善子「――九つ墓村?」第1話【大長編SS】
昭和二十七年の梅雨明けした初夏のことである。
海未「はい。その黒澤家から、あなたを探すよう依頼されてお伺いした次第で」
職場の応接間で善子と相対するよう腰かけた海未は、帽子をとるなりそういった。
善子「なによそれ。知らないわ、そんな気持ち悪い村の名前も、その――」
海未「黒澤家です」
善子「その黒澤家とかいうのも」
怪訝そうな表情を浮かべる善子をよそに、海未は話を続ける。
海未「その家の、あなたのご親族が身柄を引き取りたいとの要望なのです」
善子「なぜ今更……?いままで放っておいたのに」
海未「それは、私からは詳細をお伝え出来ませんので」
海未「私の知り合いの法律事務所に黒澤家の代理人弁護士を待たせておりますので、このあとご一緒にいきましょう」
海未「ここから近いので、ぜひ!」
善子「はぁ……」
この私立探偵の勢いに押され、渋々応じた。
善子「ほら、とってきたわよ」
区役所を出た自分を迎えた海未に対し、ぶっきらぼうに言って封筒をつきつけた。
あのあと、半ば連れ出されるように職場を早退し、言われるがままに役所で戸籍抄本を取り寄せたのだった。
海未「では、いきましょう」
封筒片手に海未の横に並んで歩を進める。
海未「いやはや、お手数をおかけしまして恐縮です」
善子「本当よ。あとで発行手数料、払ってよね」
海未「それは弁護士のほうへ請求してください。穂むら饅頭の買いすぎで持ち合わせがないもので……ははは」
善子「はぁ……」
頭に手をやって、ばつが悪そうな表情の海未。善子はため息をついた。
初対面のときも感じたが、この私立探偵、変わった雰囲気を持っている。
特に服装だ。
艶ややかな黒髪の上から丸みがかった灰色のお釜帽子を被り、紺の紋なしの着物にゆったりとした袴姿。足元には不釣り合いな黒い米国製ブーツ。
清潔感こそあるものの、大正時代の女学生が写真から出てきたかのような姿は、進駐軍がもたらしたアメリカンファッションが流行の東京で一層、浮いている。
さすが大都会、変わった人間もいる。
横目で観察した善子がそう見定めていると、海未が声をかけてきた。
善子「違うわ。再婚した義理の父の名字よ」
海未「そうなんですか。では……義理のお父さまから、お母さまの過去をお尋ねになったりは?」
善子「聞いてみたけど、何も。仲は悪くなかったけど、母のことは一切、教えてくれなかった」
善子「結局、私が挺身隊で茨城の工場にいる間に大空襲で……最後まで」
海未「それは……お気の毒に……」
善子「いいの。肝心の母も私が六つのときに病気で死んじゃったし、いまは自由なひとり身よ」
あっけらかんとした物言いの善子。母親との思い出がおぼろげなまま、男手ひとつで育てられ、戦争で天涯孤独になってしまったことにすっかり慣れたのだろう。
嘆くより、つとめて明るく振る舞っていかないと前に進めない。
七年前にすべてを失ったこの国の残された人々はこうして今を生きている。
それにしても、と話題を変えるように善子が話しかけてきた。
善子「――母があの村の出身で、私もそこで生まれたなんてね」
戸籍抄本が入った封筒に目をやる。生粋の東京育ちだと思い込んでいた自分が、まさか不気味な村で生を受け、しかも三歳まで住んでいたとは。
善子「……ねえ」
そこでハッと気づき、顔をあげる。
――今まで何の連絡を寄こしてこなかった親戚と名乗る者が、わざわざ探偵を雇って探し出した理由。
善子「もしかして、本当の父親が――」
海未「あーっ!着きましたよ、ここが小泉法律事務所です」
善子「ちょっと!ねえ!」
いきなり駆け出した海未のあとを急いで追いかける。
海未「花陽、津島善子さんをお連れしました」
そう声をかけると、事務机にうず高く積まれた法律書の山から眼鏡をかけたスーツ姿の女性がひょっこり現れた。
花陽「ありがとう、海未ちゃん」
花陽「初めまして、弁護士の小泉です」
小柄で胸の大きい弁護士が礼儀正しくぺこりと頭を垂れた。善子もつられて黙礼する。
花陽「それでは奥のほうへ。黒澤家の代理人がお待ちです」
海未「私はここで茶でも飲みながら待っています」
着物の懐から饅頭の包み紙を取り出す海未を置いて、花陽の案内で応接間へ。
ドアを開けてもらい、中に入ると、えんじ色の長い髪が特徴的な女性が革のソファに座っていた。
花陽「桜内弁護士、こちらが津島善子さんです」
こちらに気づき、顔を向けた彼女に花陽が紹介する。
彼女はすかさずソファから立ち上がり、一礼した。
梨子「初めまして津島さん。私が黒澤家代理人の桜内梨子です」
善子「あっ、よろしく……」
思わず見とれていた。唇が薄く、スマートな体躯、色白肌の美人。
片田舎の弁護士なんて、色黒骨太で土臭そうだと勝手に決めつけていた。が、いざ対面すると妖艶さ漂う都会的なその姿に驚いた。
花陽「それでは失礼します。ご用件が済みましたら、声かけをお願いします」
対面で席に着いたのを確認して、ドアを閉じた。
梨子「――戸籍抄本、確かに確認しました。こちらはお返しします」
渡した証明書を淡々と読み上げたのち、こう唐突に切り出した。
梨子「いきなりでなんだけど、服を脱いでもらえる?」
善子「えっ!ここで?」
妙な要求に目を丸くした。そして徐々に不快感をむき出しにした表情に変わる。
善子「……悪いけど、そんなことさせるなら、帰る!」
乱暴に立ち上がり、低く怒気を含んだ声で拒絶の意を示す。
なぜなら善子にとって、人前で裸をさらすことは耐え難い屈辱だからだ。
物心ついたころからあるソレを他人に見られると、おぞましい怪物でも見たかのように目の色が変わるのを何度も経験してきた。
そのため幼少期から成人になった今でも、身体を人目にさらす行為は極力避け、着替えなどやむを得ないときは日陰者のように怯えながら行っていた。
母にそれが出来た訳を問いただすと、必ず泣き崩れてしまうので結局最後まで聞けずじまいだった。
その気苦労も知らず、赤の他人から尊厳を踏みにじる要求をされたことに到底、我慢ならなかったのだ。
憤激する善子をあわてて梨子が引きとめる。
梨子「待って!善子ちゃんの気持ちもわかっているつもりよ!」
善子「だったら――」
梨子「どうしても必要なの!それがあることで津島善子という、身分証明書よりも確実な証拠になるのよ!」
梨子「これは黒澤家からも確認するよう強く指示されていることなの、お願い!」
興奮のあまり肩で息をする善子に事情を説明した。
善子「あんたが見たいのはこれでしょ!」
観念した様子でワンピースを脱いで下着姿になる。そして梨子に背を向け、ブラジャーのホックを外した。
梨子「――なんてむごい火傷の痕」
口に手をあて、ハッと息をのむ。
善子の背中には右の肩甲骨から、くびれた腰のあたりまで斜めに色白の皮膚をこそげ取ったかのように赤黒く伸びた傷痕があった。
かなり昔にできた傷のようで、周囲はケロイド状に盛り上がって割れ目のようになっていた。まるで何かが背中を突き破って出てきそうな禍々しさすらある。
梨子「でも、なかなか良い腰つきね。惚れ惚れしちゃうわ……」
優しく撫でまわしたい、と小さくつぶやいた。
善子「ねぇ……もういい?」
梨子「えっ?ええ、結構よ。ごめんなさいね」
羞恥のあまり顔を赤らめる善子の言葉で我に返り、服を着るよう促す。
善子「……で、私が津島善子だと分かったら何なのよ」
梨子「善子ちゃん、あなたは――」
次の言葉が平凡な運命を大きく変え、不気味な村でのおぞましい出来事の始まりになるとは思いもよらなかった。
善子「は?こんがいし……?」
服を着る手が止まった。困惑しきった様子を気にせず、梨子は続ける。
梨子「端的に言えば、落としダネ。法律上、婚姻関係になかった男女間に生まれた子という意味よ」
梨子「善子ちゃんの血縁上の父親は黒澤輝石氏で、あなたの本当の名字は津島じゃなくて、黒澤」
善子「黒澤、善子……」
唐突に増えていく事実に理解が追いつかない。が、さらに追加されていく。
梨子「輝石さんの子はふたりいて、長女で現当主のダイヤ氏はご病気。次女で妹のルビィさんは虚弱で、どちらも子供がいない」
梨子「このままだと由緒ある家が絶えてしまうことを憂いたダイヤ氏と直系親族が、私にあなたの調査を依頼したの」
梨子「善子ちゃんの同意さえあれば、正統な黒澤家の次期当主としてお迎えにあがるそうよ」
梨子「――総資産三億円の相続権と共に、ね」
善子「さ、三億……!」
善子は絶句した。
毎月の給与が一万円ほどしかない善子が三億円を相続する。おそらく今思い描ける贅沢な生活をしたとしても、到底使い果たせない金額だ。
身体に刻み付けられた忌まわしい傷痕のせいで人目を忍んで過ごした子供時代。母と義父を失って、天涯孤独になってしまった不幸続きの人生。
そんな自分に亡き母が残した名家の血筋。
だが、手放しでは喜べない。梨子に気になることを尋ねてみた。
梨子「ええ。どうぞ」
善子「私の父親というひとは今、生きてるの?それとも、亡くなっているの?」
梨子「亡くなっているといえば……そういうことになるのかな」
善子「そういうこと……?なんか引っかかるわね」
梨子「えっと……そのことについて、黒澤家のほうからお話があると思うけど」
梨子「あなたが三歳のころに亡くなった、ということで。今はこれくらいが言える範囲かな」
実に曖昧な答えに心をかき乱される善子。この様子では、彼女から満足のいく答えを得られないことを察した。
父のことは黒澤家の者に聞くとして、次の質問を投げる。
善子「わかった。それじゃ、母はなんで私を連れて村を出て行ったの?」
梨子「あなたのお父さんの死と深い関係があった大きな出来事が原因なの」
善子「ええと、二十四年前ね。一体、何があったの……?」
すると突然、梨子の息遣いが荒くなった。徐々に額に脂汗が浮かび上がり、目を見開く。
その異常は善子の目にもはっきりと映った。
善子「ねぇ、どうし――」
梨子「ハァ、ハァ……そ、それは私の口からは、とても恐ろしくて言えな――」
苦しそうに声を絞り出すと、急にガックリと前のめりに。そして勢いよく上半身を机に倒し、大きな音を立てた。
梨子「よし、こ、ちゃん……み、水を……」
立ち上がって介抱しようとする善子に梨子は水を求めた。
もとが色白肌とは思えないほど顔を紅潮させ、激しく肩を震わせて苦悶の表情を浮かべている。
ただならぬ様子に善子はうろたえた。
善子「わ、わかったわ!」
えんじ色の髪を振り乱して机の上で身をよじらせる梨子に言い、急いでコップに水を注ぎ、彼女の前に持ってきた時には。
すでに意識はなく、ピクピクと短い痙攣が起きたのち、そのまま動かなくなった。
善子「……ヒィッ!」
うつ伏せになっている梨子の顔を見て、叫び声をあげる。
彼女は両目が飛び出るのではないかというほど見開き、新鮮な空気を求めて裂けんばかりに口を開けた最期の表情をしていた。
ガシャン。
その表情に戦慄して力の抜けた手からコップが滑り落ち、床に叩きつけられて砕けた音が鳴る。
花陽「ピャアアア!」
物音を聞きつけ、部屋に入った花陽の悲鳴が響く。同時に海未もなだれ込んできた。
海未「動かないでくださいッ!花陽、救急車を!」
花陽が震える指で電話機のダイヤルを回しているなか、海未は冷静な様子で机に寄り、桜内梨子だった死体を見分する。
外見から死因をある程度見立てたのち、口と鼻にハンカチをあてて慎重に梨子の口元へ顔を近づけた。
そこから漂う臭いで、何が彼女を死に追いやったのか断定した。
海未「ほのかに漂う青梅のような臭い……間違いなくシアン中毒です」
善子「はぁ……」
深いため息をつきながら、自宅のアパートの階段を上る。
善子「なにが、犯人はお前だにゃ、よ」
取り調べを担当した妙な口調の女刑事にまとわりつかれたことを思い出し、悪態をつく。
この事件で善子は真っ先に警察から嫌疑をかけられた。
最後まで被害者と二人っきりだったこと、善子と会う前に花陽と会話をしたときは何の異常も見られなかったこと。
そして、使用された毒物は即効性のあるシアン化物――青酸カリであるということ。
以上の点から、善子が故意に毒を盛ったと断定した。
花陽が、「出会ったばかりの人間を殺害する動機が善子ちゃんのどこにあるの!」、と精一杯の擁護をしたが、取り調べは三日三晩にわたって続いた。
その後、善子はあっさりと釈放されてしまう。
司法解剖の結果と、梨子の日常生活にまつわる証言が出たのが決め手だった。
このカプセル剤は、雇い主の黒澤家と親しい村の医師が処方した精力剤だと警察は特定した。
そして、彼女と親しい九つ墓村の人間からの証言。
梨子は仕事柄、村と東京を行き来していた。そんな彼女は精力剤を携帯し、東京へ行く前に常に服用していたそうだ。
その理由は赤線で遊ぶためである。
その精力剤を入れた容器に、何者かが青酸入りカプセルを混ぜ、梨子自ら誤飲したことが死因に直結したと結論づけた。
さらにカプセル剤は錠剤とは違い、溶解する時間が遅い。しかも青酸カリは苦く通常の方法では飲ませることの出来ない毒物。
いくら即効性の毒とはいえ、出会ったばかりの善子が梨子の生活習慣を熟知し、毒カプセルを飲ませた――という説明に無理が生じた。
こうして捜査の焦点が東京の善子から、九つ墓村へ移ったことで無事、釈放された。
善子「……とりあえず風呂に入って寝よ、うん」
疲れ切った身体でようやく階段を上り切り、二階にある自室のドアのカギを開けて中に入った。
わずかな給与をやりくりして、昔から好きな西洋のまじない道具や雑貨を買い集め、部屋を彩っている。
善子「ん……?」
靴を脱ごうと玄関でかがんだとき、妙な封筒が落ちていることに気づいた。
善子「……手紙?」
善子「差出人がない……ドアの隙間から入れたの?」
拾い上げて観察した。差出人は無く、クロサワヨシコサマと宛名だけあった。
善子は首をひねる。
いつも郵便物は階下に住む大家の矢澤がすべて受け取って、あとで住人たちに配って回っているからこんな置き方はしない。
そもそも天涯孤独の善子にくる便りといえば、役所からの税金の督促状くらいなものだ。
とりあえず中身をみよう、と思い立って封を切る。中から折りたたまれた一枚の便せんを取り出し、広げて読む。
善子「……ヒィッ!」
小さな悲鳴をあげ、反射的に手紙を床に投げつける。内容があまりにも奇怪すぎて、体が拒絶反応を示した。
ポトリと落ちた便せんには、新聞紙の印字を一文字ずつ切り抜いて貼り付けた、大小さまざまな文字で構成された不気味な文章があった。
その内容はこうである。
ミゅウず様はぉイカりだ
ぉお、血!血!血だ!
