【SS】サークルクラッシャー高咲侑【ラブライブ!虹ヶ咲】
※控えめですがエ●チシーンもあるのでそちらもご注意です
『好き同士なのに愛し合えないなんておかしい』と。
『あり得たかもしれない愛し合う世界線が消えるなんて寂し過ぎる』と。
『好き同士なら浮気をしてでも愛し合うべきだ』と。
『私のときめきに素直になるべきだ』と。
侑「はっ……!」
天啓を受け、私は目が覚めた。起きた直後だと言うのにやけに目が冴えている。それほど強く、それほど鮮烈な天啓だった。
侑「生まれたのはときめき……惹かれたのは……『浮気』!!」
そう、あの日から、世界は変わり始めた。考えるだけじゃ足りない。体を動かしてできることを全力でやろうって思った。
侑「私……浮気をするよっ!!」
──
侑「歩夢っ!私、浮気するね!」
歩夢「……は?」
陽射しが眩しい早朝、開口一番、ベランダで歩夢にそう告げた。歩夢は怪訝な顔だった。
歩夢「は?え?浮気って……え?」
侑「戸惑うのも分かるよ。でもね、私、自分のときめきに正直になることにしたんだ」
歩夢「ときめきって……侑ちゃん、私のこと飽きちゃったの……?」
泣きそうな表情を浮かべていた。怒りを通り越して悲しみに暮れているように見える。
侑「それは無い!断言できるよ!私の一番は間違いなく歩夢。それは絶対に揺るがない」
歩夢「じゃあ、なんでそんなおバカなことを言うの……?」
侑「うん。だから聞いて欲しい。私の浮気論を」
歩夢「浮気論て……」
侑「私ね、歩夢に告白される前は、恋なんてよく分からなかった。この胸の高鳴りとか、目が魅かれるようなパフォーマンスとか、それと何が違うのかって分からなかったんだ」
そう、私は歩夢から一か月ほど前に告白されている。すでに初体験も済ませ、夜は毎日どったんばったん大騒ぎな感じだ。
侑「でも歩夢と付き合ってから、私が今まで抱いていた気持ちの全てが恋なんだって理解できた。その中でも、歩夢だけは群を抜いて一番だった。キスをしたい、抱きしめたい、隣に居続けて欲しい。私にとって歩夢は、そういう存在なんだ」
歩夢「そ、そうなんだ。あはは……ちょっと恥ずかしいね」
歩夢は頬を赤らめて体をくねらせていた。だが、すぐにじとっとした湿気の高い目に戻る。
歩夢「でもこれって浮気論って話の一環なんでしょ?なんだか素直に喜べないなぁ……」
侑「そうだよ。でもまず、私が一番好きなのは、一番愛しているのは歩夢だってことを知っておいて欲しい」
歩夢「……うん。続けて」
侑「ありがとう。恋を自覚した私に昨日、天啓が舞い降りたんだよ」
歩夢「えぇ……」
歩夢「まぁ……」
侑「大好きの大小はあれど、二番も三番も大好きには変わりないんだよ!」
そう。これが昨日私の気付いた天啓の一つ。好きなのは一番だけでなく、二番も三番もその先もっていう理論だ。
侑「もしかしたら、二番目の人と付き合う世界があったかもしれない。三番目の人と結婚する世界があったかもしれない。あ、大丈夫だよ。この世界の私は歩夢と結婚するから」
歩夢「む~……。私も侑ちゃんと結婚するけどっ!」
歩夢は嫉妬した後に照れていた。相変わらず感情がせわしいなと思う。
侑「そう考えた時さ、寂しいって思ったんだよね。愛し合える世界もあったかもしれないのに、たった一人だけを選んだが故に、愛し合えなくなっちゃうって……」
好き同士なのに、愛し合えない。それはきっと、不幸に違いない。
侑「だから思ったんだ。好き同士なら、浮気をしてでも愛し合うべきだってね」
それが、浮気論の最も大事な理論だ。
歩夢「……はぁ。ほんと、おバカだね侑ちゃん」
崇高な理論を聞いた歩夢は、普通に呆れ果てていた。
侑「やっぱり……だめかな?」
歩夢「……いいよ、浮気しても」
侑「えっ!?本当!?」
けれど、歩夢の解答はまさかのOKだった。頭の中でファンファーレが鳴り響き、視界が一気に虹色に染まった気がした。
歩夢「でも、ちょっとだけ言わせて」
神妙な顔付きになった。こういう歩夢の時は、どんなにふざけたい時でも背筋を正さなければならない。
歩夢「一つ。侑ちゃんは将来、絶対私と結婚するんだよね」
侑「勿論。確定された未来だよ」
歩夢「一つ。侑ちゃんの一番は私なんだよね」
侑「そうだよ。歩夢にとっての一番も私なようにね」
歩夢「それじゃあ最後に一つ」
侑「……ん?」
歩夢が自分の部屋へと戻った。ベランダ越しに部屋を覗くが、全然見えない。物を漁る音と、パソコンのキーボードをタイピングする音が僅かに聞こえた。
それから、十数分経過した頃、ようやく歩夢は戻ってきた。
歩夢「はい、これ」
侑「これって……時計?」
手渡されたのは時計だった。今流行りのウェアラブルデバイスって言うんだろうか。スマホアプリだけでなく、バイタルなんかも分かるデバイス。
歩夢「これをお風呂以外では必ず身に着けてね。防水だけど、一応」
侑「便利そうだからまぁいいけど……なんで?」
歩夢「えぇと……」
歩夢は少し考え事をしていた。まさか嘘の理由を考えているわけじゃないよね。
数秒後、歩夢は何か閃いた顔をしていた。
歩夢「あ~、えっと、そうっ!それはね、結婚指輪みたいなものだよ!」
歩夢「私ね、結婚指輪って、何のために付けるんだろう、って考えた時があったの。それはね、いつでも大好きな人を感じられるように、って思うんだ」
侑「ふぅん……?」
歩夢「だからね、浮気してる時でも私を感じて欲しいの。忘れないで欲しいの」
それなら……装着するのも吝かでは無かった。まぁ、浮気って言う不義理なことをしようとしているのだ。これくらいは呑み込むべき要求だろう。
侑「分かったよ。歩夢だと思ってずっと身に着けるね」
歩夢「うんっ。お願いっ!」
とりあえず……これで浮気は公認になった。第一の関門であり、最大の関門をクリアしたのだ。後はめくるめく、ときめき浮気ライフの開幕だ!
