして場違いなことを言われたような気がしたからでしょうか。
それとも……自分がスクールアイドルだという、そんな当たり前のはずのことを、誰かに言ってもらえたからでしょうか。
彼方「まあ、かすみちゃんは起きたら忘れちゃうんだけどねぇ」
かすみ「う……」
猿夢の件をさっきまですっかり忘れていた例を思えば、なんとも痛い指摘です。
かすみ「もう、時間なんですか?」
彼方「みたいだねぇ。ほれほれ、ぎゅ~」
かすみ「んむむっ」
前の夢と同じような、熱い抱擁。本来の彼方先輩の趣味ではないはずですが、それを求めていたのは、かすみの方かもしれません。
誰かの体温がこれほど素敵なものであると知れたのは、この時代の唯一の美点といえるかも……なんて。
彼方「あとは、かすみちゃんに溶け込んだ誰かさんと――――もうひとりの彼方ちゃんも、きっと」
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愛「菌なんだから常在菌の個人差も無視できなかったりして……」
ぶつぶつと、愛先輩は本日も研究に余念がありません。
なにをいっているのかも、研究が進んでいるのかも、かすみの把握するところではありませんでした。
璃奈『かすみちゃん、今日はまだディスプレイ見る時間残ってるけど、いいの?』
かすみ「ん、んー」
不思議なことに。
かすみ「うん、いい。ありがとりな子」
璃奈『?』
今日は、再編された自分たちをみる気分にはなりませんでした。
他にやるべきことがある気がして……。
窓の外からは、かすかに届くエマ先輩の歌声。
昨日……エマ先輩に理不尽に当たったことを思い出します。
というか、あれからずっとやってしまった感を抱いていたのですけれど……。
膝枕してもらいながら文句垂れるって、思い出すまでもなく恥ずかしすぎます。
なんというかもう、例えようがないほどに。
かすみ「……エマ先輩のとこいってくる」
璃奈『うん、いってらっしゃい』
屋上庭園で顔を合わせるなり、エマ先輩はそう切り出しました。
いつになくキリッとした表情で、穏やかなエマ先輩らしくない強い意志がみなぎっています。
エマ「話すべきか一日迷ったんだけど、やっぱりかすみちゃんには言ったほうがいいと思って、二人きりになれるここで待ってたのっ」
かすみ「は、はいぃ」
すでに気圧されていました。普段優しい人が怒ると怖い、というのと、同じインパクトに襲われております。
かすみん、こんなに小心者でしたっけ。あれ、つい最近誰かにそう言われたような気も……。
いや、これもすべて体格差のせい。そう、それです。
エマ「でもね、ほんとはそんなことないよ。かすみちゃんの前では弱気にならないようにしようって、三人で決めてたの」
かすみ「え?」
それは昨日の話のつづきでした。
エマ「だってね、かすみちゃんが一人でこの大学に倒れついた姿を見て、これまでの道のりを聞いて、みんな思ったんだ。すごく大変な思いをしてきたんだなって」
エマ「そんなかすみちゃんを差し置いて、わたし達が悲しんでいるわけにはいかないって、みんなでそう決めたの」
エマ「これ、秘密だよ?」
人差し指を唇にあてて、いたずらっぽく微笑むエマ先輩。
そこに秘めているのは、どんな思いなのでしょう。
でもね、とエマ先輩はつづけます。
エマ「だってわたし達、仲間だもん。お互い正直にならないと、って」
かすみ「エマ先輩……わっ」
エマ先輩の純粋な笑顔に、どうしてか目が離せなくてぼぅっと油断していたら、重心が揺れて。
気づけば手を引かれていて、屋上庭園の中央で、二人立っていました。
エマ「ね、かすみちゃん! 一緒に歌おうよ」
青空の下、風のそよぐ緑の庭園の中心で、エマ先輩は満面に微笑みます。
繋がれた手から伝わるエマ先輩の熱が、かすみの中のなにかを融かしていくのを、たしかに感じました。
エマ「歌うとね、いろいろ、スッキリすると思うんだ!」
かすみ「エマ先輩……」
ああ、すごいな、と思います。
エマ先輩も、愛先輩も、りな子も。
果林先輩も、せつ菜先輩も、それから……彼方先輩、歩夢先輩、しず子も。
目の前でこんなに眩しいエマ先輩を通して、かすみの大好きな同好会のみんなは、すごいんだっていうことを、改めて思い知らされて。
かすみもその一員だったんだという事実が、ひどく誇らしくて。
ひと握りの力を、かすみに与えてくれていました。
吹っ切れたとは言えないけれど。
まだ自信は戻らないけれど。
肺に大きく、空気を吸い込んで。
あとはもう、思うがままに。
エマ「かすみちゃん? あ……」
口は自然と開いて、ひとつのメロディを奏でていました。
胸の奥から湧き上がってくる、初めて奏でるはずのメロディ。
センチメンタルな気分には似合わない、とっても楽しげなテンポで。軽やかに弾む音色は元気を与えてくれるようで。