おマぇが帰ッてくるト村にチの雨がフル
二十四年前のヨうに
翌日。朝一番で小泉法律事務所に駆け込んだ善子が手渡した怪文書をみて、海未は率直な感想を述べた。
飛び込むように現れた善子にひどく驚いた花陽は、朝食の山盛りの銀シャリを地面に落としてしまった。嘆き悲しむ暇もなく、急いで海未を電話で呼び出し、今に至る。
海未「――村に行くな、ミュウズ様が怒る、二十四年前の流血の惨事」
海未「おそらくこの手紙を書いた人間は村の出身者。しかも、善子のお母さまが出て行った年に何か大きな災いが起きたこと知っている」
海未「どうやら、あなたが村に帰るのを快く思わない者がいるようですね」
花陽「善子ちゃん、それでも村にいくの……?」
善子「これを見てから一晩中、考えてみたわ」
善子「どうして二十四年も私を放っておいたのか、母はどうして村を捨てたのか、そして本当の父親のこと――」
善子「――あの村にはすべての答えがある」
善子「知りたいの、私自身の隠された過去のことを」
善子「だから行くわ、あの村に」
そう言った彼女の目には、恐ろしい脅迫への不安と出生にまつわる過去を知りたい決意が入り交じっていた。
そんな彼女の旅立ちに少しの安息と力添えを与えたい、そう思った花陽は海未に目を向ける。
海未「わかりました。この事件、このままでは終わらない気がしますから」
善子「海未、いいの?」
海未「ええ。あまり頼りないかもですが、お力添えをば」
海未「ところで、費用は……」
花陽「私が持つよ」
それを聞いた海未の顔がパァッと明るくなり、安堵の表情を浮かべる。
海未「これはありがたい。まだ和菓子屋のツケが残っているものでして、ははは……」
善子「……本当に頼りになるの?」
花陽「一応、かな」
こっそり耳打ちした善子に苦笑した。
海未「……ゴホン」
海未「ところで、この文書……気になる単語があるのです」
海未「ミュウズ様、というのは何者でしょうか――」
「――それは村の神様だよ」
事務所に入ってきた何者かの明朗快活な声。突然の訪問者に驚いた一同は声のするほうへ振り向いた。
「驚いた?ごめんねー」
「はやく善子ちゃんを見たくて、急いで東京にきちゃったんだ!」
突然の訪問者は善子と海未のほうへ向き直り、これまた元気な声で自己紹介。
曜「初めまして!私は渡辺曜」
曜「上屋――黒澤本家とは親しくお付き合いしてる下屋、つまり分家の渡辺の者だよ。よろしくね」
花陽「曜さんは梨子さんの代わりに善子ちゃんをお迎えにいらしたの」
善子「あ、ど、どうも……津島善子で、す」
元気な彼女に慣れない敬語で挨拶した。
曜は黒澤の血を引いていて、善子にとって年上の従姉妹にあたる。
その外見は梨子とは対照的だった。
肩までかかるかどうかほどの短い髪に合わせた、短い袖のブラウス。やや膝上の長い脚を見せるようなスカート。そして空のような明るい色のスカーフを首に巻いていた。
男に負けない活発さを持つ美人、という印象を善子与えた。
曜「あははっ!そんなに堅苦しくしないでいいよ。親戚同士、曜って呼んでほしいな、善子ちゃん!」
善子「わ、わかったわ……曜さ、曜」
曜「上出来であります!」
不気味な村名の、閉鎖的な田舎から来た人間とは思えない爽やかな見た目と、明るく社交的な曜に終始たじたじの善子であった。
全部前100次100最新50
海未「ふっ、ふるくさ……!」
海未「……まあいいでしょう。園田海未、私立探偵です」
へえー探偵さんなんだ、と曜は言う。そして興味津々な目つきで海未を観察した。
海未「そ、そんなに珍しいですか……」
曜「うん!もっとシャーロックホームズみたいなカッコイイものだと思ってた」
海未「ははは……」
歯に衣着せぬ物言いの曜に、こちらもタジタジであった。
花陽「あ、そうだ。善子ちゃん」
花陽「曜さんは逮捕の知らせを聞いて、すぐに東京へ出向いて梨子さんのことを証言してくれたんだよ」
善子「曜、ありがとう」
いま自由の身でいられるのは、今まで一度も顔を合わせたことのない親戚のおかげ。
変な気分だが、曜に対して親近感がわいてきた。
曜「どういたしまして!力になってたら嬉しいな。警察もひどいねー、いまだに特高気取りって感じだもん」
善子「確かにそうね」
高圧的な態度をとる警察の連中を思い出し、曜に同調した。
そこに海未が質問をする。
曜「うん、なんでもいいよ」
海未「ミュウズ、というのは村の神様だと、さっきおっしゃいましたね?」
曜「そうだよ。村の名前の由来になった神様で、小さいころから悪いことをするとミュウズ様が怒るぞ!」
曜「……って親からよく言われていたんだ」
こわーい神様なんだよ、と少しおどけた声でいった。
曜「で、そのミュウズ様がどうしたの?」
海未「それは……ちょっと調べ物をしていて、気になったので、ね?」
善子「そうなの!これから行く村のことを知っておこうと思って!」
海未の目配せに気づき、とっさに口裏を合わせた。
あの脅迫状を送ったのは村の関係者であることが濃厚な以上、この件は伏せておくべき。
そう直感した海未はごまかすことを選んだ。
幸運にも対面する直前、海未がとっさの機転で脅迫状を着物の懐にしまい込んだことが、彼女に疑念を持たせずに済んだ。
曜「……ふうん、そっか!」
詮索する目つきを瞬時に変え、笑顔で納得した。
ただ明るく奔放なように見えるが、相手の機微を瞬時に読み取ろうとする感覚が鋭い。
曜の表情変化を海未はそう評した。
曜「本家からお金はたくさんもらってるんだー」
ほらいこう、いこう。大都会に来てはしゃいでいる曜が食事に誘う。
善子は事務所にかかっている壁掛け時計を見た。
時刻はちょうど昼時、今日は朝起きてすぐ花陽のとこへ向かったから、何も食べていない。
善子「よかったら海未もどう?」
海未「では、ご相伴に預かります」
この渡辺曜という人物から村のことを聞き出すには良い機会かもしれない。
午後すぐに別の案件と、朝食時にひっくり返ってしまった白飯の供養で忙しい花陽をおいて、海未たちは外に出た。
格式の高さにふたりが躊躇するなか、曜は近所の店を訪ねるかのような感覚で敷居をまたいだのには驚嘆した。
店内は黒を基調とした内装で、アンティークの照明、静かな店内に座り心地のいい椅子があった。戦前から営業していたこの店は、敗戦後も味にうるさい進駐軍将校たちが通い詰めた有名店だった。
東京育ちの海未と善子は評判こそ知っていたものの、代金が千円以上もするこの店に入ったことは一度もなかった。
都会人でさえめったに行けない店を知っている田舎娘。海未はその見立てに違和感が生じた。
曜「ここのハンバーグステーキが絶品なんだよ!食べてほしいなー」
ウェイターから渡されたメニュー表の横文字に目を回しているふたりに笑顔でいう。
善子「じゃあそれで……」
海未「私も。ところで渡辺さん、この店をよくご存じでしたね。東京にはよく行かれるのですか?」
曜「曜、でいいよ。さっすが探偵さん、よく見てるね」
曜「パパの会社が東京にあって、手伝うために村と往復してるんだ。ちなみにここはその時によく行くんだ」
詳しく聞くと、海運会社を経営している父親と出資者の黒澤家との連絡役をしていて、桜内弁護士とも親交があったとのこと。
曜「やっぱり東京はいいね、開放的で!あの村はジメっとしてて、何もないところだし……」
曜「それに名前が名前だからねー、人が寄り付かないんだ」
眉尻を下げる曜。そこで善子は村のことで最も気になることを尋ねた。
その瞬間、曜の顔つきが変わった。
いつもの明るい表情は一切なく、真剣な視線をふたりに注ぐ。
曜「たしかに、不気味だよね……」
曜「でもそれには大きな理由があるの。聞きたい?」
善子「ええ」
海未「ぜひとも」
わかった、と曜はうなずいた。
曜「――九つ墓村。この名前は戦国時代から始まった黒い因縁、ううん、呪いみたいなものが発端なの」
曜「それは民主主義、人権平等が叫ばれる今でも村の奥深くに根付いているんだ――」
まるで子供に昔話でもするかのような落ち着いた口調で、静かに語り始めた。
豊臣軍の圧力に屈し、小田原城が開城した騒ぎに乗じて、北条に仕えていた音ノ木の姫とお供の八人が城を脱出。
追手を逃れるため、険しい山を越えて苦難の果てに海沿いに面した小さな集落だったこの村にたどり着いた。
彼女たちは山側の洞窟に住み着き、山林を切り開いて自給自足の暮らしを始めた。
彼女たちは畑を耕し、夜は焚き火を囲んで歌や舞で日中の労をねぎらうのんびりとした日々。
最初は粗暴な落ち武者ではないか、と恐れていた村人たちだった。
だが、何もしてこないとわかると次第に心を開き、海産物や野菜を差し出しては歌や舞を楽しむ交流が始まった。
しかし、それはつかの間のこと。
ついに村のほうへ豊臣軍の詮議の手が伸び、首を差し出して報奨金を受け取る事と匿って村全滅するかの選択を村人たちは迫られた。
そんなとき村中に流れた、九人が持ち出した北条氏の黄金をここに隠しているという噂を信じた当時の村の長、黒澤石蔵は決断した。
そこで彼女たちにふるまう料理に毒を盛り、痺れて動けなくなったときを見計らい、一斉に竹槍や農具で襲い掛かった。
襲撃は残虐を極めた。
いちはやく毒に気づいた女医は真っ先に槍で串刺し。無数の鎌や銛で突かれ続け、人の原形をとどめていない者。複数人に手足を押さえられ、生きたまま首を切断された者もいた。
こうして、痺れつつも姫を守ろうとした従者たちはひとり、またひとりと村人によって倒された。
卑劣な手段で大切な仲間を無残に殺された姫の恨みはすさまじいもので。
「――みんな許さない。祟ってやるッ!絶対に祟ってやるんだから」
斬られた足を引きずりながら最期にそう叫んだのち、村人たちがうち振るう無数の刃によってこと切れた。
石蔵が首を確保したとき、浜は九人の血で赤黒く染め上がって数日は漁が出来なかったらしい。
九つの首は、すべてカッと目を見開き歯を食いしばった憎悪に満ちた表情で、見た者たちを戦慄せしめたそうだ。
こうして九人の首を豊臣軍に差し出して、黒澤家は報奨金で潤ったとさ。
めでたし。めでたし。
――とは終わらなかった。
我先に黄金を見つけようと村人たちは山の土を掘り起こし、森を切り開き、暗い洞窟を真昼のように照らした。
そんな欲深い探索者たちに、奇怪な出来事が次々と起こった。
手当たり次第に山の斜面を掘っていた者は、土砂崩れで生き埋めに。
森を切り倒した者は、倒れてきた大木に押し潰され。
複雑に入り組んだ洞窟の中を探し回った者は、足を滑らせて崖下の鋭利な鍾乳石の先端に落ちて串刺しに。
このような事故が連続し、犠牲者が相次いだ。
一向に見つからない黄金、増える犠牲者。
そして村を震撼させる大事件が起きた。
襲撃の首謀者、黒澤石蔵が未明に突如として錯乱。刀を振り回し、家族と奉公人を殺害したのち、その刀で自ら首を切断するという常軌を逸した最期を迎えた。
この事件の犠牲者は石蔵を含め、六人。そこに黄金探索の犠牲者三人を足すと、一連の死者は九人。
「――これは九人の祟りじゃ」
誰かが発したその一言は、瞬く間に村中に伝染した。無論、根拠のないことだが、自分たちの犯した罪の深さに今さら恐れをなしたのだった。
呪いや怨念というものは、それ自体を意識し始めたとき、はじめて大きな効力を与える。
暗雲のごとく村人たちの胸中に漂っていた恐怖はこの一件で厄災として具現化し、九人の祟りとしてこの地に黒い根を下ろした。
それまで浜に打ち捨てられ、海砂にまみれ虫と蟹にたかられていた九人の遺体を丁寧に葬り、墓石と祠を建て、荒魂の神として供養した。
その九つの墓標と九つ明神と命名された鎮魂の祠は、村を見下ろせる山肌に今でもある。
こうして村は、九つ墓村と呼ばれるようになった。
では、なぜ今では神の名が明神ではなくミュウズ様と呼ばれているのか。
それは村を訪れた宣教師が九つ明神の伝承を聞き、九人の歌う女神たちを示すラテン語のムーサと名付けたことが村に広まり、転じてミュウズ様と呼ばれるようになって定着し、今に至る。
――以上がふたりに曜が語った、九つ墓村の由来とミュウズ様の祟りの全貌だった。
遠い昔話を終えた曜は、きょとんとした様子でふたりの顔を覗き込む。
善子「……」
海未「……」
曜「もうっ、迷信だよ迷信!よくある田舎のこわーい民話だよ」
善子「そ、そうよね」
まるで自分に言い聞かせるようにうなずく。
遠い西洋の怪談や悪魔の物語は娯楽として楽しめるが、地に足のついたジットリと嫌な汗が出る日本のそういうものは苦手だった。
曜「さあ、食べちゃおうっか!」
少し重たい空気がテーブルに漂っていたが、ちょうどウェイターが運んできたのを幸いと曜が促す。
その後、一転して楽しい雰囲気で食事を楽しんだ。
店を出たあと、父親の会社を訪ねるという曜と別れ、海未と善子ふたりきりになって家路につく。