歩夢「あ~あ。これからと~っても忙しくなりそうだなぁ……」
私が意気込んでいると、歩夢がそんなことを言った。少し引っかかる。
歩夢「それじゃ、とりあえず学園に行こっか。準備はできてるの?」
侑「あ……。まだ朝ご飯も食べてないや」
歩夢「も~、侑ちゃんってば本当に、好きなことには周りが見えなくなるよね」
侑「あはは……ごめんごめん。今日ちょっと遅れるから待っててよ」
歩夢「うん。それじゃあまたね」
そう言って、少しの間歩夢と分かれた。
確かに、私は好きなことには周りが見えなくなる傾向がある。
つまるところそれは、恋は盲目って奴なのだろう。
Case1:中川菜々に勇気はない
生徒会長は仮の姿。その実態はスクールアイドルである優木せつ菜、というのが私だ。自分の大好きを伝える為に編み出した優木せつ菜だが、仮面を被ったヒーローみたいなカッコよささえ感じる。つまり、中川菜々と優木せつ菜はいい感じに共存できているのだ。
とはいえ、それでも悩みはある。悩みの一番は、優木せつ菜のことは好きであるが、中川菜々に向けられる感情では無い、というものだ。
生徒会長とスクールアイドルとして、全く別の人間を作り出した私も悪いのは分かる。けれど、最近は虚しく感じることの方が多いのだ。
侑『やあせつ菜ちゃん!今日も可愛いYO!』
せつ菜『ありがとうございます!』
何気ない、日常のワンシーンだ。侑さんは優木せつ菜に大好きを伝えてくれる。それはスクールアイドルを続ける大きな原動力となっている。
何よりも、大好きな侑さんに可愛いと言われるのだ。それが嫌なはずがない。言われる度に嬉しさが体に満ち、うずうずと体を動かしたい気分になるのだ。
けれど、そこに向けられるのは優木せつ菜に対しての大好きであり、中川菜々への大好きではない。ふとした時、それに気づいてしまった。
本当の私はどちらなのだろうか。勤勉な生徒会長の中川菜々なのか、本気系スクールアイドルの優木せつ菜なのか。
私は……中川菜々も、侑さんに好きになって欲しかった。
自分の中のそうした気持ちに気付いた矢先、私にとんでもない爆弾が落ちた。
歩夢さんが侑さんに告白し、二人は恋人になったのだ。
雷に打たれたような衝撃が全身を貫き、私はその事実を受け止めきれずにいた。その日はさめざめと枕を濡らし、次の日は目を腫らしたまま生徒会業務に従事した。そんな顔を侑さんに見せるわけにもいかなったので、同好会に顔を出さなかった。
そうして次の日、涙もすっかり涸れ、スクールアイドル活動にも復帰できた。だが、私に待っていたのはやはり過酷な日常だった。
侑『おっすせつ菜ちゃん!今日も可愛いね!』
せつ菜『あ……はい。ありがとうございます』
その賛美は、私にとって毒だった。可愛いと言われても、嬉しさよりも虚しさの方が勝った。だって侑さんにとっての可愛いの一番は私ではなく、歩夢さんだって気付いてしまったから。
優木せつ菜は確かに侑さんに好かれている。けれど、絶対ではない。一番ではない。その事実が、私の胸を締め付けた。
そうなる度に、ふとした妄想をしてしまう。
もし先に、私が歩夢さんよりも早く、侑さんに告白していたらどうなっていたんだろう、と。今頃、侑さんの隣にいたのは私だったのではないか、と。意味の無い妄想を繰り返ししてしまっていた。
中川菜々だとか、優木せつ菜だとか、そんなことはもはや関係ない。
私は侑さんと恋人になりたかった。それだけが、事実だった。
生徒会お散歩役員の様子を見に、昼休み外に出ていた。決してはんぺんさんを可愛がりたいわけでは無い。生徒会長の職務の一環だ。
そうしていくつかのスポットを巡ると、璃奈さんとはんぺんさんがいた。
璃奈「……はぁ」
璃奈さんはため息を吐きながら餌付けしていた。何か悩みでもあるのだろうか。
菜々「こんにちは璃奈さん」
璃奈「あ……せ、いや、菜々さん」
菜々「とりあえず、にぼしから手を離したらどうですか?」
璃奈「え、あ、ほんとだ」
璃奈さんはにぼしから手を離す。餌付けしているのに手を離さないのではんぺんが苦慮していたのだ。それほど何か懸念していることがあるのだろうか。
ここは生徒会長として、スクールアイドルの同好として、相談に乗ってあげるのがベターだろう。
菜々「何かお悩みのようですが、良ければ話を聞きますよ」
璃奈「……悩んでいるように見えた?」
菜々「えぇ。表情には出なくてもあれだけ大きなため息を吐かれれば」
璃奈「……そっか。いや、でも……」
言葉を選んでいた。そう簡単に話せる話題でも無いのかもしれない。
愛「──あ、りなりー!こんなところにいた!あ、それにせっつーもいるじゃん!おーっす!」
そんな話をしていると、対照的に元気な愛さんが来た。そんな愛さんを見て、璃奈さんは一瞬だけ翳りのある顔をした。
もしかして、愛さんに関係する悩みなんだろうか。それなら、私に言い辛いのも仕方がないのかもしれない。
だって、二人は付き合っているのだから。
その後、璃奈さんと愛さん、二人とはんぺんさんに餌をやった。なんとか二人で悩みを乗り越えて欲しいものだ。
