【SS】花帆「あざなうつし」【ラブライブ!蓮ノ空】
兎の髪飾りの位置を直した後、静かな決意を固めて玄関へと入った。
やや憂鬱な気分で靴箱にローファーを入れる。がたん、収納する音が静かな玄関によく響いた。
一階の廊下に差し掛かると、壁に掲示板があった。蓮ノ空で行われるイベントや催し物が掲示され、新聞部の記事もこちらに掲載されている。
だが、今回は様相がまるで違っていた。他の掲示物を押しのけるように、中央に堂々と一枚の紙が貼ってあった。
『独牢』
最も目を引くのはその二文字の熟語。その下には詳細な地図が掲載されており、知らない誰かが見れば宝物の場所を書いているように見えるだろう。
花帆「……ごめんなさい」
つい、そんな一言が口からまろび出た。あたしの選んだ道は没義道。最低で愚劣極まりない選択だった。
だが、背に腹は代えられないように、苦悶に喘ぐ仲間を放っておけるはずがなかった。
掲示板から視線を外したあたしは、自分の教室へと向かう。
でも最後にもう一度、『独牢』の二文字を見た。
花帆「……なんて、読むのかな」
白々しくそう零し、暗い気持ちを引き摺って教室へと移動した。
花帆「はぁ、はぁ……。ここ、どこぉ……? どこなのさやかちゃあん……」
さやか「……」
花帆「ねぇ……さやかちゃあん……。聞いてるぅ?」
さやか「……聞いてますよ」
花帆「ほんとぉ? それなら、それならどうして無視するのぉ? はぁ、はぁ……」
さやか「決まってるじゃないですか」クルッ
花帆「……ふぇぇ?」ピタッ
さやか「花帆さんのせいで遭難しかけてるからじゃないですかぁ!!」
花帆「……ふむ」
さやか「ふむじゃなくてっ。顎に手を当ててシリアスな雰囲気を出さないでください!」
花帆「……さやかちゃん。これはあれだね」
さやか「何ですか……。この状況を打破するナイスアイディアでも思いついたんですか」
花帆「これは……」ジッ…
さやか「……」ゴクリ
花帆「遭難だね……」
花帆「あ、あのさやかちゃん……?」
さやか「……」ジリッ、ジリッ
花帆「無言で近づいてくると怖いよぉ!!」
さやか「遭難だって、さっきから言ってるじゃないですかぁ! ふざけてる余裕がよくありますねぇ!!」
さやかちゃんの怒号が山道に鳴り響いた。
そう。あたし達は今登山をしている。
発端は梢センパイ。六人になった蓮ノ空スクールアイドルクラブの体力向上のために登山を決行することになったのだ。
だが、事件が起きた。慣れない登山で大幅に遅れたあたしは、とんでもなくコースを逸れ、くねり、歪みまくり、訳の分からない場所に出てしまった。
スマホは当然圏外。助けを呼ぼうにも繋がるわけがなく、泣く泣く移動しているというわけだった。
ちなみに、先ほどから叫び通しているさやかちゃんは、遅れたあたしを気遣って同道してくれていた。
その甲斐虚しく、こんな結果になってしまったのが申し訳ない。
だから、遭難とは大袈裟な物言いに過ぎない。項垂れて叫び散らすさやかちゃんが心配症と言える。まあ、あたしが楽観主義なだけかもしれないけど。
さやか「──ああ、もうどうしよう……。体力が尽きて、食糧も尽きて、夜の帳が下りてしまったら……」
花帆「平気平気。大丈夫だってさやかちゃん」
さやか「うぅ……。楽観的すぎますよ……」
花帆「そういうさやかちゃんは悲観的過ぎ。ほら、きっと今頃センパイ達が探してるはずだって」
さやか「そうでしょうか……」
花帆「うんうん。綴理センパイが登山道を突っ切って、唐突にさやかちゃんの目の前に現れるに違いないよっ!」
さやか「……どうしよう。綴理センパイが捜索に加わって二次遭難でもしたら……」ブルルッ
花帆「あ、あはは……。流石にそんなヘマはしないって……」
さやか「……そうでしょうか。わたしには見えます。キョロキョロと辺りを見渡し、『さや~? どこ~?』と心細く呟く綴理センパイが」
花帆「……これは重症だぁ。あ、ほら見てさやかちゃん。あそこにベンチあるよ! ちょっと休んでいこうよ!」
さやか「……えぇ、そうですね。ちょっと、ネガティブ思考に拍車がかかってます。気持ちを切り替えましょうか」
さやか「……ぷはぁ。お水美味しい……。でも、遭難してなかったらもっと美味しいんでしょうね」
花帆「だからまだ遭難じゃないって。ちゃんと道は舗装されてるんだから」
さやか「うぅ……ですが、知らない遠くの山で登山に不慣れな二人きりですよ? 不安にならずになんかいられませんよ」
花帆「……よし。分かったよさやかちゃん」グッ
さやか「何が分かったんですか。次こそ、この状況を打破できる素敵なアイディアですか」
花帆「うんっ!」ニッコリ
さやか「……じゃあ、聞かせてください」
花帆「大声で助けを呼ぶっ!」ブイッ
さやか「……」
花帆「叫び散らしてやまびこを山頂にまで届かせるっ!」
さやか「……」
花帆「どうどう!? これしかないと思うんだけど!?」キラキラ
さやか「……まあ、今できることなんてそれくらいしかありませんよね」ハァ…
花帆「だよねだよね! じゃあ、今から叫んでくるから!」ダッ
さやか「あ……」
花帆「あたし達! 蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ──」
さやか「……救援要請担当は花帆さんに任せますか。わたしは……そうですね」キョロキョロ
さやか「何かここの目印になりそうな物でもないか探しますか。看板とか、のぼり旗とか、ピンクテープとか……」スタスタ
さやか「よし、花帆さんはひとところに留まって叫んでいるみたいですし、ちょっと離れても大丈夫そうですね」
さやか「えぇと……何か、何か目印は……」
さやか「……あれ」ピタッ
さやか「あれ、なんだろう……」