海未「私も同行いたします」
帰って荷造りしなきゃ、という善子に海未は念を押すようにこう言った。
海未「今後、あの村で多くのことを得られることでしょう。もし、重大な情報があったら私にお伝えください」
海未「――隠していては、守れるものも守れなくなりますので」
善子「!」
真剣な海未の言葉にどきりとする。曜との出会いと生まれた村に行くことの気持ちの高ぶりから、すっかり忘却の彼方へ押しやっていた。
善子「脅迫してきたのは村の者、ということよね」
海未「はい。くれぐれもご用心を。犯人の計画はすでに動き出していますから」
海未「ああ、これはお返しします」
懐から例の脅迫状を取り出して渡す。正直、気持ち悪くて受け取りたくはなかったが、渋々と受け取った。
海未「……では」
帽子のふちをつまんで挨拶する海未と別れた。
久しぶりの東京に心躍らせる曜に連れられ、劇場や映画、食事と買い物に付き合わされた。
曜「せっかくの東京だもん、楽しまなきゃ!」
曜「あ、これ千歌ちゃんに似合うかな?」
善子「まぁ……いいんじゃない?」
曜「もうっ、適当なんだから……」
頬をふくらませる。そりゃ、荷物持ちに聞かれても。
曜に振り回された東京見物のなかで、特に善子が困惑したのは、様々な職業の制服好きな彼女と共に東京中の百貨店にいるエレベーターガールの見物だった。
曜「トサカみたいな髪型の、声が素敵なお姉さんがいるこのデパートが最高なんだよ!制服がとっても良くってさぁ!」
善子「そう……」
目を輝かせて何度もエレベーターに乗る曜にげんなりした。
一方、海未から警告されて用心していたものの、奇怪な脅迫状が届いたきり何も起きなかった。
こうして善子は出発の日を迎えた。
二十四年ぶりの村入りということで、曜が見立てた一張羅を着た。
イタリア製のジャケットにタイトスカート、素敵な帽子で都会人の風格を全面に押し出す、らしい。
ちなみに曜は、青空のような青色に白のドット柄のトップスにフレアスカート、白い手袋という夏らしさを前面に出した格好だった。
一方、合流した海未はいつもの恰好だった。もしかして、それしか着るものがないのだろうか。
海未「なんで私だけ二等客車……」
花陽「海未ちゃん、なにかな?」
海未「いえ……なんでも……」
にっこり微笑む雇い主に頭が上がらない。
善子「お気の毒ね……」
曜「じゃあ、いこっか!」
別の客車に乗る海未と別れ、トランク片手に乗り込む。
タラップに足をかけた善子はふと、背後を振り返った。
三つのときに村をでて、ずっと過ごしてきたこの街を離れる。
なんだかとても名残惜しく、こみ上げるものがあった。
善子「――さよなら」
津島の名字を授けてくれた義父と東京にしばしの別れを告げ、出発の警笛が鳴ったのに合わせて乗り込んだ。
行先は静岡県は伊豆半島。その付け根にある大きな港町の、九つ墓村から最も近い駅である。
快適な一等客車で善子と曜は対面で腰掛けていた。
車窓から見る景色はコンクリートのビル群から、煙突だらけの街、そして雄大な相模湾へと移っていく。
曜「駅に着いたあと、さらに村まで三時間くらいかかるんだ」
善子「遠いわね」
曜「うん、歩きだからね。頑張るであります!」
はあっ、と思わず声が出た善子。そんな長時間も歩いたことなんてない。
とんでもない田舎に来てしまった、若干の後悔が湧き上がる。
その狼狽ぶりをみた曜が小さく笑った。
曜「冗談だよ、冗談!バスもあるし、今回は車を用意してるから心配しないで」
善子「もう!からかわないでよ!」
曜「あははっ!ごめんごめん」
曜「あ、探偵さんは本当に歩くのかもよ?」
善子「確か花陽が手配した村の旅館の女中が駅に迎えにきて、その案内でバスに乗るそうよ」
曜「そっか、十千万の」
善子「十千万?」
曜「村唯一の旅館だよ、温泉がわいてて、いい宿なんだ」
曜「あと、そこの女中がとっても可愛くて大好きなんだぁ!」
善子「そ、そうなの……」
曜「そうなの!」
気迫に善子はたじろぐ。どうやら意中の人がいるようだ。
それからお互いの身の上話に花が咲いた。
海軍兵学校で成績上位だったうえ、昭和十五年九月に開催されるはずだった東京オリンピックの水泳競技に出る予定だったという。
どおりで、善子は曜の引き締まった腰と太ももを見つめ、納得した。
戦後、軍が解体されたのち村に帰ってきた。村で日々を過ごしながら社長令嬢として父の代理で交渉事を行っているそうだ。
曜「パパの仕事を手伝いながら、村で絶賛くすぶっているのであります!」
敬礼のポーズをとっておどける。明るく振舞っているものの、曜の性分には合わない生活だろうと善子は思った。
さらに聞けば、曜のように本家の支援のもとで生活している分家の者がいるそうだ。
善子「ねえ、曜……」
曜「ん?」
善子「そのなかで、私が家を継ぐことをよく思わない人間っている?」
曜「そ、それは……いないんじゃないかな」
質問に驚いて青い目を泳がせ、視線を下に向けた。
善子「答えて」
曜「うう……」
善子の射すような視線を受けて、目を伏せていた曜は意を決して顔をあげる。
曜「……鹿角の聖良さんかも。いや、でもそんな」
善子「曜、教えて」
その鹿角聖良という人物について、さらに聞き出す。
戦前は樺太で事業をやっていたが、ソ連軍侵攻により引き揚げて無一文となって、いまでは本家に居候の身で村のはずれに家を構えている。
ひとり妹がおり、函館の身内に預けているそうだ。
日中は農家の真似事をしながら過ごし、夜は何をしているのかわからないが出歩いているらしい。
曜の話によれば、ある理由で当主のダイヤや本家の者から好かれておらず、今回の善子の相続に対して良い思いをしていないと噂があるそうだ。
本家から嫌われている理由は、父親同士の確執である。
ダイヤの父で先代当主の黒澤輝石には、北海道の鹿角家に養子に出した弟がいた。
この弟は大変聡明かつ健康で、周囲から兄より優れていると周囲の評判だった。
その娘、鹿角聖良も文武両道の才色兼備。
本家の者たちはさぞ、嫉妬しただろう。
現当主のダイヤがそのまま病没した場合、実妹のルビィはとある事情により相続ができないため、彼女が本家相続の筆頭候補に躍り出る。
――兄より優れた弟などいない。
古い慣習、血縁と長子相続を守る田舎において聖良の存在は大変不都合。
伝統ある黒澤の財産を是が非でも鹿角家に渡したくないダイヤとその親族が、父の婚外子である善子を探偵を雇ってまで探し出した理由がそこにあった。
慎重に言葉を選んで話し終えた曜にいう。その声には納得と呆れの感情が入り混じっていた。
二十四年も放っておいて今さら呼び寄せたのは、憎き弟の血を引くものに莫大な財産を渡したくないためか。
わざわざ無一文の身に堕ちた聖良を引き取ったうえで、目の前で自分を後継指名する。これほど気持ちの良い意趣返しはそうそうないはずだ。
名にたがわず黒い家である。
ああ、そうか。自分は知らぬ間に三億円をめぐる田舎の資産家一族の暗闘に巻き込まれていたのだ。
黒い渦の中心で、あわれにもクルクルと回るだけの落ち葉のように。
ふと、善子はあの脅迫状を思い出す。
彼女には少なくとも自分を恨む理由があるわけだ。目の前で梨子を悶絶死させ、怪文書で脅してきた犯人かもしれない。
――鹿角聖良、用心しなくては。
まだ見ぬ相手との対峙に備え、気を引き締めた。
海未「いたた……座り心地はいまいちでしたよ」
腰をさすりながらホームに降り立った海未と共に改札を出た。
大きな平たい駅舎を出ると目の前に広がるタクシー乗り場。曜の話によれば、来年に新しい駅舎の建設が始まるそうだ。
伊豆半島の付け根にあるこの街は、戦後の復興を終えて新しい都市へと変貌しようとしていた。
曜「東京の百貨店が沼津にできるといいなー」
善子「曜のことだから、エレベーターガールの制服見たさに毎日通いそうね」
駅前で建設中の大きなビルを見上げる曜に善子はいう。
「あ、よーちゃんだ!おーい」
誰かが声をかけ、こちらに駆け寄ってきた。
曜「千歌ちゃん!やっぱりここに来てたんだ。お仕事?」
千歌「うん!東京からのお客さんを待っているのだ」
曜に千歌と呼ばれた若い娘は元気よく答える。親しげな会話から同い年のようだが、童顔と白い襟が引き立てるミカン色のワンピース姿が快活な年下娘という印象を与えた。
そして胸は海未と善子に比べ、豊満であった。
千歌「ようこそお越しくださいました!十千万で女中をしてます、高海千歌です」
曜に紹介された海未の前に、トテトテと歩み寄って一礼した。海未は帽子をとって黙礼で返す。
田舎の旅館の女中にしては、ずいぶん良い恰好である。安月給で買える服ではない。
海未「ずいぶんとおしゃれな女中ですね」
曜「十千万、家族で経営しているんだ。千歌ちゃんは一番下の娘なの」
海未「なるほど。お嬢さんでしたか」
曜の説明で納得した。
曜「あ、千歌ちゃん!これ、東京のお土産」
千歌「わーい!よーちゃんありがとー!」
百貨店で買った服が詰まっている紙袋をもらった千歌は、嬉しそうにくるくる舞う。それを見た曜は微笑んでいた。
なるほど、そういうことか。海未は察する。
千歌「東京どうだったー?」
曜「とっても良かった!素敵な制服がいっぱいで――」
千歌「へえ!もっと聞かせて聞かせて!」
曜「うん!」
善子と海未そっちのけで東京の土産話で盛り上がる田舎娘ふたりに面食らった。
善子「あったわ。黒澤家には――」
曜から車中で聞いたすべてを話す。
懐から取り出した手帳を開き、手掛かりとなる文言を口で反芻させつつ万年筆を走らせて書き留めていく。
その真剣な様子に、やはり探偵なのだと善子は思った。
海未「ふむ……鹿角と本家の対立ですか。実に興味深い」
善子「海未、その聖良が犯人だと思う?」
海未「いいえ、決めつけるには早すぎます。よしんば彼女だとしても、それに足る情報と動機が少ないです」
海未「まずは現地で調査をせねば」
善子「そうね。まだ始まったばかりだもの」
閉じた手帳を懐にしまう海未。
ようやくあのふたりの会話が終わったので、密談を終わらせた。
駅前に停まった運転手つきのアメリカ製の黒い自家用車を見て、自分の収入で何年分だろうと思わず胸算用してしまった。
曜は千歌と海未も同乗するよう誘ったが、女将の姉から駄賃をもらっているからと千歌が固辞。
結局、海未たちはバスで向かう事になった。
善子「――きれいね、海」
海岸線に沿って走る車。その後部座席の窓を開けた善子は、感嘆の声を漏らす。
喧噪の市街地を過ぎ、山道を通ってトンネルを抜けると、一気に紺碧の駿河湾が広がった。
美しい水平線の先には、うっすら青みがかった富士山も見えた。
開いた窓から吹き込む海風が前髪をなでる。なんとも心地よい。
この景勝地の先に、あの不気味な村があるということさえ忘れてしまう。
曜「でしょー!海のきれいさでは東京に絶対負けないもんね」
曜「あ、あの大きな岩をぐるりと回って、少し行くと村が見えてくるよ」
指をさしていう。もうすぐね、といって善子は車窓の景色から正面に視線を戻す。
曜「――ねえ、善子ちゃん」
曜「村に着く前にひとつ言っておきたいことがあるの」
善子「えっ?」
真剣な口調に気づき、曜の顔に目をやる。彼女はまっすぐこちらを見つめ、訓示をあたえる教官のような顔つきだった。
いいね、とさらに念を押す。
善子「……二十四年前のことね。一体、何があったの?」
すると曜は申し訳なさそうな声で。
曜「そのことについて下屋、つまり渡辺の家が口にすることは許されてないんだ……」
曜「ダイヤ様かルビィ様に直接、尋ねてほしい」
また秘密――本当、この村は秘密が好きなのね。
うつむきがちにいう曜を見て、善子は眉尻を下げた。
ふたりを乗せた車は、ちょうど海岸にせり出している岩を迂回。その大きな岩を背にしたとき、村の全景が視界に入ってきた。
曜「ほら、あれが九つ墓村だよ」
指をさす曜につづいて、目を向けた。
声を漏らした。
九つ墓村は三方を山、残り一方をふたつの岬の狭間に広がる三日月型の湾岸に囲まれた人口数百の小さな村である。
人家は田畑をはさみつつ、ゆるやかにくだる山裾から小さな漁港がある海まで所々に点在していた。
曜「山のふもとにひときわ大きな屋敷があるでしょ?あれが黒澤家。村では上屋と呼ばれてるよ」
説明に従い、善子は車窓から巨大な邸宅を目で追う。
上屋の黒澤家は、白壁に囲まれた大きな瓦葺きの母屋と離れに土蔵が三つもあり、華族の屋敷といっても遜色ない立派な佇まいであった。
――あれが私の生まれた家。
善子は目を見張った。ひとりで慎ましく暮らしていた四畳半とは別世界だ。
曜「そしてあれが、私のおうち。下屋であります!」
善子「山側が黒澤の上屋で、海側が渡辺の下屋なのね」