私はその場を後にし、次は屋上へと向かった。何となく、昼食は外で食べたかったのだ。ドアに手を掛けようとした瞬間、外から勢いよく女生徒が入ってきた。危ない。
菜々「危ないじゃないですか。中に入る時は注意してくださいね」
女生徒「す、すみませんでしたぁっ!」
菜々「あ、こらっ!廊下は走っちゃいけませんよ!!」
女生徒はそのまま走り去ってしまった。それにしても、瞼が赤く腫れていた気がする。泣いていたんだろうか。
果林「──のぞき見かしら?菜々」
突然、声を掛けられた。ビックリして振り向くと、そこには果林さんがいた。
菜々「か、果林さん……。のぞき見ってどういうことですか?」
果林「ん?あぁ、告白の現場を出歯亀していたわけじゃないのね」
菜々「告白されていたんですか。あぁ、道理で……」
なるほど。果林さんに断られて泣いていたのか。得心がいった。
果林さんはモテる。それも、めちゃくちゃにモテる。クールでいつも余裕そうな態度は私でも魅かれてしまう。加えて意識的か無意識か知らないが、果林さんは自然に相手を口説く。惚れる相手が続出するのも頷ける。
果林「正直、パートナーのいる身としては勘弁して貰いたいわね」
菜々「エマさんも気が気じゃないですよね。恋人がそんなにモテてたら」
果林「エマにはもう少しどっしり構えて貰いたいところだけれどね。エマを裏切るわけないのに……。心配性なのよ」
果林さんはエマさんと付き合っている。だが、それを公表していない。スクールアイドルやモデルに影響が出ることを懸念して、とのことらしい。同好会に属する私たちだけが、二人が恋仲であることを知っている。
果林「それもこれも全部……クールビューティな朝香果林なんて仮面を被っているからよね。全く、最近は少し煩わしいわ……」
菜々「え?」
果林「あ……いえ、ごめんなさいね。忘れてちょうだい。私はもう行くわ。また同好会で会いましょう」
菜々「はい……それではまた」
果林さんも、悩みを抱えているらしかった。私だけじゃない。人には大小それぞれ悩みを抱えているものなんだろう。
それから、残り僅かとなった昼休みを使い、昼食に舌鼓を打った。
侑「よーしっ!今日は音楽科の課題も無いし、歩夢と一緒に帰れるよ!」
歩夢「うん。じゃあ先に帰りますね。お疲れさまでした」
侑「また明日!」
放課後、同好会の練習を終え、銘々が解散していく。やっぱりあの二人は仲がいいなぁ、と少しばかり胸を痛めながら見ていた。
その時、私と同じような視線を送る人がいた。
かすみ「……侑先輩」
かすみさんだった。侑さんと歩夢さんがカップルになって以降、かすみさんからの積極的なスキンシップは見られなくなった。歩夢さんに配慮してのことなのか、それともかすみさん自身に何か思うところがあるのか。
かすみさんに、強い親近感が沸いた。
しずく「私たちも帰ろう?」
かすみ「あ、うん……。それじゃあ、お疲れさまでした」
しずく「お先に失礼しますね」
しずくさんとかすみさんも部室から出ていった。二人を見る度に思う。侑さんと歩夢さんとは対称的だなぁ、と。二人もまた付き合っているのだが、どうにも距離感がイマイチ掴めていないように思える。
侑さんと歩夢さんが恋仲になった翌日、二人は付き合ったらしいのだが……あまり考えると余計な憶測を建ててしまいそうだ。程々で思考を打ち切った。
彼方「いや~、同好会で恋人がいないのは彼方ちゃん達だけになってしまいましたな~」
と、ここで、彼方さんに話しかけられた。もう部屋の中に残っているのは私たち二人だけとなっていた。
彼方さんの台詞に少しだけ暗くなる。もし歩夢さんより先に告白していれば……。そんな妄想をまたしてしまう。
せつ菜「そうですね……」
彼方「彼方ちゃんも恋人さん、欲しいなぁ~」
せつ菜「へぇ……。彼方さんもそう思うんですね」
彼方「まぁね~。あれだけ近くでカップルのやり取りを見てればさ、それもしょうがないでしょ?それとも、せつ菜ちゃんは欲しくないのかな?」
せつ菜「私は……同好会と生徒会長だけでいっぱいいっぱいですから」
言葉を濁した。どんなに忙しくても、生徒会長とスクールアイドルの二足の草鞋を履いていようと、欲しい物は欲しい。でも、それを口にできなかった。言ったところで、叶わぬ望みだったから。
彼方「そっかぁ……。まぁ、そうだよね!彼方ちゃんもさ、みんなと一緒にスクールアイドルをやれているだけでいいんだ!」
せつ菜「……あはは」
彼方さんはあっけらかんと笑った。本当に心の底からそう言っているように思えた。それがちょっとだけ、羨ましかった。
菜々「皆さん、今日は上がって貰っていいですよ。後は私がやっておくので」
翌日、放課後の生徒会室。私は役員にそう告げた。
副会長「え、会長だけに仕事を押し付けるなんてできませんよ!」
菜々「いえ、折角の週末ですし、皆さんは早く帰ってください。それに、ほとんど仕事は残っていないじゃないですか」
副会長「それはそうですが……」
副会長は尚も食い下がる。沈着冷静なイメージが先行するけれど、やはり優しい人だ。