薄暗い山道の中、少し遠くの木に何か引っ掛かっていました。鳥の巣のようにも見えるし、何か人工物のようにも見えました。
わたしは引き寄せられるようにそちらに向かいました。数十秒ほど歩くと、その全容が分かりました。
それは、木彫りの仮面でした。三点の穴が開いており、二つは中央よりやや上に、一つは中央よりやや下に。一目見た感想と言えば、なんだか人の目と口に見えました。三点あれば人の顔のように見える現象。それが仮面なら尚更でしょう。
わたしは自然と、それに手を伸ばしていました。爪先立ちになって、千切れんばかりに手を伸ばします。ですが、わたしの身長ではまるで届く気配はありません。綴理先輩でも不可能な高さでしょう。
ですが、諦めません。わたしはあれに手を届かせなければならない。それが、わたしに課せられた使命なのだから。そのために生まれてきたのだから。
ぐぐっと、背骨の椎間板を限界まで伸ばすつもりで手を掲げますが、それでも足りません。
なんだ、ちゃんと足場が用意されていたんですね。それは、仕切りや境界線、柵のように見える足場でした。
わたしはやや心許ない足場を踏み、くらくらと揺れながら手を伸ばします。もう少し、あと拳一つ分で木彫りの仮面に手が届く……。
さやか「あ」
ずるり。予定調和のように、足場が滑りました。わたしは容易に体勢を崩し、足場の向こう側へと転落していきます。
花帆「──さやかちゃんっ!!」
空気を切り裂くような花帆さんの声が聞こえました。でも、彼女の姿は見えません。
わたしの体はぐんぐん地面に近付き、自由落下していきます。そして強かに斜面へと体を打ち付けてようやく。
わたし、何をしてるの?
正気に戻りました。
さやか「あっ、つぅ……っ」
山の斜面をおむすびのように転がり、木の枝や小石がわたしを傷つけました。全身が痛みを叫んでいますが、それでも、と地面に手を突いて何とか立ち上がりました。
さやか「はっ、くぅ……っ。骨折、は……していませんか。よかった……」
さやか「不幸中の幸いですかね……。あんな遠くから落下したというのに多少流血しただけなんて……」
上空を仰ぐと、わたしが転がり落ちた急斜面が見えました。枯れ葉や小石が邪魔をしてとても一筋縄では登れそうもありませんでした。恐らく、独力での脱出は不可能。そう、脳が結論付けました。
遭難、その二文字が頭を過る中、上から喚くような声が聞こえました。
花帆「さやかちゃんっ! さやかちゃんっ! 大丈夫なら返事してっ! お願いお願いお願いぃっ!!」
さやか「花帆さん……」
花帆「……あたしもっ、そっちに行くから! 大丈夫だからね! 心配しないでっ! 一人になんて絶対しないんだからっ!!」
さやか「……っ!」
さやか「花帆さんっ! わたしは平気です! 五体満足です! 骨だって折れてませんっ!!」
花帆「さやかちゃん!? よ、よかったぁ……。あたし、てっきりもう死んでるもんだとばかり……」
さやか「なんてこと言うんですか! そんな軽く死ぬなんて言わないでくださいっ!!」
花帆「うんうんっ! 元気そうでよかった!」
さやか「それは、まあ……」
花帆「じゃあっ、そっちにさやかちゃんのリュック落とすからっ! 助けが来るまで何とか凌いでね!!」
さやか「え……」
その言葉のすぐ後、これまたおむすびのようにわたしのリュックが転がってきました。拾い上げると、落ち葉や泥やらで薄汚れてしまいました。
さやか「……ふぅ。少し落ち着きました」
若干、ゆとりを取り戻しました。ここでパニックになって狼狽しても仕方がありません。
花帆さんのいるところは一応登山道。人の気配は無いが、それでも往来が絶無というほどではないでしょう。いずれ誰かがここを通るはず。それまでの辛抱ですね。
花帆さん渾身の叫びが山々に木霊する中、わたしは傷の療養に努めていました。あまり動き回らない方が吉でしょう。
さやか「……そう言えば、あの木彫りの仮面は一体……」
ふと、落ち着きを取り戻した脳がそう疑問を呈しました。
なんだか、何かに憑りつかれたように木彫りの仮面を手に入れようと必死になっていました。今思い出すと、なぜあんなにも執心していたのか見当も付きません。
いてもたってもいられず、わたしは叫びました。
さやか「花帆さんっ! 花帆さ~~~んっ!」
花帆「な、なにさやかちゃん! まだまだあたしは叫べるよぉ!!」
さやか「いえっ! そうではなくっ! わたしが落下したすぐ上にっ、木でできた仮面がありませんかでしたか!?」
花帆「木でできた仮面!? なんで今ぁ!?」
さやか「お願いしますっ!」
花帆「……うんっ! 分かったっ!」
そうして待つこと数十秒。
花帆「ないよぉ! 仮面ないよぉ!!」
さやか「……そうですかっ! 邪魔してすみません!!」
花帆「全然おっけーだよっ!!」
花帆さんの快活な声が響き、また救援を呼ぶ作業に戻っていきました。
さやか「斜面のすぐ傍、柵に登って手を伸ばせば届く位置にあったはず……」
だが、無かった。もしかして、わたしが木の枝に触れたことで落下してしまったんでしょうか。
さやか「それなら、どこかに落ちているはず……」
痛む体に鞭を打ち、仮面の捜索に移りました。体を気遣う蹌踉とした足取りだったものの、少し歩くくらいなら問題無さそうでした。
枯れ葉を踏み、大きな木の枝をどかし、太い幹の裏を探しました。
ですが、ありません。枯れ葉が仮面の保護色になっているのか、目を皿にしても見つかりません。
そうして、諦めかけたその時でした。
さやか「あれは……」
少し遠く、歩いて数十歩の距離の場所に、わたしのお腹ほどの高さがある岩がありました。
木の陰に隠れてよく見えませんが、人工的な感じがしました。もしかすれば、ここの居場所の目印かもしれません。