エマ「なんだか、懐かしい……」
喉を震わせながら、目を閉じれば瞼に浮かぶこのキラキラとした景色は、いったいいつの景色だったでしょう。
それは大切な歌でした。いつかのかすみは知っていました。
誰かのための、そしてみんなのための歌でした。
かすみ「……あ」
ぱちぱちと、拍手してくれるエマ先輩をみて、思い出してしまいました。
ステージの上で歌って踊っていたあの感動と、熱量を。
やっぱりかすみんは、スクールアイドルが――。
エマ「ね、ね、かすみちゃん。いまの曲ってかすみちゃんのオリジナルなの? 歌詞ってないのかな」
かすみ「ちょちょ、エマ先輩鼻息荒いですよ」
ふんふんとエマ先輩はかすみんににじり寄ります。このあたり、スクールアイドル好きとしてのエマ先輩は強力です。
自分でも、いまの曲をどこで聞いたのか、曖昧なのに。
ベンチまで追い詰められて、あっと思い当たりました。
記憶のどこか彼方から届いたその曲にぴったり合う歌詞を、かすみはすでに持っているのでした。
ポケットの中――――せつ菜先輩から手渡されたそれを取り出します。
みんなで出し合った言葉を、せつ菜先輩がまとめて出来上がった歌詞。そこには丁寧に、曲のタイトルまで記入されていて。
かすみ「ん~――――」
愛「いまの曲なに!?」
かすみ「ひゃぁ!?」
愛「ねぇねぇいまの曲っ! かすみんが歌ったの??」
かすみ「そ、そうですけど」
腰のあたりをぐいぐい引っ張って、どうやらひどく慌てています。
まるでミスタード○ナツに初めて来たかのような興奮ぶりなんですけど。
愛「すごいんだよ! さっきの音色が届いた途端に、菌がばーって! 反応して」
かすみ「は、はい? なんのこと……」
璃奈『愛さんの実験。菌にいろんな信号を与えてみて、反応をみてたの。そしたらかすみちゃんの歌? が聞こえてきて』
かすみ「うわっりな子もいつの間に……」
愛「やっぱりこの菌は情報の影響を受けるっていうのは正しくて……でも、サンプルに与えた変異を帳消しにした上に、菌自体は消滅するなんて」
愛「まるでこんな菌なかったみたいな」
なにかすごく良い結果が出たことは、かすみでもわかりました。それ自体はわからないなりにも、喜ばしいのですけれど。
かすみ「あの、愛先輩難しい話は……」
かすみんにはちょっと、と続けようとしたところで……傍らのりな子が、愛先輩の言葉をつなぎました。
璃奈『まるで菌の無い世界の情報を受け取ったような、そんな現象』
ブレーンを越えて、とりな子はつぶやきます。
愛「かすみん、さっきの曲、どこで知ったの?」
二人のガチ研究トーンに押されて、しどろもどろになっちゃうかすみんですけれど。
意味深に問われて、妙な感覚にとらわれました。
思えばこの旅の中で、ありえないことが当たり前だからと、思考を放棄していたいくつかの断片。
記憶が、ひとつの人物像を曖昧に投影しました。
かすみと果林先輩を指して、「あなたも、あなたも、あの子も」と三人分言われたこととか。
地下で夢から醒めて、なにか忘れているような感触を抱いたこととか。
この大学までどうやってたどり着いたのかとか。
それから――――手に握られたこの歌詞。この歌を、異変前のかすみ達はいったい誰に向けて書いていたのか。
仮定もなく、直感もなく。
ただ浮かんだ一つの言葉を、自分の内面に投げかけます。
”あなた”はずっと、そこにいたのですか?
返事はなく、問いかけは虚空に消えます。
けれど、名前のない応援が、血潮となってかすみにもう一度熱を与えてくれるのを、たしかに感じました。
視線を落とせば、そこには開かれた歌詞カード。
タイトルは――――
Love U my friends
更新ありがとうございます…………
がんばれかすみん…
続きが気になって仕方ない
続き楽しみ
次が楽しみ
がんばれ!
涙ボロボロ出てくる
面白いし引き込まれるし続きが気になって仕方ない
おやかすみん
いやぁ今日知ったけど一気読みしちまった
(こんな最後のところでさらに遅くなってすみません。)
(残り少しなのでこんなに時間かかってるのがおかしいくらいなのですが、もう少し、時間をください)
(全部書き終わったらスレ建てします。このスレが残っていれば誘導します)
保守で埋まってしまったら次スレ待てばいいんだな
次スレ立った時が完結の時と思うと嬉しいような名残惜しいような
この作品はこんなご時世の中で数少ない定期的な楽しみでした
そのときをお待ちしてますね
続き楽しみに待ってる
全然おかしくないやで
保守の件も了解!のんびり待ってます
楽しみ
続き楽しみに待ってます
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