菜々「実はですね、親から遅く帰ってくるよう言われているんです。なので、皆さんの仕事を任せて貰えれば暇が無くて丁度いいんですよ」
副会長「……そういうことなら、分かりました。では、お願いします」
菜々「はい。無理を言ってしまってすみません」
副会長「とんでもないです!では、私たちお先に失礼しますね」
菜々「お疲れさまでした。また来週お願いします」
そうして、生徒会室には私一人だけになった。実のところ、親から遅く帰ってくるようになんて言われていない。私はどうにかして、同好会に行く時間を少しでも削ろうとしていた。
生徒会の仕事が多いので、今日は部室に顔を出せません。LINEグループにメッセージを送った。
すぐ後、侑さんから『私も音楽科の課題があるから行けない!』と来た。タイミングが悪い。そう思った。
菜々「……」
少しの罪悪感を覚えつつ、生徒会業務に従事する。
私がなぜこんな意味の無いことをしているのか、理由は少し複雑だ。でも、原因は一言で言える。
同好会に侑さんがいるから。それが原因だ。
私は侑さんが大好きだ。ライクではなくラブの方の好意だ。中川菜々としても、優木せつ菜としても魅力を感じてしまっている。
少し前まで私が悩んでいたのは、中川菜々としての私に大好きは向けられていない、ということだった。けれど、今悩んでいるのは少し違う。優木せつ菜として向けられる大好きで苦しんでいるのだ。
侑さんが歩夢さんと付き合うようになり始め、その様子は同好会の活動で知ることができる。そして私は知ってしまったのだ。侑さんは優木せつ菜より、歩夢さんの方が大好きなんだって。
すると、侑さんから大好きと言われても虚しさを感じてしまい、優木せつ菜になることを忌避するようになってしまった。
大好きだって言われるのが、苦痛に感じるようになってしまったのだ。
部室に行けば強制的に中川菜々は優木せつ菜にならなければならない。でも、優木せつ菜になると大好きが苦しみに変化する。だから部室に行き辛くなっているのだ。
こんな状況、健全じゃない。どうにかして心の持ちようを変えなければならない。頭では分かっていても、行動に移せなかった。
中川菜々に、勇気は無かった。
菜々「……はぁ」
そうこうしている内に生徒会の雑務は終わってしまった。時刻を見るとまだ大して時間は経過していない。
侑さんは音楽科の課題で同好会にいないらしい。今さら行けない理由を撤回するのはあれだが、行ってしまおうか。
暮れなずむ夕日を眺めつつ、少しばかり黄昏た。
と、ここで、生徒会室のドアがノックされた。先生だろうか。でも、こんな遅い時間に来る人なんて今までいなかった。
菜々「はい。どうぞ入ってください」
毅然と対応すると、外から生徒が入って……え?
侑「やっ、菜々ちゃん」
菜々「ゆ、侑さん……?なぜここに」
──
侑「音楽科の課題が思ったより早く終わったからさ、何となく来ちゃった」
菜々「そ、そうですか……」
侑「菜々ちゃんは生徒会の仕事終わったの?」
侑さんは私の隣まで来た。そのまま、生徒会長の机へと体重を預ける。
菜々「えぇ、まぁ。なので、このまま部室に行こうか迷っていたところです」
侑「ふぅん……」
今はまだ気楽だ。私が中川菜々である以上、侑さんの大好きは向けられないのだから。でも、このままだと部室へと行ってしまう。気分が深く落ち込んだ。
侑「まぁ、今日は行かなくていいんじゃない?もう遅いしさ、練習できたとしても大したことできないよ」
だからこそ、侑さんの提案は有難かった。有難いと思うと同時に、スクールアイドル活動ができずに喜んでいる自分に腹が立った。
侑さんの大好きに、私の大好きが殺されている。
侑「それにさ、ここへ来たのは完全になんとなくってわけでも無いんだ。陣中見舞いって言うか、労いって奴?」
菜々「……?」
侑さんはバッグをごそごそと漁り、中からチューブ型の入れ物を取り出した。
侑「ババーン!ハンドクリ~ムゥ~!」
菜々「ハンドクリーム、ですか……」
侑「菜々ちゃんってさ、生徒会とスクールアイドルの兼任で大変でしょ?だからさ、常々思ってたんだよ。労わってあげたいなぁ~ってね」
菜々「そんな……。侑さんだって慣れない音楽科で大変じゃないですか。私だけが労われるなんて……」
侑「いーの、いーのっ!私が個人的にやりたいことだからさ。ほら、腕まくって手を出して」
菜々「……では、折角なので」
私は軽く腕を捲り、右手を差し出した。侑さんはチューブからクリームを少量手に取り、それを私の手へと馴染ませていく。
菜々「……ん。滑りが良くて気持ちいいですね……」
侑さんの両手が私の右手を包み、マッサージされていく。非常に巧みな動きのため、衝撃を受けた。何か習っているんだろうか。
侑「でしょ?最近ハンドマッサージの勉強してるんだ。よっ……と」
菜々「……」
侑さんは真剣な表情でマッサージをしていた。目を輝かせながら大好きを伝えてくれる表情も好きだが、何かに没頭している時の真剣な顔も好きだった。
それに、大好きな人に手を握られている。ただこれだけで、私の胸はどうしようもなく高鳴っている。