小さな漁港の周囲に点在した藁葺き民家のなかに、黒漆に塗られた大きな門が特徴の屋敷があった。黒澤家ほど大きくはないが周囲とは段違いの佇まいである。
曜「うん!小さいけど上屋よりこっちが古くて、元々はそこが黒澤家だったんだ」
善子「えっ、そうなの?」
村と黒澤家について善子に説明する。
曜「農業でいうなら、大地主だね」
曜「私たち渡辺の家は代々、漁師の家系で、大昔に黒澤家と婚を通じて分家になったんだ」
曜「黒澤家は積極的に自分たちの子を他家に送って、血縁関係を結んで一族として囲い込んだの」
曜「一時期は沼津の主な豪商たちも一族だったらしいよ」
善子「まるでハプスブルク家ね」
曜「はぷ……?」
善子「なんでもない、続けて」
曜「江戸時代からはミカン栽培に手を出して、山を切り開いてミカンを小作人に作らせて莫大な利益を得たんだ。今ではすっかり漁業より村の産業になってるよ」
村に目を向けると、黒澤家の屋敷の上にある山の斜面に、手入れの行き届いた果樹園が見える。そこでミカンを育てているようだ。
実はもちろん、その皮も漢方薬として需要があるミカン。黒澤家にとってまさに緑のダイヤモンドだったであろう。
曜「黒澤家はミカンの利益であの屋敷、上屋を建てて下屋から移り住んだの。ちなみに村人からはミカン御殿とも呼ばれてるんだ」
曜「あのGHQの農地改革で多くの地主が没落していったけど、山の果樹園は対象外だった。おかげで今も黒澤家は伊豆で絶大な影響力を保ってるよ」
古代魚が陸へあがり巨大トカゲとなったように、黒澤家も小さな網元から多角経営の資本家へと進化した。そして大きな力をいまだに残しているのだ。
曜「さ、もう村に入るよ!」
黒澤の歴史の授業を終え、善子たちを乗せた車は集落へ入っていった。
走る車に気付いて日常を止めた村人たちから自分へ注がれる視線、視線、視線。
どれもすべて歓迎とは程遠い、冷たい抗議の意思を車窓越しでもうっすら感じとれた。
善子「村の人がこっちをジッとみてるわ……」
曜「車が珍しいんだよ。乗ったことないひとが多いからねー」
善子「なんだかにらみつけてるような感じなんだけど」
曜「……もう少しで上屋だよ、ほら!」
フロントガラスに映る、近づいてきた屋敷を指さす。側面の窓から善子の視線をそらすかのように。
促されて前をみたそのとき、車の前に女が勢いよく飛び出してきた。
吃驚した運転手がブレーキを強く踏む。ブレーキパッドの悲鳴と共に、車は大きく前のめりになったあと急停車。
運よく女には接触しなかったが、車内の善子にとっては突然の不運到来であった。
善子「いたた……おでこぶつけた……」
曜「ちょっと!どうしたのッ!」
額をおさえて痛みをこらえる善子のそばで、曜が怒気を含んだ声で運転手にいう。
いつき「曜お嬢様、大食いの尼です……」
運転手は大変恐縮しきった様子で声を絞り出す。
善子は片手で額を押さえつつ、車の前に立ちはだかった女を見た。
背丈は小さく、ぼさぼさの髪、ぎょろりと見開いた黄色の瞳は怪しく輝きを放っている。
尼は元の色が何かわからないほど黄ばんだボロボロの着物を身にまとい、そこから伸びる貧相な足は擦り切れた草鞋を履いていた。
まるで妖怪か駅前の浮浪者だ、善子は外見からそう思った。
大食いの尼「来るな!帰れ!帰れッ!ミュウズ様はお怒りずら!」
ぶんぶん拳を振ってそう叫び、車の前で地団駄を踏む。そのたびに大きなふたつの乳房が激しく揺れる。
大食いの尼「お前が来ると村に血の雨が降る!死人が出るぞ!」
大食いの尼「ミュウズ様は九つの生贄を求めている。あの桜内は一番目ずら!」
大食いの尼「それから二つ、三つ……九つの死人が出るまで終わらない!」
大食いの尼「祟りずら、祟りずらーッ!」
車の前でひたすら金切り声をあげている様子は、まさに気違いという他ない。
曜「……出して」
いつき「は、はい!」
眉間にしわを寄せ、怪訝な表情を浮かべた曜が語気を強めて運転手にいう。すぐに応じ、アクセルペダルを強く踏みしめた。
エンジンの咆哮と共に、車は勢いよく発進。驚いて飛びのいた尼は、地べたに大きな尻もちをついた。
大食いの尼「ぎゃーッ!まずはオラを血祭りにあげる気か!」
大食いの尼「おのれ、おのれ、父親のように災いを起こすのかーッ!」
どんどん遠くなっていく車に向かって、尼はひたすら叫び続けていた。
これが、善子が九つ墓村で初めて受けた歓迎であった。
善子「大丈夫よ……で、あのひとは?」
曜「あれは大食いの尼。ちょっと頭が変なの」
曜「本名は花丸といって、二十四年前に祖母を亡くしてから尼になったんだけど……」
曜「つい先月、ミュウズ様の祠に雷が落ちたのを見てから、あんなことを口走るようになったんだ」
詳しく聞くと、梅雨のある日に激しい雷雨があり、近くに住んでいる花丸がその瞬間を目撃したらしい。
それで元々の空想癖と祟り伝説が結びついた結果。村中をうろついては、祟りずら、祟りずら、と叫んでいるそうだ。
曜「みんなもあきれ果てて、気違い尼だの大食いババアとか陰で嘲笑してるの」
善子「そうなの……」
頭の中で尼の口走った言葉が引っかかっていた。
――あの文言、脅迫状の内容とほとんど同じだ。
しかし、花丸では毒カプセルを用いて梨子を殺害するという、高度で手間のかかる犯行はまずできないだろう。
第一、顧問弁護士と尼では接点がなさすぎる。
あの身なりからして、東京へ行く財力もないだろう。
おそらく、犯人はあの尼の口走る妄言をヒントに脅迫状を作ったに違いない。
――確実に、この村の中に犯人がいる。
そう考えると、善子の胸中に重く暗いものがのしかかった。
二十四年ぶりの村の土を踏む善子。
善子「近づくと、さらに大きいわね……」
壮大な門構えに圧倒されていると、視界の端に人の姿を見とめた。
それは燃えるような赤い髪、明るい緑の瞳をもつ小柄な女性であった。その人物と目が合う。
「……ッ、ピギッ!」
目を合わせた瞬間、小動物めいた小さな悲鳴をあげ、パタパタとあわただしく門柱の隅に隠れてしまった。
善子「あの子は――」
曜「当主ダイヤ様の実妹、ルビィ様だよ。お迎えに来てくれたんだね」
善子「当主の妹……」
曜「ルビィ様、善子さんをお連れしましたよー!」
元気よく門柱のほうへ声をかけた。
すると、子犬のごとくおっかなびっくりの様子で、門柱からゆっくり姿を現した。
髪をふたつにまとめた、小柄だが清潔感のある色白肌の美人であった。
年齢は善子より少し上で姉にあたるはずだが、顔つきと挙動に幼さがあった。ゆえに一見、少女と見間違えてしまう。
運転手に荷物を預け、曜と共に石段を上がって門前のルビィのもとへ。
これが善子にとって異母姉との初対面であった。
ルビィ「ぅゅ……善子ちゃん……?」
善子「津島――黒澤善子です」
自己紹介ののち、深々と姉に頭をさげる。
この家の敷居をまたぐ以上、黒澤の人間として生きていかなければならない。
前の名字は伏せることにした。
ルビィ「あっ、下屋の曜ちゃんも一緒に……」
曜「ありがとう!ご一緒させてもらうね」
先ほどまでの怯えきった様子から一転、親しみを込めた優しい口調で善子を迎え、玄関へ案内する。
ルビイの穏やかな態度に村で歓迎を受けていた善子は、いくらか張りつめていた神経がほぐれた。
ルビイ「曜ちゃん、よかったら夕食も一緒にどうかな」
曜「いいの?やった」
ルビィ「今日は良い金目鯛が手に入ったんだぁ」
善子「へぇ」
雑談しながら玄関に入ったとき、古い日本家屋特有の冷たい空気が吹き込むのを感じた。
ちょうどそこに女中がやってくる。
よしみ「ルビィ様、果南様が離れにてお待ちです」
ルビィ「うん、わかったぁ」
靴を脱いであがり、よしみという女中とルビィのあとをついて、曜と並んで十間はあろうかという長い廊下を歩いていく。
時刻はすでに夕刻となっており、廊下の脇にある庭園に斜陽が差し込んでいた。
曜「どうかな?善子ちゃんの印象は」
ルビィ「ぅゅ……立派に成長したなぁって……」
少し口ごもったあと頬を赤く染めて答えた。どうやら恥ずかしがり屋のようで、あまり話すのが上手ではないらしい。
善子「本当、広いわね……」
ルビィ「む、昔ね……沼津藩の殿様がお泊まりになるってことで屋敷と離れを大きくしたんだぁ」
善子「へぇ……」
曜「ところで、大伯母様が離れになんて珍しいねー」
ルビィ「うん。善子ちゃんをお迎えするなら、そっちのほうがいいって言うもんだから……」
廊下が終わると少しあがって、ふすまの前に立つ。案内の女中が膝をついて、中にいる人物へ声をかけた。
よしみ「――果南様、善子様をお連れしました」
女中がゆっくりとふすまを開け、善子たちは座敷に入る。そこには、十二畳ふた間つづきの広い座敷があった。
その床の間を背に、黒澤家の当主に次ぐ権力者、果南様がいた。
もう八十以上は年齢を重ねているのではないだろうか。すっかり白くなった髪を後ろに束ね、小さく背を丸めてえんじ色の座布団に座り、着物の上に紋付を羽織っていた。
年齢の割に顔のシワが少なく、色つやが良い肌。まだ瑞々しい唇と化粧をしていない肌の様子から、昔は相当な美人だったのだろう。
この家の者は大伯母と呼んでいるので、父方の祖父の姉妹にあたる人物らしい。
果南「よく来たね。そこに座って、座って」
まだ歯があるのか、老女特有のすぼめた口ではなく、発音もはっきりしている。
黒澤家の長老に促された善子は、果南と対面するように正座した。
曜「大伯母様、東京から善子さんをお連れしました。善子ちゃん、こちらが果南様」
いままで気さくな態度をとっていた曜でさえ、彼女の前では正座をして丁寧な口調で話すほどの人物。
善子は思わず背筋が伸びる。
果南「ああ、これが――」
果南「それにしても、よく似てるね。目元、口元、そのはっきりとした鼻筋……」
果南「頭の団子まで……まさにあの娘の子供だねぇ」
なめるように善子を観察したあと、関心した様子でそう言った。そのとき、書院から夕陽が差し込んで顔の半分が影になっていた。
素直に喜ぶべきか、そもそも誉め言葉なのか。よくわからない善子は黙ったままうなずく。
果南「あなたはこの離れで生まれたんだよ、この座敷で。あれから二十四年たったけど、あの時のままにしてあるんだ」
果南「善子、今日からここが家になるから。好きに使っていいよ」
再びうなずく善子。ちょうどそこに曜が口をはさんだ。
果南「今日は調子がかなり悪いんだ。引き合わせるのは明日にしようと思う、もう来年は厳しいかなん」
曜「病状、そんなに悪いんですか」
果南「まあね。鞠莉はまだ大丈夫とか言ってるけど、引き伸ばすだけ無駄だよ、そろそろ……」
善子「あ、あの、ご病気はなんですか?」
ようやく口を開くことができた。
果南「腫瘍だよ、肺の。沼津の大病院も、隣村の疎開医の西木野もさじを投げてる」
果南「だから善子、当主としてしっかりしないといけないよ。そうじゃなきゃ、この家は潰れてしまうんだから」
果南「ま、もう大丈夫だね。こんな壮健な娘が継いでくれるんだから、心残りはもうないよ。今頃どこかの誰かさんがホゾを嚙んでるだろうね……アハハ!」
薄暗い夕暮れの広い座敷で老女が高笑いしたとき、善子は背筋がぞくりとした。その声の中には今までの穏やかさとは打って変わって、仄暗い何かが垣間見えたからだ。
ルビィ「……」
こうして善子は伊豆半島の不気味な村の、古い伝説と因縁にとらわれた旧家に身を置くことになったのである。
その時ちょうどルビィが雨戸を開けにやってきた。
ルビィ「おはよう、善子ちゃん」
善子「おはようございます……えっと、ルビィ姉さん」
ルビィ「ルビィ、でいいよ。善子ちゃんは当主になるんだから、そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」
昨日の口ごもっていた様子とは違い、妹を気遣うかのような穏やかな態度。人見知りこそあれ、心を開いたら案外気さくな性格なのかもしれない。
今日のルビィは先日のような華やかな着物ではなく、普段着らしい洋服を着ている。
ルビィ「昨晩はよく眠れた?」
善子「あまり……」
目をこすりながら答える。昨晩はなかなか寝付けなかった。
今まで過ごした四畳半のアパートと違い、十二畳のしん、とした座敷。あまりに広く、よしみが敷いた布団に入ったとき心細さを感じた。
古い日本家屋特有の畳と木の匂いと、山からはフクロウなのかミミズクなのか、それとも獣なのかわからない鳴き声が聞こえてくる。
そんな暗く慣れない場所で、今まで起きたことを走馬灯のように思い出して善子は目がさえてしまった。
青酸カリで悶絶死した梨子、奇怪な脅迫状、村人の視線、花丸という尼が口走った言葉、果南の思惑、そして村に根を下ろすミュウズの祟り。
それらが大きな黒いモヤとなって、座敷の隅から形となって自分に忍び寄ってくるような錯覚があり、不安と怖さのあまり布団の中に顔をうずめてようやく寝落ちできた。