わたしは元居た場所をしっかりと記憶した後、そちらへ歩を進めました。
さやか「これ、は……」
足をやや引き摺りつつ辿り着いたのは、目的の石像です。高さはわたしのお腹ほど、横幅はそれより少し太いくらい。
少し遠くから見た時に想像した姿とほぼ合致していました。ですが、ほぼ、です。想像との相違点が問題でした。
さやか「お札……」
石像の頂点の部分から垂れ下がっていたのは、お札でした。微風に煽られ揺れており、数枚の紙が貼ってあるようでした。
わたしは興味本位でお札をつまみました。別に、引き寄せられるような感覚も、何かに憑りつかれているような感覚もありません。
ただただ、好奇心という魔が差したのです。
特徴的な文様と、みみずがのたくったような文字が書かれたお札を捲ると、そこにはわたしでも理解できる文字が書いてありました。
『縛檻』
ばくかん。しばりおり。
自然、わたしの脳はその読み仮名を想像していました。
瞬間、感じたことのない寒気が全身を走り抜けます。
さやか「……っ」
それは、ただただ不気味な感覚でした。生温かな風が吹き抜けたような、首筋を伸びた爪で愛おしく撫でられるような、心臓を抓まれたような、そんな、言い表しようのない感覚でした。
その感覚に名を付けるなら、怖気。それが合致していると感じました。
はらり。石像に貼られたお札が、糸の切れたマリオネット人形のように剥がれ落ちていきます。
ゆらゆらと空気抵抗を受け、緩慢で不規則に落下していきます。
そして、お札から顔を覗かせた石像の容貌は。
木彫りの仮面そっくりでした。雑にくり抜かれた三点は人の目と口を想像させます。
ですが、先ほどの木彫りの仮面とは違う点が一つだけ。
口の部分の点が、ゆっくりと、だけどはっきりと、歪んでいくのが見えました。
闇の底のような黒い点は弧を描き、双眸のような二点と合わさると。
それは笑みにしか見えませんでした。
さぁっと、血の気が引いていくのが分かります。恐怖で思考がまとまらず、膝ががくがくと笑っています。
花帆「──さやかちゃ~んっ! 助けが来たよ~っ!!」
花帆さんの明るい声が、わたしの恐怖を取り払いました。
わたしはいつの間にか止まっていた呼吸を再開させ、元居た場所へと弾かれるように戻りました。節々が上げる痛みなんて無視して、決して振り返らず、ただただ一途にそこを目指しました。
さやか「花帆さんっ、花帆さんっ!」
花帆「さやかちゃんっ! もう大丈夫だよ! 大人の人も梢センパイ達も来たからっ!」
さやか「はいっ、はいぃっ!」
いつの間にか、わたしの瞼からは涙がこぼれていました。緊張からの緩和。今度は別の意味で、地面に座り込んでしまいたい気分でした。
それから、上から丈夫そうなロープが垂らされ、腰にそれを括りつけました。わたしは上から引っ張り上げられつつ、自分でも何とか斜面を登っていきました。
そうして中腹まで来たところで、最後にあの場所を見下ろしました。
ですが、木の陰になっていたのか、石像は全く見えませんでした。
思わず安堵の息を漏らしましたが、わたしは気付いてしまったのです。
石像があったと思しき場所の、木の傍に直立していたのです。
それが人なのか、ただの棒なのかは分かりません。
ですが、木彫りの仮面や石像と同様に、三点の穴が開いた存在がいたのです。何がおかしいのか首を傾げ、射抜くような視線をこちらに向けていました。
わたしはそれを見て、ふと思ってしまったのです。
繋がってしまった、と。
チャイムの音が、まるで耳鳴りのように聞こえます。朦朧とする意識の中、それは拷問のようにすら思えました。
意識を何とか繋ぎ留めていると、わたしに声が掛かります。
花帆「さやかちゃん、さやかちゃん。大丈夫……?」
重々しく首を上げると、花帆さんが心配そうにわたしを覗き込んでいました。
さやか「平気、じゃないかもしれません……」
花帆「そうだよ……。どうしてそんなに目の下に隈を作ってるの……? ちゃんと寝なきゃだめだよ……」
さやか「……」
そう、わたしはもう二日も寝ていません。二日前の登山で体は疲れ切っているはずなのに。心が未だ戻ってこれていないのです。
今は授業の合間の休憩。花帆さんはその度にわたしの席を訪れてくれています。保健室に行こう、とは何度も言われた提案でした。
さやか「眠れば……」
花帆「うん……」
さやか「眠れば何か、悪いことが起きる気がするんです」
花帆「眠ればって……。そんなのどうしようもないじゃん……。それって、遭難しかけた時に見た物と何か関係あるの……?」
さやか「……分かりません」
あの日、わたしは救出された後、事の詳細を花帆さんにのみ話していました。自分一人の心に閉まっておくには、余りにも不安と恐怖が強大過ぎたのです。
花帆「……よし。あたしがさやかちゃんの傍にいるから。保健室に行こうよ。眠らなくたっていいから。ずっと手を繋いでいてあげるから、ね?」
さやか「花帆さん……」
花帆さんがいてくれるなら……。その提案に心が揺れます。ですが、行くにしても次は四限です。それが終われば昼休みに突入します。
それなら……。
さやか「では、昼休みになったらお願いしてもいいですか……?」
花帆「うんっ! 分かった! それまで頑張ってねさやかちゃんっ!」
さやか「……はい」
わたしは何とか笑みを作りました。口角を無理やり上げただけの不格好な形だったでしょう。でもそれでも、心配してくれるあなたには空元気でもいいから見せたかったのです。
花帆さんは自席に戻り、タイミングよく授業開始のチャイムが鳴りました。
ここを乗り切れば、きっと大丈夫。花帆さんが手を握ってくれるのなら、誰かの体温を感じながらなら、きっと悪いことは起こらないはずです。