侑「歩夢にも好評なんだよね。最初の内はあんまり気持ちよくなかったみたいなんだけど、回数を重ねるごとに巧くなったみたいでさ」
菜々「……っ」
だが、そんな平穏は打ち破られた。侑さんの磨かれたハンドクリームテクニックは歩夢さん由来の物であるらしい。
私はいつも、歩夢さんのおさがりだ。歩夢さんが既に体験していることを、少し後になって私が体験する。きっと、私だけが体験している唯一のことなんて、ありはしないんだろう。
気持ちのいいマッサージのはずなのに、大好きな人に触れられて嬉しいはずなのに、私の気分は沈んだ。
菜々「いいですね、歩夢さんは。こうやって侑さんのはじめてをいつも貰えて。羨ましい限りです」
そんな暗い気持ちが、私にその言葉を吐かせた。
菜々「私だけが侑さんから貰える物なんて一つも無いです」
口が止まらない。こんなの、嫉妬丸出しじゃないか。侑さんには歩夢さんがいるのに、こんなことを口にしてはいけない。
でも、渦巻き膨れ上がった嫉妬心は止まらない。
菜々「ねぇ、そうですよね?私だけにくれる物って何か無いんですか?侑さんのくれるものって、全て歩夢さんのおさがりに過ぎませんよね?」
自嘲気に笑いながら、嫉妬の言葉を吐いた。侑さんは私の豹変ぶりに少しきょとんとしていた。でも、変わらずハンドマッサージは続けてくれていた。
そして少し考えた後、侑さんは口を開いた。
侑「あるよ。菜々ちゃんだけにあげられるもの」
事も無げに、軽い口調でそう言ってのけた。嘘だ。そんなもの、ありはしない。
適当を言う侑さんに、嫉妬心と同時に怒りが生まれた。
菜々「嘘を吐かないでください……っ!そんなわけないじゃないですか!!」
侑「あるって。嘘なんて吐かないよ」
菜々「じゃあなんですか!言ってくださいよっ!」
怒りのまま、侑さんに顔を近づけ叫んだ。私を映す瞳は実に澄んでいた。曇りなんて一切無く、嘘を吐いているようには見えなかった。
侑さんはそんな怒りなんて一切意に介さず、にこやかに告げた。
侑「──それはね、菜々ちゃんのことが好きって気持ちだよ」
耳を疑うような台詞の直後、私の唇に柔らかで温かな物が触れた。
菜々「……え?」
今、私は何をされた……?
侑さんに、キスをされた……?
侑「菜々ちゃんのことが大好きって気持ちだけは、歩夢にも誰にも、あげてないよ」
菜々「──」
やや頬を染めながら、侑さんは言った。
優木せつ菜ではなく、中川菜々が大好きだって……そう聞こえた。
菜々「あ、え……?」
自分の唇に触れる。唇に指先の感覚が伝わる。先ほどとは違う、無機質な感覚。
侑「えへへ。突然でビックリしたかな?」
菜々「ゆ、侑さん……。ど、どうしてこんな……それに、せつ菜ではなく、菜々のことが大好きだって……」
侑「どうして、かぁ。それじゃあ、少しこのまま聞いてくれるかな?」
菜々「……はい」
言われるがまま、私は押し黙る。侑さんは何事も無かったかのようにハンドマッサージを再開した。すでに右手は終わり、左手に移っている。
侑「私さ、せつ菜ちゃんにときめきを感じて同好会に入ったんだ。凄かったなぁ……。何度思い返してみても胸が熱くなるよ」
私が言うのもなんだが、所謂一目惚れという奴なのだろう。侑さんにとっての優木せつ菜とは。
侑「でもね、私が感じたときめきはせつ菜ちゃんだけじゃない。中川菜々ちゃんにもときめきを感じたんだよ?」
菜々「え……」
だからこそ、その台詞が理解できなかった。優木せつ菜は魅せる側の人間だ。けれど、中川菜々は魅せる側ではなく、魅せる人を支える裏方の立場だ。
侑さんの言うときめきとは無縁の世界にいる人間のはず。
侑「私が同好会のマネージャーだったからかな?生徒会長として、表舞台に立ちながら裏方の仕事に励む姿を見て、ときめいちゃったんだ」
菜々「──」
私の菜々としての、中川菜々という生徒会長の仕事を、侑さんは見ていてくれたんだ。生徒会長は言わば、教職員と生徒を繋ぐ仲介人としての立場でもある。だから上から下へ、下から上へと、流す役割を担っている。
それは凄く地味な仕事ではあるが、学園運営という点においては重要な役割を果たしていると私は思う。やりがいはある。けれど、日の当たり辛い仕事でもある。
そんな陰の仕事を、大好きな侑さんに知って貰えていた、見て貰えていた。そこに、少なくない、とても大きな感動があった。
侑「スクールアイドルとして夢を与えるせつ菜ちゃん。生徒会長として夢を支える菜々ちゃん。二人は別々の役割を持っているようで、実は同じなんだなって思ったよ。だからせつ菜ちゃんも大好き。だから菜々ちゃんも大好きなんだ」
菜々「侑さん……」
私とせつ菜は表裏一体であり、実はどちらも同じ面も有している。それは……私も気付いていない私だった。
侑「はいっ。ハンドマッサージ終了っ!」
菜々「あ……」
侑さんの告白が終わった瞬間、手が離れた。直前まで触れていた手が、途端に寒々しく感じた。もっと……触れていて欲しかった。
侑「だから菜々ちゃんにあげられるのは、私の大好き。これじゃ、だめかな?」
悪戯っぽく微笑まれる。心臓が早鐘を打った。
菜々「……だめじゃ、ないです」