こうして善子は朝を迎えたのである。
東京にいたとき曜が、田舎者に舐められない貫禄を、と気合の入ったものを複数買ってくれていた。
ルビィ「今日は親戚とお姉ちゃんに会ってもらうから、とびきりのにしなくっちゃね!」
善子「親戚って、いっぱいいる?」
ルビィ「うん、たくさんいるよ。でも、今回は最も親しい親戚だけだよぉ」
これなんてどう、といって善子に試着を促す。服を受け取って、ふすまの奥で着替えながらルビィに尋ねる。
善子「――鹿角の聖良さんも、来る?」
ルビィ「うん……あれ?善子ちゃん、聖良さんにあったことあるの?」
善子「あ、いや、曜から聞いたのよ……」
着替えながらごまかす。ふすまの向こうから、そうなんだ、と声がした。
着替えを終え、ふすまを勢いよく開け放ち、ルビィの前で着こなしを披露する。
有名なイギリスの映画女優をイメージした黒いブラウスに、自慢のくびれを美しく引き立たせるために腰元には白い革ベルト。
スカートはゆったりしたAラインで夏場も快適に過ごせるものを選んだ。
そして義父から買ってもらったブレスレットをはめた腕を伸ばし、人差し指と中指でピースサインをつくり、目元にもってきて格好よくポーズを決めた。
ルビィ「わあ、とっても美人さんだね!素敵だよぉ!」
善子「あ、ありがとう……」
目を輝かせるルビィの前で、褒められることに慣れていない善子は赤面してしまった。
ルビィ「なぁに?」
善子「――聖良さんって、最近どこか遠くに出かけたりしてない?」
善子「たとえば、東京とか」
ダイヤと親戚が待つ母屋へと長い廊下を移動する最中、聖良の素行について詮索してみる。
ルビィはうーん、と考え込むような声を出したのち。
ルビィ「確か、東京へ遊びに行った妹の理亞ちゃんに会いに行くって、一日くらい留守にしてたらしいよ」
ルビィ「その翌日、遅くに帰ってきたんだったかなぁ」
善子「え?」
心がざわつき、思わず歩みが止まりそうになる。が、何とか踏み出してルビィに悟られないように取り繕った。
詳しく日程を聞けば、なんと自分が梨子の件で警察の取り調べを受けていた日ではないか。
妹に会う理由は方便で、脅迫状を自宅に投函できた可能性も否定できなくなってきた。
善子のなかで、ますます聖良への疑惑が深まっていく。
ルビィ「今日は善子ちゃんのことで使いを出して、わざわざ来てもらったんだぁ」
善子「そ、そうなのね……」
生返事で返す。きっと果南あたりが、自分が帰ってきたことをいち早く披露したくて手配したのだろう。
それが善子自身への好意であればありがたかったのだが――おそらく、いや、確実にある人物への当てつけが含まれているのは想像に難くなかった。
ずしりと心の中に重たいものを抱えつつ、ルビィのあとをついていく。
ルビィ「――お姉ちゃん、善子さんをお連れしました」
ふたりは母屋の奥、廊下と座敷を仕切る障子の前に立つ。
ついに、黒澤家の一族と対面のときがきた。
生命力あふれる庭とは対象的に、ルビィが開けた障子の奥では死期が迫っている黒澤家当主が床にふせっていた。
この敷居はこの世とあの世の境目、此岸と彼岸のようだと善子は思った。
その当主の横には、血縁上もっとも近い親戚と思しき数名が連なって座っている。
ルビィ「善子ちゃん、どうぞ」
敷居をまたいで座敷に入ると、気付いた姉はゆっくりと布団から上体を起こす。寝ぼけまなこを善子へ向ける。
目が合った瞬間、一気に覚醒するかのようにパッチリと開き、にやりと謎めいた微笑みを浮かべた。
ダイヤは病人特有の白装束で、艶やかな黒髪とは対照的に顔色は青白く目元が落ちくぼんでいた。死につきまとわれて、すっかりやつれている。
果南「善子、そこに座って。皆が待ってるよ」
その枕元には果南が座っていた。指で指示されるまま、親戚一同の視線を浴びながら対面の席につく。
果南「ダイヤ、これが妹の善子だよ。善子、これがあなたの姉、ダイヤ」
善子「……」
無言のまま小さく頭を下げた。その様子をダイヤはじっくり見つめたのち、痰がからんでいるようなかすれた声でいった。
ダイヤ「二十四年ぶりですね……あの母親に似て、美人ですことッ――」
ダイヤ「ゴホッ、ゴホッ……!」
それきり激しく咳き込んだ。その間にヒイヒイと喘ぐ姉の痛ましい姿に、善子は顔を上げることができず、正座したまま畳を見つめることしかできなかった。
ようやく咳が収まったダイヤは、恨みがましいように善子にいう。
あまり膨らんでない胸に手をやって、自身を落ち着かせたのち、親戚たちのほうへ目をやる。
ダイヤ「聖良さん、どうです。こんな美人な妹が後継ぎとして帰ってきてくれて、すっかり安心なさったでしょう?」
ダイヤ「これでようやく晴れてあの世へ行けるってものですわ。鞠莉さん、あなたも喜んでくださいな……あはははっ、ゲホッ……!」
笑った拍子に、再び激しく咳き込んだ。
ダイヤ「ハァ、ハァ……せっかくだから善子さん、ここにいる親戚を引き合わせておきますわ」
肩で息を切らしたのち、横の親戚たちを紹介する。
ダイヤ「すぐそばにいるのは、わたくしの従姉妹、小原の鞠莉さん。善子さんのおばになる、この村の唯一の医者ですわ。病気になったら、そこは親戚なので利用してやってくださいな」
善子「……善子、です」
鞠莉「チャオ、よろしくね!」
たどたどしい敬語で挨拶して頭をさげると、欧米人風の整った顔立ちをした金髪の女性が気さくに返す。
どうやら、ダイヤの主治医らしいが、一見すると資産家令嬢のような派手なドレスを着こんでいる。
善子には、彼女が白衣を着て治療をしている姿がどうにも想像できなかった。
ダイヤ「善子さん、めずらしいでしょう。鞠莉さんは一族で唯一、メリケンとのアイノコなんですよ」
ダイヤ「しかも村の医者でありながら、県議会議員に立候補したくてしょうがない目立ちたがりな従姉妹ですわ」
鞠莉「……」
言葉の端にトゲを感じたのは善子だけではなかったようだ。
聖良「鹿角です、よろしくお願いいたします」
丁寧に三つ指をついて、聖良は頭をさげた。
ダイヤ「善子さんの従姉妹ですわ。樺太から引き揚げて文無しになって、村に流れ着いたのですが――」
ダイヤ「そこは親戚同士、仲良くしてやってくださいな」
善子「……はい」
その次は東京から来た渡辺家の当主で、曜の父親だった。娘さんに大変お世話になりました、と礼を述べると嬉しそうな顔を浮かべていた。
ダイヤ「そして最後に妹のルビィです。男を怖がってろくに夜伽もできず、嫁ぎ先を叩き出されて出戻りの身なのですわ」
ルビィ「ぅゅ……」
ダイヤ「妹がそんな身の上でこの家を継げば、伊豆で最も大きな黒澤家の威信は地に落ちます」
ダイヤ「ですから善子さん。今日から屋敷の瓦一枚から、山のミカンひとつまで……すべてあなたのものになります。この黒澤の財産、狙ってくる連中にとられないよう、当主の務めをしっかり果たしてくださいな――」
ダイヤ「特に鞠莉さんと聖良さんには……ゴホッ、ゴホッ!」
ふたりを露骨に名指ししたとき、再び激しく咳き込むダイヤ。
彼女の親戚に対する言動には、咳と共に吐き出す瘴気のような毒々しさが垣間見えた。
どうして親戚なのに財産ひとつでこうも憎みあうのだろうか。天涯孤独だった善子は、血縁に縛られた田舎の旧家というものの難しさを感じた。
それにしても、ダイヤの咳は全然収まらなかった。息を吸っては、激しく吐き出す音がむなしく座敷に響くのみである。
しかし、そんな当主を介抱しようとするものは誰もいなかった。
小原鞠莉は目を細めたまま、動かない。台詞をつけるなら、そらみたことか、と言っているようだった。
従姉妹の鹿角聖良――彼女には人一倍注目していた。だが、親戚のなかでもっとも顔色が読めない人物であった。
ダイヤにも劣らない見事な黒髪を横に束ねた、たれ目で鼻筋の通った美人なのだが、顔つきとは裏腹に上下ともくたびれたカーキ色の復員服を着ていた。服装からして、この一族での立場を表している。
彼女の挙動を善子はじっくり観察していた。ときどき横目でちらりとダイヤを見るも、聖良はほとんど両手を膝上に置いたまま、いっさい表情を変えず正座していた。
ルビィは、うつむいたまま姉の苦しむ姿を直視できずにいる。
なんとも重苦しい空気が座敷にいる一同の間を漂っていたとき、突然ダイヤが叫んだ。
ダイヤ「ぶっ……ブッブーですわッ!当主のわたくしがこんなに苦しんでいるのに、何もしないんですか!ぶっ――」
そこで激しく咳き込む。
善子自身もこの一族の冷たさに身震いして動けなかった。
ダイヤ「薬、薬を……!」
激しく肩で息をしながら片手を振って、果南に助けを求めた。
手元にあった小さな漆塗りの箱を開け、中から三角に折りたたまれた薬包紙をひとつ手に取った。
まるで事務仕事のように無表情で行う。
果南「ほらダイヤ、薬だよ」
薬包紙を手渡す。それを受け取ったダイヤは何を思ったのか、善子の前にかざして声を絞り出した。
ダイヤ「……これ、鞠莉さんが調合したのですよ。とてもよく効きますわ」
意味ありげな微笑を浮かべる。死期が迫っている本人にとって、主治医への単なる皮肉と当てつけのはずだったのだろう。
――しかし、このダイヤの言葉は善子の脳裏に深く残ることとなった。
ダイヤ「んんっ……」
果南「はい、水」
薬包紙を開いて中の粉薬を口に入れ、手渡されたコップの水を飲み干す。
ダイヤ「ハァ、ハァ……ふう……」
果南「ほんと、鞠莉の薬はよく効くね」
背中を丸め、ひざにかかる布団に顔をうずめ、激しかった肩の動きがだんだんと落ち着いてきたダイヤ。それを見届けた果南が口を開く。
ようやく一息ついた。座敷の一同の誰もが思っていたとき――
ダイヤが突然顔をあげ、電気刺激を受けたかのようにビクンと上体を勢いよく反らした。
目を見開き苦悶の表情を浮かべ、両手を喉元にやって激しく身をよじる。そのただならぬ異変に驚いた果南がコップの水を差し出す。
果南「ダイヤ!ほら、水、水を……!」
青白かった顔を真っ赤にしてもがき苦しむダイヤに、コップの水を手に取る余裕はない。
ひとしきり喉元をかきむしって黒髪を振り乱した末、ダイヤは崩れるように布団へ突っ伏した。
そして、動かなくなった。
ルビィ「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
鞠莉「ダイヤ、しっかり!今カンフル剤を打つから――」
妹の悲痛な叫びと、医者のあわただしい声が交錯する。その渦中で、善子は目を見開いたまま身体を硬直させ、激しく動揺するだけだった。
ダイヤの姿勢を仰向けに直して、鞠莉は注射を何本か打ったのち、脈をとって首を横に振る。
鞠莉「――ご臨終よ」
その宣言と同時に、座敷はルビィと果南の慟哭に包まれた。
鞠莉「二十四年ぶりの再会で、つい興奮して無理がたたったのね……」
ルビィ「グスッ、うぅ……」
果南「……」
――重い肺の病気のせい……?いや、違う。こんな死に方を最近、この目でしっかりと見たことがある。
鞠莉の診断に納得する座敷の連中に対し、善子は思わず大声を張り上げた。
善子「――ちがう、違う!ダイヤは殺されたのよ……!」
鞠莉「なっ、何を言ってるの。素人が口を出して何のつもり!」
善子「同じ死に方を前に見たことがある!証拠に……」
鞠莉「ちょっと!ダイヤに触らな――」
怒る鞠莉を無視して善子はダイヤの枕元に向かい、彼女の口元を確認したのちに指をさしてこう叫んだ。
善子「医者なら、これは何よ!」
鞠莉「なんのこと……」
眉をひそめて不快な表情のまま、鞠莉が口元に顔をゆっくり近づけた。
鞠莉「これは……!」
そして、目を見開いて驚きの顔を善子に向ける。
鞠莉「アーモンド臭!まさか……」
善子「――青酸カリよ。ダイヤは毒で殺されたの!」
座敷の全員に大きな衝撃が走ったのを直に感じた。
その知らせを旅館の電話で受けた海未は急いで向かった。
海未「参りました……東京ならタクシーがあるのに」
徒歩しかない交通手段にぼやきが口をついて出る。旅館のある海辺から山裾の上屋まで舗装されていない砂利道を走っていった。
ようやく黒澤家の門についたころには、すっかり汗ばんでいた。
海未「私は善子さんの依頼で来た、私立探偵の園田海未です!そこを通してください!」
門前に立ちふさがる駐在の警官と押し問答を繰り広げていると、すらりとしたしなやかな良い体躯の女刑事が玄関から出てきた。
「その人は関係者よ、通してあげなさい」
「相変わらずの時代錯誤な身なりと声ですぐにわかったわ、海未」
海未「……絵里じゃないですか。これは奇遇ですね」
彼女のひと声ですんなりと門をくぐった海未は、思わぬ顔見知りの登場に笑顔を見せた。
彼女の名は絢瀬絵里。警視庁の刑事で、階級は警部。東京で事件を担当したときに、何度か海未の協力で解決に導くなど個人的な交流があった。