そう、久方ぶりに安堵を覚えてしまったからでしょうか。
わたしは泥のような睡魔に身を任せてしまいました。
夢。そう、ここは夢です。明瞭にそう認識できました。
やけに明瞭な夢です。こんな夢は……そう、明晰夢と呼ぶのでしょう。現実と何ら変わりないリアルさを持ち、感覚さえも自由自在な夢です。
周囲に見えるのは一定の高さを保つ木々でした。視線を下にやると枯れ葉、そしてやや湿り気を帯びた地面が見えます。
ここは、そう。見覚えがあります。二日前のあの森です。
しかも、斜面から転がり落ちたあの場所でした。肌感覚でそこだと、直感が告げていました。
そして目の前には、黒衣の女性が佇んでいました。背丈は綴理先輩を遥かに凌駕するほどでしたが、やけに腰が折れ曲がっています。
地面に届きそうなほど長い黒髪は手入れされていないのか、枯れ木のように乾き切って縮れていました。
特筆すべきは容貌です。表情が一切読み取れないのです。なぜなら、それは顔のように見えるだけだったから。
三点の黒い穴が開いただけの、とても常人とは思えない容貌をしていたのです。
黒衣が揺れ、腕のような部位が露わになりました。指は五本とも揃っていましたが、夜闇のように黒々としており病的なほど細長いです。
それが自然とわたしの眉間へと伸ばされます。棚の上のお菓子を取るように軽い動作でした。
人差し指が眼球にまで伸ばされ、止まりません。
ぐちゅり。
あ。
え。
は。
ぐちゅり。ぐちゅり。ぐちゅり。
指が曲がります。
水音が鳴ります。
引っ張られます。眼球の奥に奥に奥に奥に奥に引っ掛かって引っ掛かって引っ掛かって。
混ぜられます。クリームを泡立てるように。痛い。やめてください。
にやりと黒い点が歪み狂って狂う狂う狂う。
痛いやめてください。痛い痛い痛い。
これは血。血。真っ赤で鮮血で気持ちが悪い。出ていく出ていく出ていく。
流れないで。止まって。止まって。止まる気配なんてありはしません。
視界が暗い。片方だけ暗い。
あれはなんだろう。痛い、熱い、熱い熱い熱い。抵抗できない。歯がガタガタ鳴って、奥歯を噛みしめたら砕けます。
ああ、あれは、そうですか。
線です。眼球に付いている線です。神経とか血管みたいな物です。
繋がってる繋がってる。わたしはまだあそこにいる。でも見えない見えません。見えないから何も分かりません。
いやでも右目ははっきりと明瞭に視認していますよ。そうです。右目が右目がまだまだまだ残る残る残る。
あ。神経が、こねられてます。ひっぱ、ひっぱられる。
千切れ、ません。なんで、なんで、こんなところまで感覚があるの。
切れないで。切断しないで。
いった。いた。
いた、く。
痛くない。
引っ張られなくなったなりました。
あ。そうです。ね。
なるほど。
ぽろりと、落ちました。地面に転がって、枯れ葉の上でわたしを見つめていました。
ぼろぼろと、涙が出ています。
違います。これは涙ではありません。
真っ赤な涙。
あぁ?
黒い目と視線が合います。
奇遇、ですね。
わたしの目も、暗くて怖くて闇を湛えているんですよ。
え。
そっち、は。
右、目、は。
やめ。やめ。やめてくださ。
ぐちゅり。ぐるり。ぐちゅぐちゅ。
さやかちゃんがおかしくなった。
あの登山の日以降、さやかちゃんは目に見えておかしくなっていた。目の下に色濃い隈を作り、寝ていないようだった。
だからあたしは何度も保健室に行こうと促した。でも、さやかちゃんは聞き入れてくれなかった。でも、一緒に行こうと必死に頼んだらようやく了承してくれた。
その後の授業は一切耳に入らなかったけど、ようやくさやかちゃんが眠ってくれる、それを思うと少しだけ気分が落ち着いた。
でも、そんな未来は訪れなかった。
あたしが気付いた時、さやかちゃんは舟を漕いでいた。何の因果か、昼休み前に限界が来てしまったのだ。
そうしてうつらうつら、頭を前後に振っている姿を見ていたら、突然だった。
唐突に目が見開かれ、さやかちゃんは叫喚した。
形容しがたい叫びだった。無理やり比喩するなら、断末魔とはきっとこんな感じだろうって思った。
頭を振り回し、机を押し倒したさやかちゃんは頻りに両目を気にしているようだった。
痛い、痛い、痛い、と叫びながら、両目を抑えていた。でも、流血や痣の類は見えなかった。あたしは嘘のような光景に、ただただ気後れした。
固く鍵が閉められ、あたしが何度尋ねても入れてはくれなかった。でも時折、さやかちゃんの部屋からは絶叫が木霊した。それは教室の時と同様であり、その度に寮母さんと一緒に声を掛けた。
でも、それでも決して、さやかちゃんは扉を開けはしなかった。
拒んでいるのだと思った。でも、何を。さやかちゃんは一体、何を拒んでいると言うんだろう。
心配で不安でどうしようもなくて、何度も電話をした。でも、さやかちゃんが出てくれることは終ぞなかった。
無力な自分が恨めしかった。大切な友人が苦しんでいるのに、何も手出しできない自分がただただ恨めしかった。
何か、何かできることを。さやかちゃんを助けたい。
その一心で救う手立てを考えた。すると、手段は思い浮かばずとも、やれることはあると分かった。
きっと、原因はあの山の出来事。それなら、さやかちゃんを救う手立てもきっと、あの山にあるに違いない。
決断してすぐ、あたしは荷物をまとめて寮を出て行った。
暗晦のような雲が空に浮かぶ中、あたしは夜闇に身を飛び込ませ──
梢「花帆さん、どこに行くつもり……?」
唐突に腕を掴まれ、寮の玄関前で止められる。
油を差していない機械のようにゆっくりと後ろを振り向くと、そこには梢センパイが立っていた。
なぜか、どうしようもなく安堵してしまった。だからだろうか、自然と言葉はまろび出た。
花帆「……たすけてください」