菜々「でも……だからと言ってき、キスをするというのは……」
注意には生徒会長という立場上慣れているはずだった。でも、流石にキスの注意は初めてだったので少しどもってしまう。
侑「なんでだめなの?」
それに対し、侑さんはきょとんとしていた。
菜々「なんでって、当たり前じゃないですか。侑さんには歩夢さんがいるじゃないですか。これは浮気というものですよ?」
侑「違うよ。私に歩夢がいるかどうかなんて関係ない。私は菜々ちゃんのことが大好きだからキスをしたい。菜々ちゃんは私のことどう思ってるの?」
菜々「なっ……。い、いえ、歩夢さんは──」
侑「いいから答えてよ、菜々ちゃん」
菜々「ひぅ……」
ドンッと、顔の横にある椅子の背もたれを強く押された。先ほどまで柔和な顔付きだったのに、今は鋭い目つきで私の瞳を射貫いていた。
上手に言葉を紡げなかったが、どうにか声を絞り出す。
菜々「わ、私も……侑さんが、大好き、です……」
それは、伝えられなかった、伝えてはいけない禁断の告白だった。でも、この目で射貫かれて、正直に言えない人なんていないと思った。
侑「じゃあ、いいじゃん。好き同士、キスをするのは当たり前でしょ?」
好き同士、キスをするのは当たり前。それはとても、単純で明快な論理だと思った。
でも、未だ残る私のなけなしの理性が叫んでいる。それは、不道徳だって、道徳に背くことだって。
菜々「でも……歩夢さんは許しませんよ……」
侑「……菜々ちゃんはさ、私とキスしたくないの?」
菜々「あぅ」
顎を人差し指と親指で挟まれ上に向かせられた。侑さんの顔が至近距離にまで近づく。顔が沸騰したように熱くなる感覚があった。
キスしたいか、したくないか。そんなの……答えは決まっている。私が何回、何十回、その様子を妄想したと思っているんだ。
菜々「したい、です……。侑さんとキスがしたいです……っ!」
侑「じゃあ、しようよ。歩夢には浮気してもいいって言われてるんだ」
菜々「えっ!?歩夢さん、公認……なんですか?」
あの嫉妬深く、独占欲の強い歩夢さんが浮気を許している……!?驚愕だった。侑さんは嘘を吐いているようには見えない。では、本当なのか……。
侑「そうだよ。だからさ、阻むものなんて一つも無いじゃん。ね?」
菜々「はい……。それなら……」
浮気が公認なら、キスをしてもいいよね?だって、私と侑さんは好き合っている。好き同士がキスできないなんておかしい。恋人の存在だって問題にならない。だって、歩夢さんはそれを許しているんだもん。
侑さんとの距離がより近づく。
もうすぐ、あと少しで、あの感覚をもう一度味わえる。
私は静かに瞼を閉じた。
すると少しして、あの甘美な感覚が唇に伝わった。
菜々「はっ、はむっ……ちゅっ、んっ、んぅ……っ」
目を閉じていても侑さんが近くにいることが分かる。私たちは唇で繋がっている。だから視界が暗闇に覆われていても互いの存在を自覚できる。
肺の中の空気を全て出し尽くし、唇は離れた。
菜々「はぁ、はぁ……。ずっと、ずっと……こうしたかったです……」
幾度空想し、その度に何度自らを慰めただろうか。それが今こうして、現実のものとなっている。
菜々「これ……本当に現実なんですか?」
侑「現実だよ、ほら」
菜々「……んっ」
胸に手が触れた。撫でられるようにして置かれた手から、微弱だが確かな快感が伝わる。触れられている。快感を与えられている。そうした事実が、これが現実だって告げている。
侑「舌、出して」
菜々「はい……」
侑「偉いよ、菜々ちゃん」
胸を揉まれながら頬に手が添えられた。軽く突き出した舌を、侑さんに咥えられた。
菜々「んっ……、はっ、んんっ、ん、れろ……ちゅっ、れぇろ、んむっ、ちゅぅ……んっ、んっ、んぅぅ……っ」
頭がくらくらする。小さく水音を鳴らしながら舌を吸われ、絡められ、唾液を送られる。唾液には脳内麻薬でもあるのだろうか。ねっとりと甘やかなそれをもっと欲しくなってしまう。
菜々「ゆ、うさん……ちゅっ、も、もっと、れろっ、もっと、くだ、さい……っ、あっ、んんぅっ」
乳首を軽く摘ままれた。いつの間にか、侑さんの手が服の下に入れられていたらしい。口も、胸も、全て気持ちいい。
でも、まだ足りない。こんなんじゃ、私の積年の想いは解消できない。
侑「あはっ。菜々ちゃんってこんな顔するんだね」
菜々「はぁっ、んんっ」
唇が離れると、侑さんの顔の全体像が見える。その表情は、一言で言えば凶暴だった。獲物を狙う猛禽類のような目つきで舌なめずりしていた。
つまるところ、侑さんは興奮していた。
侑「じゃあ、ここはどうなってるかな……?」
菜々「あっ、そこは……」
侑さんの手がスカートに潜り込む。そして、下着の上から秘裂をなぞられた。
菜々「あっ、ん、くぅ……っ」
侑「わお。上からなぞっただけでこれかぁ……それに……」
侑さんはスカートの中から手を出した。そして、にちゃにちゃと指先で何かを弄んでいた。
侑「こんなに濡れてる。興奮し過ぎだよぉ、菜々ちゃん」
それは、私の愛液だった。粘着性を帯び、夕日に照らされテラテラと光っていた。