海未「いまは警視庁じゃないのですね」
絵里「転勤よ、転勤。静岡県警にね、さあ入って」
黒澤ダイヤの遺体は、詳細な死因を特定するため、海未が着いたころにはすでに運びだされていた。
絵里「――ちょうど最後に津島善子の聴取をするところだったの、運がいいわね」
そういって障子を開けると、大きな座敷に善子ひとりが正座していた。突然の見知らぬ人物の登場に驚いた表情だったが、横にいる海未を見て少し警戒を解いたようだった。
善子「海未……」
海未「こんなことになってお気の毒です……こちらは私の知り合い、絢瀬警部です」
絵里「県警の絢瀬よ、話を聞かせてもらうわね」
面と向かって座る絵里。その右脇に海未も座って、善子のわずかな挙動に目を配れるようにした。
善子は姉の死と、その前後の様子を詳細に語った。ときに動揺し、ときに困惑した表情を織り交ぜつつ。
絵里「……それで、薬包紙は誰がダイヤに手渡したの?」
善子「果南様よ」
絵里「つまり、あなたは薬が入った小箱に手を触れていなかった?」
善子「そうよ。触っていたのは果南様だけ、ルビィも触っていないはずよ」
絵里「その通りのようね。病人特有の過度な疑り深さと気難しさで、唯一あの箱に触れられたのは果南だけだと周囲から証言が出ているわ」
そのあとに続いた絵里の言葉が、善子の心を激しくかき乱した。
善子「んなっ……まさか私を疑っているの!」
絵里「正直に言うなら、そうよ」
善子「なんでそうなるの!どこに私が梨子とダイヤを殺す理由があるっていうのよ!」
興奮気味にいう。尋問対象をあおって冷静さを欠いた状態に陥らせ、取り調べる――絵里の術中に善子はかかってしまった。
絵里「理由は分からないわ。でも、二十年以上も放置していた親戚に募る恨みもあるってものじゃないかしら?」
善子「馬鹿馬鹿しい!ロクに口も利いたことがない相手に、そんな気違いみたいな理由で殺人なんて。私は無実よ!」
絵里にぶつけるように強く言い返し、横にいた海未をキッとにらみつけた。
善子「――まさか海未もそう思ってるの?」
海未「いえ、ただ、こういう事件ではあらゆる可能性を探る必要があるんです。お気を悪くなさらないでください」
海未「ですが、ただひとつ確かなのは、善子の周りで人が次々と毒殺されてるということです。それは偶然なのか、あるいは裏にあなたを犯人に仕立て上げようという何者かの邪悪な意図があるのか――」
善子「なっ、なんで私を犯人にさせたいの!」
海未「わかりません。それがわかれば、犯人の姿が見えてくるはずです」
丁寧かつ冷静に説く海未に対し、いくらか落ち着きを取り戻した善子は、すがるように前のめりになってこういった。
海未「――犯人は、必ず見つけます」
探偵の力強い言葉と真剣な表情に少し安堵した。
ちょうどそこにルビィがやってくる。
ルビィ「善子ちゃん、ちょっといい?葬儀の段取りについて奥で話したいことがあるの」
善子「いま行くわ。いいよね、警部さん?」
絵里「どうぞ。ここはあなたの家、署の取調室ではないもの。任意よ」
善子「……」
露骨に不快感をあらわにした表情で一瞥したのち、すくっと立ち上がって座敷を出て行った。
こうして善子は、頭の固い絵里の事情聴取から解放されたのだった。
絵里「ねえ、海未」
海未「なんでしょう」
絵里「どうして善子が犯人ではないとわかるの?」
その問いに対し、遠い目をしていた海未は口を開く。
海未「犯人を見つけるとは言いましたが、彼女が犯人ではないとは一言も言ってません」
果南「善子、どこにいってたの?」
ちょうど座ったときに尋ねてきた。
善子「警察の事情聴取を受けてて――」
果南「ああ、あの県警の絢瀬とかいうポンコツね。私もルビィもしつこく犯人扱いされて参ったよ」
果南「警察に何ができる……二十四年前も役に立たなかったくせに」
最後は誰の耳にも聞こえないよう、小さく悪態をついた。
そして善子に、ここへ呼びつけた理由を話す。
果南「ダイヤは明後日にかえってくる。そこで、喪主になる善子のために、この村の葬儀について教えておこうと思ってね」
善子「はぁ」
果南「ここらは土葬が普通なんだ。葬儀のあと山の墓地に行くときは、野辺送りをする」
善子「のべおくり……?」
果南「一族で棺桶を担いで墓地へ運ぶ儀式だよ。そこで喪主、つまり善子はお坊様の後ろで死装束をして、位牌を持って歩いてもらう」
善子「死装束って……お化けの幽霊がする三角頭巾をつけた格好の?」
果南「ま、そんなものだと思って構わないよ」
善子は目を丸くした。喪主とは生者の代表みたいな立場なのに、なぜそんな姿にならなければいけないのか。
その理由は果南の話の続きにあった。
善子「あしなかわらじ、ってなんです……?」
果南「おいおい、これだから都会のもんは困るなー。ねえ、ルビィ」
ルビィ「えっ……ぅゅ……」
唐突に話を振られ、ルビィは困惑して口ごもった。
果南「足半草鞋ってのは、つま先しかない草鞋のことだよ」
善子「それを履くの……?なんか痛そう……」
思わず顔をゆがめる。かかとはそのまま地面につけるため、舗装されてない村の砂利道で小石を踏んだときのことを想像してしまった。
果南「これで弱音を吐いちゃったら、帰りが困るよ?」
果南「帰りは、裸足だから」
善子「ええっ……!」
なんとも奇妙な田舎の風習に驚き、声を張り上げた。
果南「そうしないと死人が起き上がって、草鞋のあとをつけて家に戻ってくるからね。だから喪主だけ、死人に生者と分からない恰好をしないといけないのさ」
善子「起き上がりなんて、まさかそんな迷信……」
苦笑する。ゾンビ伝説じゃあるまいし、と西洋の書物に出てくる動く死体を連想した。
果南「迷信……?」
その瞬間、果南の顔が曇る。
果南「――郷に入っては郷に従え」
果南「守ってもらわないと、黒澤家当主の顔がたたない、いいね?」
善子「は、はい……」
たしなめるように強い口調でいう果南に気圧され、背筋がぞくりとした。
果南「それで野辺送りだけど、善子の次は写真を持ったルビィ。そして九つの旗をそれぞれ持った小原、鹿角、渡辺の者で、あとは――」
――もう何が何だか。凄いことになってきたわ。
東京育ちの善子は、果南の説明が理解できず耳に入ってこなかった。
田舎の葬儀としきたりの複雑さに、すっかり参ってしまった。
死因は善子が見抜いたとおり、青酸カリによるシアン中毒。
鞠莉が処方した薬に毒物が混入した状態で誤飲した、と結論づけた。
絵里によって鞠莉や果南、善子が厳しい取り調べを受けたが、どちらも嫌疑不十分で解放された。
結局、この村のどこかにいるであろう犯人が分からぬまま、遺体が帰ってきた翌日に黒澤家先代当主の葬儀が行われた。
曜「この度は……善子ちゃん、だいぶお疲れみたいだね」
善子「ええ、まあね……」
だいぶ簡略化された都会とは違い、ここの葬儀はとにかく大きく長いもので喪主の善子は気苦労が絶えなかった。
上屋の玄関はおろか、門前の道に続くほど長い行列をつくった弔問客一人ひとりと対面。そのたびに短い同じ言葉を交わすのも疲れてしまう。
さらに彼らのほとんどが善子と顔を合わせるや、訝しげな目つきでジロジロ見つめてくる。かなり気分が萎えた。
――村人は余所者の自分を疑っている。
さらし者かのような嫌悪感を抱きつつ、喪服を脱いで野辺送りの死装束に着替えた。
――なんでわざわざ遠回りして集落を通るのよ。
頭に三角頭巾をした死装束の善子は心の中でぼやく。
果南いわく、死者の起き上がりが戻ってこないように村を大回りして墓地に向かうしきたりだそう。
善子「イタッ……もう……」
一歩踏み出すたびに小石が足裏に食い込んで痛い。小さく顔を歪めつつ、寺の坊主が鳴らすおりんと太鼓、鈴の音にのせて村を練り歩く。
葬列が集落にさしかかると、村人たちが立ち止まって列に目をやる。それは主に、黒い生者の行進でひときわ目立つ白い善子へ向いていた。
善子「……」
目を合わせないよう、うつむきながら行く。早く通り過ぎたい、そう思いながら進んでいると、列の前に何者かが飛び出してきた。
花丸「祟りずら!もう二人目が殺された!」
大食いの尼こと、花丸が甲高い叫び声をあげて葬列をさえぎった。歩みを止めた参列者や野次馬がざわめきだす。
花丸「あと七人!あと七人の血が流れるまでミュウズ様のお怒りは収まらない!」
花丸「こいつのせいだ!こいつのせいだ!」
指をさして村人たちに叫ぶ。あまりにも理不尽な物言いに、ついに善子もたまらず言い返した。
そう叫ぶと、ずかずかと善子の前にやってきた大食いの尼。そして声を張り上げた。
花丸「いいや!お前が村に帰ってきたことでミュウズ様の祟りを招いたずら!」
花丸「村の皆、覚えているでしょ!二十四年前、あの女が出て行ったせいで村に何が起こったか!」
野次馬たちがざわめく。そこには若干の同意ともとれる声が混じっていた。
花丸「早く帰れ!村からすぐ出ていけ!」
空想と迷信に囚われ、的外れな糾弾をまき散らす花丸。黒澤家の者たちも、困惑しきっていた。
「やめて!」
そのとき、善子と花丸の間に割って入ってきた人物がいた。ルビィである。
ルビィ「尼の花丸ちゃんが、どうして野辺送りの邪魔するの!」
ルビィ「仏様になったお姉ちゃんを邪魔したら、ミュウズ様の前におしゃかしゃまがお怒りになるよぉ!」
花丸「くぅ……」
ルビィに言い返せず、顔を歪める。その場を立ち去る代わりに、こう吐き捨てた。
花丸「――あと七人、あと七人ずら!」
ルビィ「……」
小さくなっていく花丸の背中に悲しい目を向けたあと、葬送の再開を促す。
ルビィ「……皆さん、大変お騒がせしました。どうぞ、お姉ちゃんを送ってあげてください」
このあと、滞りなく埋葬が終わって善子は無事に上屋へ戻ることができたのだった。
ルビィ「ここにいたんだ、善子ちゃん」
ルビィ「もうすぐお坊さんの読経が始まるよ。喪主なんだから早く母屋の広間に――」
善子「ルビィ、聞きたいことがあるわ」
善子「二十四年前、私の母は何をしたの……?」
ルビィ「善子ちゃん、大食いの尼のいう事なんて気にしないで――」
善子「答えて」
ルビィ「ぅゅ……」
真剣な目つきで顔をみる善子に対し、口ごもるルビィ。
善子「これ、東京にいるときに投げ込まれたの」
足元に例の脅迫状を放る。拾い上げて黙読したルビィは目を見開き、大変驚いた様子だった。
さらに善子はあたりを見回しながら、この座敷について尋ねる。
善子「この離れ、なんかおかしいわよ。窓が小さすぎるし、雨戸は外からしか開けられない」
善子「しかも、障子と座敷の畳の境目。そこに何か棒のようなものを入れてた穴が横一列にある――まるで牢獄だったみたいよ」
善子「ここは母が過ごしていた場所でしょ?どうしてこんな造りになってるの」
ルビィ「お父様が作り直させたの……」
善子「どうして母にそんなことをしたの?」
うつむいているルビィに問い詰めた。
意を決したのか、ルビィはゆっくり膝を曲げ、善子の隣に座った。
ルビィ「善子ちゃんのお母さんがこの家と村を出て行ったのは、ルビィのお父様が原因なんだ……」
善子「――黒澤輝石ね」
父といわれているその人物の名を出したとき、ルビィは一瞬、ビクンと肩を震わせた。
そして、ひと呼吸の間をおいて口を開く。
ルビィ「ねえ、善子ちゃんは知ってる?黒澤家の初代当主、石蔵が起こした事」
善子「ええ、まぁ」
ルビィ「そのせいか、ときどき黒澤家の嫡流には粗暴な人間が生まれてくるようになったの」
ルビィ「お父様も、そのひとりだった」
ルビィ「ううん。粗暴という言葉では片付けられないくらい、ひどい人だった……」
ルビィ「お母様やお姉ちゃん、ルビィを殴る蹴るは当たり前。果樹園で働く小作人の頭の上にミカンをのせて、それを猟銃の的にして大けがを負わせたりもした」
ルビィ「それでも黒澤家の当主といえば、絶対的な権力者。だれも逆らえなかったの」
ルビィ「まさに鬼のよう――ううん、鬼そのものだった」
辛い記憶を掘り起こすたびに息が詰まるのか、手で胸元をギュッとおさえつつ話を続ける。
ルビィ「あれは、ルビィがまだ幼かったときのこと――」
――あまりにも美しいからさらった、今日から俺のモノ、女どもは口をはさむな。
お父様は扉越しにこう叫んだあと、甲高い笑い声をあげた。そのあとすぐに女の人の悲鳴と嬌声が交互に土蔵から聞こえてきたの。
その女の人こそ、当時小学校で教員になったばかりの善子ちゃんのお母さんだった。
あのときルビィは小さくて、家の大人たちがなぜ騒いでいるか分からなかった……でも大きくなってから意味がわかって、そのおぞましさに身震いした。
強引に拉致したあと村長や村の者たちを使い、ご両親を説得して教師を辞めさせ、妾になることを承諾させてしまったの。
正式な同意を得てから彼女を蔵から出し、離れに住まわせた。逃げ出さないように細工を施したこの座敷にね。