梢「はい、どうぞ。ラベンダーのハーブティーよ。心を落ち着けるにはこれが一番ね」
梢センパイの自室。あたしは湯気立つティーカップを渡された。口に付け軽く傾けると、かぐわしい香りが鼻を抜けた。
花帆「……美味しい」
梢「ふふっ。でしょう?」
梢センパイは他に、軽くつまめるお茶菓子を用意した後、あたしの対面に座った。そして、ハーブティーに口を付けた後、徐に口を開いた。
梢「それで、どうしたの花帆さん。きっと、さやかさんのことよね」
花帆「……はい。そうです。あたし、もうどうしたらいいか分かんなくて」
梢「そう……。私も少し探りを入れてみたけれど、突然、その……不安定になったとしか分からなくて……」
梢「けれど、花帆さんは外出時間外に寮を出て行こうとしていたわね、何か、知っているのかしら」
梢センパイは、有無を言わせない雰囲気を纏っていた。あたしは膝の上で拳を握り、覚悟を決める。
花帆「でも、他の人を頼るほど余裕がなくて……うぅん、違う。梢センパイに頼りたかったけど、そんな危険な場所に巻き込めなくて……」
花帆「それなら、あたし一人で行った方がいいって思ったんです」
でも、この様だ。結局あたしは梢センパイに頼ってしまう。余りに情けなくて、顔を覆って泣きたくなる。
そんなあたしに対し、梢センパイは真剣な眼差しで応えた。
梢「花帆さん、それは大きな思い違いよ」
花帆「……」
梢「私が今、最も懸念しているのはね、私の与り知らぬ場所で花帆さんが憂き目に遭っていることなの。だから、巻き込んでくれて、逆に感謝すらしているのよ?」
梢「弱音を吐いて誰かを頼るって、とても勇気のいることだもの」
おためごかしや安い慰めで言っているわけじゃない。そう思えたのは、梢センパイがそういう人じゃないって知っているから。
情けない話だが、梢センパイを巻き込めない、そんな思いは霧散してしまった。
そうして、ぽつり、ぽつりと、記憶を掘り起こしながらあの登山の話をしていく。
さやかちゃんは木彫り仮面に誘われて斜面に落下したこと。
落下先でお札の貼られた石像を見つけたこと。
そのお札に書かれた文字を読み上げた瞬間、強い怖気が走ったこと。
救出されている最中、不気味な存在に見られていたこと。
自分で言っていて思う。荒唐無稽な話であり、「はいそうですか」と受け入れられる話ではないと。
でも、梢センパイは違った。
難しそうに眉を顰め、顎に手をやって思考に耽っていた。理解が早すぎて、あたしの方が逆に困惑してしまう。
花帆「あ、あの……。どうしてそんなすぐに受け入れられるんですか……?」
その疑問に、思考の海に沈んでいた梢センパイは我に返る。
梢「……あぁ、そうね。普通なら心霊・怪異の類の話なんて一蹴して当然よね」
花帆「はい……。怖がりこそすれ、普通そんな簡単に頷けないと思います」
梢「えぇ、違いないわ」
梢センパイはハーブティーを一口飲む。そしてティーカップをソーサーに置いた。
梢「花帆さんは知っているでしょ? 私の趣味が占いだって」
花帆「あ、はい。心理テストとかも好きだって」
梢「えぇ。それでね、さやかさんの身に降りかかった呪いと占いはね、似ているようで違うけれど、近しい位置にあるのよ」
花帆「え……」
会話の中に、突然呪いという単語が出てきた。今度は逆に、あたしが追い付けない。
梢「呪い、もしくはまじないは神仏の力を借りて儀式を行うわ。占いはそれとは違って、それ自体に効力は存在しないの」
梢「そうね……。占いで未来を勘案し、まじないでよくない未来を克服する、みたいな感じかしら」
梢「だからね、その道に通底している人は大抵、占いに通じていれば呪術にも通じているものなの」
膝のスカートをぎゅっと握る。
花帆「さやかちゃんって呪われているんですか……?」
梢「えぇ。間違いないでしょうね」
花帆「そんな……」
何となく、そんな気はしていた。でも、断言されると思いの外ショックが大きかった。
梢「そんな顔をしないで花帆さん」
花帆「梢センパイ……」
梢「状況は最悪かもしれないけれど、さやかさんを救う手立てはあるわ」
花帆「えっ、そうなんですかっ」
思わず音を立てて椅子から立ち上がってしまう。
梢「えぇ。尤も、原因療法とは違って、対症療法に過ぎないのが私の限界なのだけれどね……」
花帆「……?」
原因療法と対症療法。その違いは分からなかったけれど、さやかちゃんが助かる、その事実に高揚した。
そう、さやかちゃんは助かる、そういうことだった。
深夜の登山は心霊・怪異が関わらずとも危険極まりなかった。でも、今のさやかちゃんを一秒でも放っておけなかった。
ここに来るまでも若干の苦労を要した。一人で行くと言って聞かない梢センパイを説得、もとい駄々をこね、あたしもついて行くことに成功した。渋々と言った具合に彼女は首肯し、タクシーに乗って山道近くまで到着した。
梢センパイは私物の軍用ライトを持参し、遅々とした歩みだったものの確実に現場に近付いていた。
そうして真上の月がだいぶ傾いた後、見覚えのあるベンチが見えた。
花帆「あっ、あそこです梢センパイっ!」
梢「えぇ、そうみたいね」
そして、丈夫そうな幹にロープを括り付け、斜面へと垂らした。ぐっ、ぐっ、と千切れないことを確認した後、あたし達は降っていく。
梢「花帆さんは上にいた方がいいのだけれど……」
花帆「この目で対症療法? を見届けるまで寝られませんよ!」
梢「はぁ、仕方がないわね。一応、日が昇っても帰ってこないようなら通報してと慈に言ってあるから大丈夫だと思うけれど」
呆れ顔の梢センパイに謝罪した後、斜面の一番下に到着した。夜の森は不気味で、小枝を踏み鳴らす音でさえ肩が跳ねてしまう。
そして、軍用ライトを四方八方に照らした後、それが現れた。
花帆「これが……」