侑「あはは、ごめんごめん。じゃあ元に戻すから、ねっ」
菜々「あっ、ぁんっ」
再び手はスカートの中へ、そして今度は下着の中に侵入した。下着の上からでは分からなかった感覚。
侑さんが普段お箸を持ったり、キーボードを弾いたりする手が今、私の股に触れている。それが興奮を加速させた。
菜々「あっ、んんっ、ゆ、ゆうさんっ、すきっ、すきですぅっ!あっ、あぁんっ!んっ、んっ、すきっ、すきぃっ!」
侑「私も大好きだよ菜々ちゃんっ!」
膣内に指が入る。中はもう解れているようでいとも容易く指の侵入を許した。より深く強い快感が全身を走り、腰がビクついた。
でも、切ない。下だけじゃ、指先だけの繋がりなんて寂しい。侑さんの首に手を回して自分から口づけを交わしに行く。
菜々「んっ、ちゅっ……ぁあっ!ゆ、ゆう、しゃん……んぁっ、んっ、んっ、んぅううっ!れろ、んっ、ちゅっ、ぁああっ!」
好き、好き、大好き。気持ちいい。気持ちいい。すごく気持ちいい。
脳の表面だけを使っているような感想で頭が埋まっていく。でも、今の私は本当にそれしかない。侑さんへの大好きな気持ち。大好きな侑さんから与えられる強い快楽。
今はそれしか考えたくなかった。
菜々「はっ、んむっ、ちゅう……っ!あっ、あっ、あぁっ!ゆ、ゆうさんっ、な、なにか、きちゃい、きちゃいまぁあっ!?」
侑「大丈夫。怖くないよ。ずっとキスしてあげるから」
下半身から背筋へと、ぞわぞわした何かが這い上がってくる。自慰行為で得られる快楽では知らない、より深い快感がすぐ傍まで来ていた。
期待よりも恐怖が勝ったが、キスで繋がっていれば耐えられる。私はこの脳が焼き切れてしまうかもしれない快楽を、受け入れたかった。
大好きな侑さんから与えられる物なら何でも……欲しかった。
菜々「イッ、イッっちゃいま……っ、ちゅっ、んむっ、ゆうさっ、んん!すきですっ!だいすきですっ!だいすきでっ、……んんぅううあああああああっ!」
下半身がビクビクと痙攣しながら、涙が出るほどの快楽が流し込まれる。壊れた蛍光灯みたいに視界が明滅した。
いつ終わるか分からないほど長く、それでいて深い絶頂だった。それが落ち着くまで、やはり私は唇を離さなかった。
菜々「はっ、はっ、はぁっ……」
余韻に浸れるくらい気持ちが落ち着き、唇を放す。ぼやけた視界が視力を取り戻し、世界の輪郭がハッキリとし始める。
その世界に映ったのは、大好きな侑さんだった。
侑「可愛かったよ、菜々ちゃん」
菜々「はぁ、はぁ……侑さん……、すき、です……」
侑「うん。私も好きだよ」
涙が一筋頬を伝って流れた。
絶対に叶わないと思っていた願いが、今ここに成就していた。
菜々「あ、あれ……?嬉しいはずなのに……なんで……」
涙は止まらなかった。決壊したダムのように、止まる気配がない。腕で何度も拭ったけれど勢いは衰えなかった。
菜々「ひぐっ、ぐすっ……うれ、嬉しいんですよっ、私……。浮気でもっ、侑さんとっ、繋がれたことがっ……」
じゃあこの涙のワケはなんなんだ。嬉しいなら、笑え。喜んでいるなら、笑うんだ、中川菜々。
心が叫んでいる。これでは、侑さんを心配させてしまう。
侑「……大丈夫。全部分かってるよ、菜々ちゃん」
だが侑さんは、そんな情緒不安定な私を優しく抱きしめてくれた。先ほどまでの凶暴な一面は面影も無かった。
他人を慮り、人を元気づけてくれるいつもの侑さんに戻っていた。
今の侑さんが一番優しい。そう思った。
菜々「うっ、うぁ……。うぅううあああああああああっ!」
侑「大丈夫……。私はここにいるよ……」
胸を借りて泣いた。頭を優しく撫でられ、その優しさが沁みて余計に泣いてしまう。
その中で私は、改めて思った。
やっぱり私は、侑さんのことが大好きだなぁ、って。
目論見通り、菜々ちゃんとの浮気を終えた。学園を出たのは夕刻を大分過ぎた後であり、もう少し遅ければ守衛さんに見つかっていたかもしれない。
それほど、菜々ちゃんとの交わりは新鮮かつ鮮烈だった。私のときめきを十分に満足させてくれた。
侑「可愛かったなぁ……菜々ちゃん。ふふふ……」
家への帰り道。周囲には誰もいないが、公道で出してはいけない笑い声がつい漏れてしまう。
歩夢「──こんばんは。侑ちゃん」
侑「わっ。ビックリしたぁ……」
いつの間にか隣に歩夢がいた。一切人の気配がしなかったというのに、なんて隠密力だろうか。
歩夢「その緩んだ表情を見るに、大成功だったってことかな?」
街灯に照らされ、暗い夜道に歩夢の容貌がぼんやりと浮かぶ。怒っているわけではないし、悲しんでいる顔でもない。いつのも歩夢らしい、フラットな表情だった。
浮気は公認なのだから別にビクつく必要は無い。とはいえ、はじめての浮気なのだ。多少の警戒は仕方がない。
侑「うんっ!初戦としちゃあ上手く行き過ぎたね。まぁ、やり過ぎて菜々ちゃんの足腰がちょっと心配だけどね。あはは」
そう。私はやり過ぎた。菜々ちゃんは予想通り性行為をしたことが無い処女だった。スクールアイドルをしているからスタミナはあちらの方が上だろうけど、他人から与えられる快楽に慣れていなかったのだろう、菜々ちゃんは這う這うの体で自宅へ帰った。回数を重ねれば早晩、私が力負けするのは間違いない。