それがお父様のやり方だったの……。
お父様は夜ごと離れに入り浸って、肉体を激しく求めた。
善子ちゃん。こんな事を言うのは、とてもひどいことかもしれないけど……。
ルビィたち家族や村のみんなは、その不幸な境遇に同情して哀れむと同時にホッとしたの。
少なくとも、お父様が離れにいる間は、みんなに乱暴しなかったから。
みんな平穏に暮らしたくて、お母さんただ一人を生贄に、見て見ぬふりをしたの。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。善子ちゃん……。
何度か屋敷を抜け出して、実家や寺に逃げ込んだの。逃亡がばれた途端、お父様は尋常じゃないくらい暴れた。
そのたびに、恐れた村人たちと事なかれ主義の村長に説得され、お母さんは嫌々ながら屋敷に連れ戻されたの。
そんな日々を経て、一年後。ひとりの女の子を産んだ。
それが善子ちゃん、あなたなの。
女児の誕生にお父様は大喜びだった。でも、それは子供のことではなかったの。
子供ができたことで、ついに自分のモノになって逃げださなくなる。
ただそれだけだった。
善子、という名前もお母さんがつけたの。それほどまでに無関心だった。
子育てと、異常な愛を注ぐお父様を相手にしつつ、三年ほどたったとき。
――村にある噂が流れたの。
そこは口さがない村人たち。尾ひれがついた噂は瞬く間に村中に広まり、ついにお父様の耳に入ってしまったの。
その日、激怒したお父様は獣のような叫び声をあげ、火鉢から取り出した真っ赤に焼けた鉄の箸をもって離れに乗り込んだ。
そしてお母さんの目の前で、三歳になった善子ちゃんの背中にそれを押し当てた。
あなたの背中の傷は、そのときにできたの。
真夜中の屋敷は男の怒号、女の悲鳴、幼児の泣き叫ぶ声に包まれた。
当時のルビィはお姉ちゃんにしがみついて震えることしかできなかったの……。
この事件がきっかけで決心したんだと思う。
翌朝、まだ誰も起きていないうちにお母さんは善子ちゃんを連れて屋敷を出て行って、ついに消息不明になった。
お父様は苛立ちを抑えながら帰りを待ち続けた。またいつものように村人が連れ戻すだろうと。
でも、戻ってくることはなかった。
十日経ち、半月経ち、そして二か月後。
ついにお父様は、怒りと狂気を爆発させた。
お父様は頭に鉢巻をして、そこにL型の懐中電灯を二本――まるで頭から生える角のように差して。
首から提げた電気ランタン。肩から胴には何十発も弾丸が入る弾帯をたすき掛けに。
右手には石蔵の代から家に伝わる日本刀、左手には連発式の猟銃。それを持って血走った目をぎらつかせたその姿は、鬼そのものだった。
――最初の犠牲者は、お母様だった。
お姉ちゃんとルビィの目の前で、思い切り振るった一太刀で血しぶきをあげて倒れたの。
そのときのお父様……ううん、鬼は笑っていた。あの噂を流した元凶を成敗したと思い込んでいたから。
お母様が死んだのを確認したあと、雄たけびを上げながら屋敷を飛び出した。
満月の明るい夜空のもと、集落へ駆け出していくお父様の後ろ姿をルビィは一生、忘れられない。
そのあと集落で起こったのは、恐ろしい殺戮。
手当たり次第に家に押し入って、驚いて飛び起きた村人を殺して回った。恐怖で動けない者には刀を振るい、走って逃げ出した者の背には銃弾を浴びせて。
生後一か月の赤子から、足の不自由な老婆まで。朝までに三十六人を殺害したあと、お父様は山へ逃げ込んだ。
――こうして地獄の一夜が終わった。
道には至る所に撃たれた死体と血だまり、家の中には逃げ遅れた子供や老人の切り裂かれた死体があって、警官たちを震え上がらせたらしい。
すぐに近くの山々を包囲し、何度も大規模な山狩りを行ったの。だけど、お父様は見つからなかった。
二十四年たった今でも、行方不明のままなの。
きっと死んでいるとは思うけど……村にはお父様はまだ生きていると今も信じている村人も多いんだ。
その根拠が、事件から一か月後に見つかった銃で撃たれた獣の死骸と、焼いて食べたと思われる痕跡が見つかったこと。
だから今でも、お父様の影に怯えている村人も多いの。
都会の人は二十四年もたったのに、というだろうね。
でも、田舎は時間の流れが遅いからつい昨日のことのように、みんな鮮明に覚えているの。
二十四年も、じゃなくて、二十四年しかたってないから。
――九人の祟りと三十六人殺しの鬼。
その話は、この村では禁忌なの。だから村人に言ってはいけないよ。
――これがルビィの知っていることだよ。ちゃんと答えになっているかな?
善子「そ、そんな。わ、私は……」
声を絞り出そうとするが、出ない。のどの奥になにか物をねじ込まれたかのように、言葉に詰まる。
体の底から悪寒が走り、唇がわなわなと震えてきた。
――私の体にはあの男の血が流れている。
それを言葉にしようとしたのを、無意識に体がせき止めていた。
事実というのは、ときに残酷である。身をもって実感した。
なんてかわいそうな母――男の暴力と異常な愛情に弄ばれ、ボロボロの身で毎日を過ごしていたのだ。
その身体で見た、この狭い狭い座敷の世界はどんなものだっただろう。いや、想像なんてしたくない。
そして背中の傷――これは父の暴虐の刻印、私を守れなかった母の後悔そのもの。
それを知らず、自分は問い詰めて母を泣かしたのだ。
心が軋む音がした。
自分は狂暴な血を受け継いでいることがわかった。もし、この血が発現したらどうなるのか。
――お前が帰ってくると村に血の雨が降る!
花丸の口走った言葉が脳裏に響き渡り、さらに心が重く沈んだ。
善子「……」
出生と父親の恐ろしい正体を知り、どう表現すべきか口ごもった。
その様子に気づいたルビィが顔をあげてこういった。
ルビィ「――善子ちゃんには及ばないから」
えっ、と驚いて顔をあげた善子は、スクッと立ち上がったルビィを見上げた。
さっきまでの憂いをおびた顔ではなく、なぜか晴れやかな表情のルビィ。思いつめていたことを全て吐き出し、逆に身軽になったのだろうか。
ルビィ「……さ、もう行かないと。善子ちゃんは喪主なんだからね!」
善子「さっきのはどういう……ねぇ、ルビィったら!」
慌てて立ち上がり、ルビィの背を追いかけた。
結局、葬儀の最中でも終わったあとでもルビィは忙しそうに動き回り、また善子も周囲の目を気にしてこれ以上のことを尋ねることができなかった。
――
ー
その夜、黒澤の屋敷から外れた海沿いの、十千万旅館。
そこに泊まっている海未に尋ね人があった。
千歌「二階の、こちらがお部屋です」
絵里「ありがとう。お嬢さん、これ後で持ってきて」
千歌「かしこまりましたー」
絵里「ビール三本、コップふたつもよろしく」
千歌「はーい」
絵里は女中にそういって、海未の部屋に入った。
部屋は八畳の江戸間の座敷。その座敷の外に板張りの縁側があり、そこのガラス窓からは雄大な駿河湾を眺めることができる。
その縁側にある安楽椅子に腰かけた探偵、園田海未は温泉を楽しんだのち夜風にあたって涼んでいた。
海未「おや、来ましたね」
来客に気づき、顔を向けた。
絵里「久しぶりの再開よ、一杯つきあってちょうだい」
海未「わかりました」
絵里が座卓のそばに腰かけた。あわせるように海未も安楽椅子を立って、座卓越しに対面するよう座る。
しばらくして千歌が瓶ビールと焼いた金目鯛の干物を持ってきた。女中が出て行ったあと、ふたりはグラスにビールを注いで乾杯した。
すみません、誤字がありました。
絵里「久しぶりの再会よ、一杯つきあってちょうだい」
です。
絵里「名前こそ不気味だけど、他はいたって普通の村よ。二十四年前にあんな事件があったけど」
海未「二十四年前……?」
なんですか、と興味を示す海未に詳細を語る絵里。話の端々に驚嘆の声をはさみつつ、海未はビールを飲んだ。
絵里「犠牲者は三十六人。当時は落ち武者の祟り、なんてセンセーショナルに新聞が報じたわ。馬鹿馬鹿しい迷信よ」
海未「そうでしょうか?三十六……これは九の四倍数になりますね。何らかの超自然的な力が関わっているかもしれませんよ」
絵里「こっ、怖いこと言わないでよ……!」
露骨にうろたえる絵里をなだめた。
絵里「ゴホン……事件はニューヨークの大暴落が始まる直前だったせいか、すぐに田舎の怪事件として世間の注目から外れていったわ」
海未「そのとき善子は数えで三つ、だったときですね……」
絵里「それからは一切、なんの事件も起きなかったのに。それが立て続けに殺人が二件よ、二件」
海未「しかも犯人はおろか、動機さえわからない――」
絵里「いいえ、犯人はわかってるわよ」
軽く酔ったのか、頬をやや赤く染めた絵里が断言する。海未は驚いて、干物をつつく箸を止めた。
海未「して、動機は……?」
絵里「黒澤家の財産狙いね。今まで放置してきた積年の恨みを晴らそうってとこね」
海未「自分が相続することになるのにですか……?」
突っ込みに対し、むっ、と頬をふくらます絵里。
絵里「わかってるわよ、そんなこと……。でも、それらしい動機が他にないじゃない」
海未「さらに桜内梨子のときも、黒澤ダイヤのときも、善子は死因に直結する物に一切、手を触れてないことを証明する証人は大勢います」
絵里「……」
だんまりする絵里を気にもとめず、箸でほぐした干物を口に運ぶ。
海未「これ、美味しいですね。さすが海の幸が自慢なだけあります――」
絵里「ようし、わかったわ!小原鞠莉よ!」
絵里「梨子もダイヤも、鞠莉が処方した薬に入った毒物が死因になってる」
絵里「しかも彼女は県議会議員に立候補を目指している。選挙には多大な資金がいる……本家の財産を狙ってもおかしくないわ!」
海未の鋭い指摘に、早々に善子犯人説を捨てた絵里。次は鞠莉へ疑いの目を向けた。
そんなポンコツ推理に海未が再び切り込んでいく。
海未「なぜ相続権のない梨子を殺害したのか?」
海未「そして殺害方法があまりにも露骨すぎることです。自らが処方した薬に毒を仕込む、二度も同じ手で――」
海未「これでは、疑いの目を自分から呼び寄せているようなものです」
海未「あまりにも稚拙な犯行を、議員になろうと身固めしている鞠莉がやるでしょうか?」
絵里「むぅ、それは……」
言葉に詰まり、干物を箸でいじくりまわす。
絵里「じゃあ鞠莉以外で、薬に毒を仕込むことができたのは誰なのよ?」
眉根を寄せる絵里に対し、海未は座卓の脇に置いていた手帳をとり、ページに書き写した見取り図と絵里の顔を交互に見ながら。
海未「それですが――」
昼間に駐在の警官から聞いた小原診療所の構造について、思ったことを述べていく。
海未「その廊下、診療所と家屋をつなぐ間に薬を調合し保管する薬剤室があった。そこで梨子とダイヤの薬はそこで作られていました」
海未「ふたりの薬は、薬剤の性質的に短時間で劣化するものではないそうで、一か月ごとに作り置きをよくしていたそうです。できた薬は名前のついた棚に保管して、そこから取り出していた」
海未「その部屋はふだん施錠されていなかったそうです。また、家屋の裏口も……まあ田舎です、そのような用心はいらなかったのでしょう」
さらに、と海未は次のことを強調した。
海未「客が訪ねてきた時間帯によって、村人の診察中で目が離せないときは、客に廊下を渡ってそのまま家屋へ行くように伝え、診察が終わるまで待たせていたこともあった」
海未「と、いうことは――」
海未「――この村の誰でも、誰にも見られず、管理の甘い薬剤室に入り込み、作り置きしていた梨子とダイヤの薬に毒を入れることができる」
海未「鞠莉じゃなくても可能なんですよ」
絵里「チカァ……」
ぐうの音を出した絵里は、飲まずにはいられないと言い、一本の瓶ビールを直接口をつけて飲み干した。
これはあくまで予想なのですが、と付け加える。
海未「近いうちに第三の殺人が起きるかもしれません」
絵里「ええっ……!」
海未「私たちは犯人の目的が何なのかさえ、わかっていません」
海未「衝動と狂気に満ちた動機無き殺人なのか、それとも――」
海未「――明確な動機をもって綿密に練られた計画殺人なのかさえ、です」
海未「後者なら、まだほんの始まりにすぎないでしょう」
海未「早く動機を見つけ、犯人を見立てなければ犠牲者は増え続けます」
海未「犯人の動機は一体なんなのでしょうか……?」
そういったきり、海未は無言になって考え込んでいた。
絵里「うう……」
絵里「もう一本、飲むわ!」
追加のビールをもらうため、部屋を出て行ったのであった。
明かりをつけたまま、よしみが敷いた布団に入ったものの、不安と恐れで心の中がいっぱいになり、目がさえてしまった。
このまま悶々と過ごすのもあれなので、起き上がって布団を出た。座卓につき、今まで起きたことを考えてみることにした。
――どうして犯人は梨子を毒殺したのだろう?