照らし出されたそれは、石像。あたしのお腹ほどの高さで上の部分には三点のくり抜かれた穴があった。
不思議、というより不気味だったのが、一切の苔が生えていないことだった。
梢「この石は恐らく、封印用ね。怪異を封じ込め、出てこれないようにするための」
花帆「封印……」
そう思うと、なんだか霊験あらたかな物を感じるような。梢センパイは石像の前まで歩き、腰を下ろして何かを拾う。一目見た感じだとお札のように見えた。
梢「そう、やっぱり……あざなうつしね」
花帆「あざな、うつし……?」
聞き慣れない単語だった。梢センパイはそう呟いた後、数枚のお札をウエストポーチの中に入れ、逆に、別のお札を取り出した。
梢「いいこと、花帆さん」
花帆「は、はいっ」
突然振り向かれ、少しびっくりしてしまう。
梢「今から封印を上書きするわ。けれど、一つだけ注意してちょうだい」
真剣な眼差しだった。怖くて思わず鳥肌が立ってしまうほどに。あたしは仰々しく頷いた。
梢「でも、念のためよ。いいわね花帆さん。言いつけは絶対に守りなさい」
花帆「……はいっ。承知しました!」
梢「えぇ。いい返事よ」
そう言って、この場に似合わない微笑みを浮かべた。
梢センパイはその後、手際よく石像にお札を貼り付けていった。接着剤が何でできているのかは不明だったけど、ちょっとやそっとの風では剥がれ落ちないように見えた。
そうして全て貼り終わり、封印の作業は終わったらしい。ふぅ、とため息を吐いて緊張を解く。
花帆「これで、さやかちゃんは助かるんですね!」
嬉々としてそんな言葉を並べる。でも、どうやら違うようだった。
梢「いえ。まだ封印は完成していないわ」
花帆「え……?」
梢「この封印は、剥がれ落ちることで完成するの」
花帆「それじゃあ、今から剥がせばいいんですか……?」
梢「違うわ。封印の手順を知る者がお札を貼り、何も知らない者が正規の手順を踏む。そうすれば、この封印は完成するの」
言っている意味がよく分からなかった。封印の手順を知らない人が、どうやって正規の手順を踏むと言うんだろう。
梢「今は山から降りましょう? その後、ちゃんと説明してあげるから」
花帆「……はい。そうですね」
あたし達は元来た道を引き返して家路を辿った。
帰り道、あたしは先ほどの光景を思い出していた。
風に揺られて僅かに見えた二文字の言葉。
『独牢』
あれは、一体なんて読むんだろう。
梢「あれはね、あざなうつし、という封印術なの」
花帆「あざなうつし、ですか」
タクシーで蓮ノ空まで到着した後、寮までの道のりで会話をしていた。
あざなうつし、先ほど梢センパイが呟いていた言葉だった。
梢「あざな、若しくはあざ。漢字の字に、移動の移で『字移し』と読むの」
花帆「それが、さっきやってた封印なんですね」
梢「えぇ。これは手に負えない心霊や怪異と言った存在への対症療法的な封印術なの」
花帆「あの、そもそも対症療法的、ってどういうことなんですか?」
梢「あぁ……。簡単に言えば、一時凌ぎのことね。病気を根治するのではなく、一時的に病状を和らげる、そのような意味合いね」
梢「心霊や怪異に対して使えば、除霊するのではなく、一時的に遠ざけるだけ。そんな意味合いよ。結局のところ、根本の部分では解決していないの」
花帆「なるほど……」
梢「お札の種類は二つ。その土地に縛り付けるためのお札を数枚。そして、名前が書いてあるお札を一枚貼るの」
その言葉に、独牢の二文字が思い浮かぶ。
……危ない危ない。ついうっかり読もうとしちゃった。
梢「けれどね、お札に書かれた名前に読み仮名を与えないのが重要なの」
梢「実体のない怪異に対し名を与え、画竜点睛を欠くように読み方だけを与えない。そうした不完全な状態に置くことこそ、この封印の要の部分ね」
花帆「あぁ、だから読んじゃだめ、って言ったんですね」
梢「えぇ。とはいえ、私があの時やっていることが封印と知っていれば、たとえ読んだとしても問題は無いのだけれど」
花帆「え、そうなんですか」
梢「だって、封印する意思があって、尚且つ読み方を与えて自らに憑かせようとしているのよ? そんなの、警戒するに決まっているじゃない」
花帆「あ~……確かに。何か裏があると思いますよね」
というか、読み方を与えた人に憑りつくんだ。さやかちゃんはきっと、お札に貼られた名前をつい読んでしまったんだろう。
確かあの時、梢センパイが拾ったお札には『縛檻』と書かれていたはずだ。
梢「読み方は何でもいいの。私が用意した名前に、『どくろう』でも、全く違う読み方で『はすのそら』と名付けてもいいの」
梢「重要なのは、明確な意思を持って読んでしまうこと。そうすれば、手順がきちんと履行されお札が剥がれ落ちるの」
梢「知らない漢字でも、出題されればつい読み方を考えてしまうでしょう? だから、別に封印の正規の手順なんて知る必要がないのよ」
得心がいった。毎日活字に親しむ現代において、読み方を知らない漢字に出会ってしまえば、通常はフリガナを振ってしまうだろう。
と、ここで、あたしは一つの疑問が思い浮かんだ。
花帆「一つ質問なんですけど、どうしてあの石像にはお札が貼ってあったんでしょうか」
梢「どうして、とは?」
花帆「だって、封印は名前に読み方を与え、お札が剥がれ落ちれば成功なんですよね。それなら、石像にお札が貼ったままって封印を半端で終わらせたってことじゃないですか」
花帆「もしそれが意図的なら、どうしてそんなことしたんでしょう……」
あたしのその言葉に、梢センパイの足が止まった。街灯の灯りに照らされた容貌は、やや険しいように見える。
梢「……えぇ。花帆さんの言う通りよ。実はね、字移しとは、封印術であると同時に呪いなのよ」
花帆「……え?」
呪い?
梢「そうすれば、簡単に相手を呪えるでしょう?」
梢「尤も、封印用の憑代を用意するのが一番難しいのだけどね」
その言葉は、あたしを戦慄させるのに十分だった。背筋が凍り、血の気が引いた。
梢「石像があの状態で放置されていた理由は恐らく三つ。憑かれた人が解呪しようとお札を貼ったけれど、道半ばで絶命した可能性」
梢「誰かに読ませるために今は場所を離れている可能性」
梢「そしてもう一つは、偶然ここに立ち寄ってしまった人に呪いを掛ける愉快犯の仕業ね」
梢「でも、そんなことを考えても詮無きことよ。お札が不完全な状態で放置されていて、さやかさんが呪われてしまった。それだけが事実よ」
そう言われ、あたしは何も言えなくなる。
今はただ、人の悪意という物に怯えることしかできない。
暗い気持ちで帰途を歩く。等幅に置かれた街灯があたし達を照らしてはまた暗闇に戻る。
でも、もういいんだ。真相がなんであれ、さやかちゃんは助かるんだ。梢センパイがお札を貼って、後は誰かに読ませるだけでいいんだから。そうすれば封印は完成する。
完成、する……?
あれ、待って。つまり、これって……。
嫌な予感、恐らくは的を射た推論に辿り着き、梢センパイに呼びかける。
花帆「あのお札、誰に読ませるんですか……?」
その言葉に、梢センパイはただ無感情に告げた。
梢「誰か、よ」
花帆「誰かって……」
狼狽するあたしに対し、梢センパイは目線を外して言葉を続ける。
梢「字移しの封印はね、実はもう少し先があるの。読み方を与えた人が死亡して初めて、封印として完成するの」
花帆「し、死亡してって……」
梢「憑りついた本人が死亡してしまえば、怪異は行き場を無くすわ。そのまま封印が解除されるのではなく、封印した石像にずっと留まることになるの」
梢「お札は剥がれ落ちて誰の目にも触れることなく、一生封印され続ける。誰かが、呪術の道具として封印……呪いを上書きしない限り」
花帆「そんな……」
梢「だってそうでしょう花帆さん。今のさやかさんの現状を考えてもみて。碌に眠れていないじゃない。きっと、睡眠がトリガーとなって悪夢を絶え間なく見せ続ける怪異なのね」
梢「きっと、近い内に衰弱死するか、自ら命を絶つことすら考えられるわ」
花帆「……」
その言葉は、厳然たる事実としてあたしの双肩に伸し掛かる。重く、苦しい。知らなければよかったと後悔すらしている。
今、あたしは選択を迫られていると感じた。
選択を下すのに必要な時間はごく僅かだった。あたしは暗鬱とした決意を胸に決め、口を開く。
花帆「梢センパイ」
梢「……なにかしら」
ただならぬ雰囲気を感じたのか、梢センパイの声音がやや硬いように思える。
花帆「あたし、聖人君子なんかじゃないんですよ。全ての人が幸福であればそれは素敵だろうとは思うけど、そのために人生を捧げるとかはできません」
花帆「交通事故に遭いそうな人がいて、その時時間が止まったとして、その人を助けて自分が死ぬか、その人を見殺しにするか、みたいな選択肢があったら迷わず後者を選ぶと思います」
花帆「あたしの守りたい世界って凄く狭いんですよ。さやかちゃんがいて、綴理センパイ、瑠璃乃ちゃん、慈センパイ、そして梢センパイがいてくれる。ただ、それだけでいいんです」
花帆「だから、あたしは迷いません。さやかちゃんのために、誰かを呪います」
花帆「きっと、呪いを他の人に渡す役目がありますよね。それなら、その役目はあたしに任せてください」
胸に手を当てて決意を言葉にした。言った、言い切った。後戻りはできない。元よりそのつもりだが、これは自分の逃げ道を塞ぐ意味合いも持つ。
それが、あたしにとっての肚を決めるということだった。誰かを呪わずにはいられないと言うのなら、その役目はあたしが引き受けたい。
それがきっと、弱くて馬鹿なあたしが背負えるたった一つのことだから。
花帆「はい。覚悟は決まりました」
梢「きっと、一生付いて回るわよ。誰かを呪った、殺してしまったかもしれない罪悪は」
花帆「いいんです。それでさやかちゃんが元通り笑えるなら。どんな謗りを受けようと我慢できます」
梢「……分かったわ。そこまで言うのなら、止めはしないわ」
花帆「……はいっ」
梢「けれど、けれどね花帆さん」
花帆「……何ですか」
梢「その役目は、私も引き受けます。あなた一人に辛いことなんて背負わせられない。どうせやるなら、どこまでも共犯よ」
花帆「梢センパイ……」
真っすぐな瞳は、あたしの本心をどこまでも見透かしているようだった。正直、そんな役目引き受けたくない。誰かに擦り付けたい。そんな弱さを見透かされているようで。
ここは断らなきゃいけない。そう、理性的な部分は叫んでいる。だが。
あたしは弱かった。どこまでもおんぶにだっこのままの、未熟な後輩だった。
口を固く結び、涙を堪える。でもそんなあたしを、梢センパイは優しく包み込んでくれた。
梢「……泣きなさい。花帆さんを受け止めてあげられるのは、共犯の私だけなのだから」
花帆「あっ、うぅ……っ。うあぁっ、うあぁあああああああああっ!」
あたしは泣いた。みっともなく、赤ん坊のように周囲を憚ることなく。
罪悪を覚えて罪が許されるわけじゃない。
でも今だけは、この温もりだけを感じていたかった。
さやか「ご迷惑、おかけしました……」