彼女は東京に行くとき、赤線で女遊びに興じる趣味があるだけのただの顧問弁護士だ。黒澤の財産をどうこうできる権限などない。
自分への警告のために見せしめにされたのだろうか。しかし、今こうして自分は曜の手引きで村に帰ってきた。危険を冒して犯行に及んだのに、まったく効果はなかったのだ。
――姉のダイヤは?
正直言って、わけがわからない。肺の病気はかなり重く、今年いっぱいもつかどうかの瀬戸際の命だった。
犯人はやらなくてもいいことを、わざわざやったのだ。
しかも、事件のあと絵里と警官たちが例の小箱を調べたが、ほかの薬包紙に毒薬入りのものはひとつもなかったらしい。
あのとき、たったひとつの毒薬入りの薬包紙――それを偶然、果南が取ってしまったことで、あの時あの場で死んでしまったのだ。
もしもダイヤの件が脅迫状に合わせたのなら、こんな運任せにするだろうか。
――では一体、なんのためにふたりを……?
善子「もうっ、なにもわからないじゃない……」
座卓で頭を抱える。こういうのは海未が得意なのだろう、善子は初めて彼女を尊敬した。
よしみ「……善子様、果南様がお呼びです」
そのとき、障子の向こうから声がした。
そして今夜、ついに初めてふたりきで会う。
果南が寝泊まりする座敷は、母屋の一番奥にあった。
障子の前につき、よしみが声をかけた。
よしみ「善子様をお連れしました」
果南「んっ、入っていいよ」
返事を聞いて障子を開けて入った。そこに善子もよしみの案内でつづく。
黒澤家の長老は寝間着の上から上着を羽織り、四角い小さな箱膳にのせた酒瓶から白磁の盃に酒をついで飲んでいた。
果南「おっ、善子。こっち、こっち」
顔をあげ、盃を膳に置く。そして座るよう促した。
善子「え、ええ……」
果南「お湯とアレをもってきて」
善子が座ったとき、よしみにそう言いつける。よしみが一礼して座敷を出て行った。
善子「大伯母様、何かご用でしょうか……?」
果南「はっはっは、そんなに堅くなることはないよ。ここはもう善子の家なんだから、もっとくつろいでいいんじゃないかなん?」
善子「はぁ……」
生返事で返す。つい数日前にダイヤを亡くし、臨終や葬儀の場で慟哭していたのに、ずいぶんケロリとしている表情だった。酒で流して、すでに気持ちを切り替えたというのだろうか。
この果南の態度を善子は不気味に感じた。なくなったはずの足裏の痛みがジンジンとぶり返してきた気がする。
善子「それで、ご用は……」
果南「特に用という用はないんだけど、まあ、善子も疲れているだろうから一杯、寝酒をごちそうしようと思ってね」
ちょうどよしみが湯と湯呑、そして何かが入ったザルをもってきた。なんだろう、とザルの中身を見たが、暗くてよくわからなかった。
果南「疲れていてもなかなか寝付けないとき、よく効くんだよ」
善子「えっ」
思わず声が出た。まさかさっきの離れでの様子を知っているのか。
その疑問を果南に問う勇気は善子になかった。
果南「さ、用意しようか」
湯吞に酒を注ぎ、浅く張った湯の中に入れて温めた。
果南「美味しいんだな、これが」
果南「――わかめ酒」
なんとも奇怪な名前の酒が善子の前に出てきた。
恐る恐る顔を近づけ、それを観察してみる。
燗酒のように温めた湯呑のなかに、緑がかった黒のワカメが味噌汁の具のごとくユラユラ泳いでいた。
よしみに持ってこさせたあのザルの中身はこれか、納得した。
果南「昔は自分で潜って新鮮なものを採ってこれたんだけど、もう年だからねー」
果南「上質なわかめがやっと手に入ったんだ」
――これもこの家の妙な風習なのだろうか。
果南「さ、これをぐっと飲んで」
果南が飲むよう催促する。
この妙な酒、本当に飲まなければならないのか。湯呑と果南を交互に見ていた。
果南「どうしたのかなん?」
果南「ほら、冷めちゃうじゃないか」
まっすぐ自分を見つめる果南に気圧され、ゆっくり両手で湯呑を持つ。どうやら拒否する権利はないようだ。
ほんの少し、すすってみた。
驚いた善子は顔をあげ、果南をジッと見つめる。
すごい怪しい変な味。わかめ酒について、最初にでた感想はそれだった。
人肌くらいぬるい酒のなかに、海藻の臭いとぬらぬらした舌ざわり、口の中に張り付くわかめ。
酒の甘みと海藻の塩分が混ざって妙な味わい。
やっとのどに流して腹に落とすと、じんわりと熱がしみわたっていった。
ふと邪推した善子はゾッと背筋が凍りついた。まさか、毒……?
つめたい汗が額から吹き出し、頬をつたう。
果南「おいおい、どうしたのかなん?そんな顔をして……」
果南「あははっ、ビクビクしないでいいよ。毒なんか入ってないから」
果南「さあ、それをぐっと飲んで休めば、今日の疲れも一気にとれるよ」
これはいよいよ進退窮まった感じである。
ええい、毒を食らわば皿まで。やけくそな覚悟を決めた善子は一息にわかめ酒を飲み干した。
果南「お、飲んだ、飲んだ」
大伯母は少女のようにニタッと笑うと軽く手を叩いた。
一気に腹の底から熱がこみ上げてくる。いまに異変が起きるのではないか、と戦々恐々として自分の体を見つめた。
果南「今夜は遅いから、善子、もうお休み」
善子「はい……」
すっかり疲れ切った声でそういって、フラフラと立ち上がる。一気に飲んだせいで、酔いが回ってくる。
善子「うぅ……」
あたりの景色がぐるぐると回るのを実感しながら、やっとの思いで離れの自分の寝床にたどりついた。
真夜中、布団の中でハッと目が覚めた。床についてどれだけ時間がたったのかわからない。
電気を消した真っ暗な座敷で寝返りをうとうと、体をよじろうとしたが、動かない。それどころか手指からつま先まで何の反応もなく、口さえも。
目は動き、呼吸はできるのでなんとか生きていることだけわかった。
善子の体は見えないヒモで縛り付けられたかのように、布団に固定されてしまっていた。
――いま、金縛りにあってる。自分がおかれている状況を理解した。
恐ろしさがこみ上げて、全身から汗がふき出す。助けを呼ぼうにも、口が動かせない。
障子の向こうで物音がした。人が一歩踏み出すとき、床がきしむ音と布が擦れる音だった。
音のほうへ眼球を動かしたそのとき、明かりをもった人影が一番端の障子に映った。
誰か来る、怖さのあまり善子は目を強く閉じる。ルビィが話していたあの鬼を思い浮かべ、恐ろしくなった。
「善子はちゃんと寝てるかなん?」
「はい。ぐっすりお休みになられてます」
ぼそぼそと声が聞こえてきた。どうやら大伯母とよしみのようだ。
少し安心して、うっすらまぶたを開く。
果南「――それじゃ、目が覚めないうちにお参りしよっか」
そういうと、目の前を横切るようにゆっくり縁側を歩いていく。障子に映り込んだ影から察するに、懐中電灯を持つよしみのあとを果南がつけている。
ふたつの影が障子から消えると、縁側の奥にある納戸の扉を開ける音がした。
するとフッと善子の金縛りも解け、身動きができるようになった。
ガバッと上体を起こす。
善子「夢……?」
あたりを見回して思わずつぶやいた。こんな真夜中に、果南とよしみは納戸に一体なんの用があるのだろう。
また黒澤家の変なしきたりだろうか。
考えを巡らそうとしたが、急に睡魔が襲ってきた。
明日の朝、納戸を見てみよう……。
そう決めた善子は、バタリと倒れるように布団にもぐる。
睡魔の誘惑に負け、朝までぐっすりと眠り込んだのだった。
翌朝の目覚めはとても心地よかった。この村に来て初めてである。
きっと果南が自分に飲ませたわかめ酒は毒ではなく、きっと睡眠効果のある薬膳酒みたいなものだったのだ。
わざわざ呼びつけて飲ませた理由――離れの納戸に何か自分にも知られたくない秘密の用事があるから、眠らせたということだろう。
昨晩から気になって仕方ない善子は寝間着のまま座敷を出て、まっすぐ廊下を進んで突き当りにある納戸の扉の前に立った。
もしかして、まだ中にいるかも。軽く扉を叩いてみる。
善子「果南様、果南様」
返事がないので、扉を開けてみた。
善子「カビくさ……」
薄暗く埃っぽいよくある物置部屋。壁のスイッチを触って、明かりをつける。
窓のない縦に長い密室に、古い箪笥や家具が壁沿いに置かれていた。
善子「こんな狭いとこで何をしてたんだろ」
善子「ん?これ……」
特に目を引いたのは、中央にひときわ大きな長方形の収納箱。わざとらしく置かれたそれに善子のカンが働く。
善子「……怪しいわね」
まず箱の周囲をぐるりとまわってみた。
この収納箱、他の箪笥と違って一部分に埃が積もっていない。取っ手のある面の上である。
次にその反対側の床板に、引きずった跡があった。その跡は頻繁に動かしていないとできないほど深く刻まれてる。
善子「この箱を奥に押したり、手前に引いたりしたってことね」
独り言をつぶやく。
箱をもっと調べてみた。
何度か叩くと、軽い反響音。つまり、中身はほとんど入っていない。
さらに顔を近づけると、ゴォッと地面から風が吹きつけてくるような小さな音がした。
善子「この下に地下室か何かあるみたいね」
この箱はそれを隠す仕掛けだということを理解した。そして、心が躍ってきた。
――秘密の出入口。その先に何があるのだろう。
善子の心は子供のような探求心で満たされてきた。
よし、押してみよう。
箱に手をかけ、力を入れようとしたそのとき。
「善子ちゃん、何やってるの?」
背後から声がした。
引用元:https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1689244300/
第2話へ続く
<!–
G-ADS–>
コメント