あたしと梢センパイが封印のために山へ向かってから、早十日が経過していた。
その間にさやかちゃんは前と同じ調子を取り戻したらしく、こうして部活に復帰できている。たいへん喜ばしいことであり、彼女の瞼に刻まれた隈も嘘のように消えていた。
瑠璃乃「ほんっと~によかった~っ! さやかちゃん、もうだめぽかなぁ、ってルリ覚悟したもん! 故にルリあり!」
慈「だめぽて。でも、本当にもう大丈夫なの? もう少し休んでも平気なのに」
さやか「はい。五体満足でエネルギーも有り余っているのに、逆に休むなんてできません」
綴理「うんうん。ボクはさやのお弁当を食べられなくて、今にも萎みそうだ」
さやか「えっ、わたしのいない間絶食してたんですか!?」
慈「いやっ、あんた梢に作って貰ってたじゃない」
綴理「?」
綴理「さやのお弁当は食べてないよ」
慈「いや、そうじゃなくて……」
花帆「ふふっ……」
部室で広げられる、前と同じ騒がしい光景。さやかちゃんが復帰したことでまた見られるようになった。
花帆「そうそう、梢センパイ」
テーブルに身を乗り出し、やや控えめな声で喋りかける。
花帆「あの後、悪夢に魘される人とか、突然大声で断末魔を上げる人とか、そんな噂聞きましたか……?」
梢「いえ。私も気になって情報収集していたのだけれど……。生徒にも先生にも、用務員の人でさえ、そんな噂は聞かないのよね……」
花帆「そうなんですか……」
最近、専らあたしが考えていることはそれだった。さやかちゃんではなく、次は誰に呪いが渡ったのか、ということ。
あたしと梢センパイは、石像に貼った名前である『独牢』と、申し訳程度に封印場所が記載されてある紙を掲示板に貼った。独力で字移しに辿り着くかは難しいだろうけど、少しでも次に呪われる人へ希望を残すために。
でも、誰かが突然叫びだしたとか、痛みを伴う悪夢を見ただとか、ここ数日眠れていないだとか、そう言った噂は一切立たなかった。
それなら、誰に呪いが渡ったと言うんだろう……。
梢「不思議だけれど、四つほどその理由が考えられるわね」
花帆「四つですか。流石梢センパイです」
花帆「それは……」
視線を姦しい四人に向けるが、そんな素振りは見えない。
梢「二つ。さやかさんから他の人に渡った途端、怪異が呪う力を失った、もしくは成仏した」
花帆「う~ん……」
そんなご都合主義、果たしてあるんだろうか。
梢「三つ。次に呪われた人にとって、その呪いは我慢できるくらいだった」
花帆「我慢強い、かぁ……」
でも、あのさやかちゃんがあれほど取り乱したんだ。尋常な苦しみではないと思う。
今のところ、どの推測もピンとこない。梢センパイは最後に、指を四本立てた。
梢「四つ。蓮ノ空の関係者ではない人が、あの名前を読んでしまった」
蓮ノ空に関係ない人……。確かに、それなら納得がいく。
所詮、あたしは蓮ノ空の一学生に過ぎず、ここは他の学校より閉鎖的なため、外のことには詳しくない。
でも、最近外部から人を招く行事なんてなかったし、保護者が早朝から正面玄関に訪れるとは考えにくい。
う~ん、と頭をより一層悩ませる。
花帆「何ですか……?」
梢「これだけ私たちが血眼になって情報収集しても成果が出なかったのなら、きっと次の犠牲者なんていなかったのよ」
梢「見えない、聞こえない、言われないのなら、それはもういないも同然じゃない。そう考えた方が、きっと精神衛生上いいと思うわ」
梢「時には割り切りも大事。先輩として、覚えていて貰いたい言葉ね」
花帆「割り切り……ですか」
そうすぐに思えればどんなに楽だろう。未だ、あたしの中に覚悟と罪悪は滞留している。切り替えるには暫し時が必要だろう。
でも、暗い顔ばかりもしていられない。それだけは分かった。
花帆「……俯いてるだけじゃだめ、ですよね。さやかちゃんがあんなに明るい笑顔で戻ってきたんですっ! 歓迎しなきゃ損損、ですよね!」
梢「えぇ。それでこそ、花帆さんよ」
梢センパイはティーカップを持ちながら柔らかく笑った。
あたしは椅子から立ち上がり、さやかちゃんに突撃しに行った。それに負けじと、瑠璃乃ちゃんも加わってくる。綴理センパイも混ざり、場は急に渾然一体となった。
呆れ顔の慈センパイ、しょうがないわね、と苦笑する梢センパイ。
ここが、あたしの居場所。失いたくない、誰か一人でも欠けたら、意味を失ってしまう場所。
それは、あたしに一つの実感を思わせた。
誰かを呪うと決めた選択は、決して間違っていなかったのだと。
あれから、幾つもの季節が過ぎた。その間、憑りつかれた生徒の話や突然叫び声を上げる人の噂は一切聞かなかった。
一応、あの騒動から一年ほどは注意深く周囲を観察していたのだが、恐ろしいほど平和に時が流れた。
スクールアイドルを続け、ファンが増え、ラブライブにも出場することができた。正に、我が世の春、もしくは人生の絶頂期だった。
それなら、と思う。もう、忘れてしまってもいいのだろう。
もし、あの呪いで誰かが苦しんでいたとしても、あたしが胸を痛めることはない。なぜなら、あたしの目には映らず、耳に入ってこないから。
それがたとえ、あたし達のファンである液晶越しのあなたであっても。
おわり
ラ板民は人生にハンデ背負ってそうだからこれかもしれない
けど引き込まれたわ