まぁ、そう簡単に屈する私でも無いんだけど。歩夢で鍛えられた私はそりゃもう……生半可では無い。
歩夢「全くも~。侑ちゃんってすぐに調子に乗るよね」
侑「あはは。でも大丈夫。安心して歩夢」
歩夢「?」
侑「歩夢の分はちゃんと残してるからさ」
私はわざと暗がりに歩夢を誘導し、そのまま軽くキスをした。慣れ親しんだ柔らかで甘やかな感覚がした。
歩夢「……ふふっ。ありがとう。侑ちゃん」
侑「私の一番は歩夢だから。浮気はすれど、絶対に戻ってくるよ」
歩夢「……それは、嬉しんでいいのかな?」
歩夢は困ったような表情をしていた。まぁ、受け取り辛い言葉だと思う。
侑「もちろん。それが私にできる、高咲侑が上原歩夢へ送る最大の愛の証明だから」
歩夢「……ほんと、口は達者だよね。お布団の中じゃひぃひぃ言ってる癖にさ」
侑「むむっ。今日は違うもん。経験値が増えてレベルアップした高咲侑を見せてあげるよ。侑ちゃんボード『むんっ』」
身振り手振りだけで璃奈ちゃんボードの真似をする。
話題が変わる。そしてそれは、正にベストタイミングな振り方だった。
侑「うん。侑ちゃんボードじゃなく、璃奈ちゃんボードの持ち主だよ」
歩夢「へぇ……」
そう。菜々ちゃんを攻略した今、私は既に次の標的へと目を付けている。
それは、璃奈ちゃんだった。天王寺璃奈。私たちの後輩であり、同好会の仲間だ。そしてもう一つの肩書きが璃奈ちゃんにはある。それは──
歩夢「菜々ちゃんはフリーだからまだいいけど……璃奈ちゃんは愛ちゃんと付き合ってるのに、大丈夫なの?」
そう。菜々ちゃんには恋人がいなかったが、璃奈ちゃんにはいる。だが、これこそが私のときめきを増幅させる。恋人がいる相手と性交に及ぶのは難易度が格段に跳ね上がる。でもだからこそ、挑み甲斐があるってものだ。
侑「まぁ、概ねプランはできてる。もうちょっと材料が欲しいけどね」
歩夢「はぁ。真面目だね侑ちゃん。その強かさを、ちょっとはお勉強に向けて貰いたいね」
侑「あ、お母さんみたいなこと言うじゃん。やめてよ歩夢ママ」
すると、何がおかしいのか歩夢はくすくすと笑っていた。ちょっとした冗談だと思うが、何が琴線に触れたのだろう。
侑「そんなおかしいこと言ったかな?」
歩夢「ふふっ。ちょっとおかしくて。ママなら浮気を許したりしないよ。私は侑ちゃんの恋人だから、浮気を容認できるの」
侑「……わお。すごい切り返しだね。鋭いや」
恋人だから浮気を容認できる。その返しは、歩夢にしかできないと思った。
歩夢「侑ちゃんの唯一無二の恋人だもん。このくらいの意識は普通だよ」
侑「……全く。頼もしい限りだね。大好きだよ、歩夢」
歩夢「私も大好きだよ、侑ちゃん」
そうして、私と歩夢は手を繋いで家路を急いだ。
次なる標的は、璃奈ちゃん。初戦は終わり、次なるは本戦だ。
私は私のときめきの為に不道徳なことだってやってやる。不道徳だからこそ、燃える。ときめきがより輝く。
侑「……略奪愛、ね。あははっ。なんて相応しいんだ」
愉快さに思わず、頬が緩んだ。
Case2:天王寺璃奈の不満
璃奈「……ん」
肌寒さに思わず身を起こす。ぼんやりとした意識の中周囲を見渡すと、私の布団が丸々ひったくられていた。
愛「ん~、どんなもんじゃ~い……」
下手人は私同様に裸で寝ている人、宮下愛その人だった。布団を全て身に包みながら、満足そうに寝ている。
壁に掛けてある時計を見ると、時刻は丑三つ時を少し超えた頃だった。つい数刻前まで、私と愛さんは体を重ね合っていた。
私がこうして起きてしまったのは、きっと肌寒さだけでは無いのだろう。
璃奈「……はぁ。っと、いけない。ため息なんて吐いちゃだめだよね」
正直に言えば、私はあまり疲れていない。この疲労の無さは同時に、私の満たされなさも証明している。私としては、もっと互いに貪り合うような性交をしたいが、それは叶わない。
愛さんと私は……あまり体の相性が良くないらしい。肉体的な面もあるし、精神的な部分も大きい。問題の比重としてより大きいのは精神的な方だ。
私は愛さんが好きだ、大好きだ。友人が多く、何をやるにも結果を残し、太陽のように皆を照らす愛さんは私の憧れだ。その憧れが丸々恋へと転化した。
それが、いけなかった。憧れの人であり、恋人の愛さんに対し、私は自分の性欲の全てをぶつけられずにいる。私が遠慮すれば、愛さんが前へ出るしかない。けれど、愛さんは性交に対してあまり乗り気では無い。
それは……仕方が無いのかもしれない。表情の乏しい私は、快楽に顔が歪むことも無く、体の起伏だって乏しい為面白味が無いのだろう。そんな私に興奮をしろ、という方が困難な話なのかもしれない。もっとも、単純に性欲自体薄いだけなのかもしれないけど。
だから、いつも私たちの性交渉は最低限であり、互いの愛情を確認するだけの無味乾燥なものとなっている。
別に、私が積極的になればいい、という話では無い。乗り気では無い人に対し、「私は実は性欲が強いんです!理解してください!」と言ったとして、それはパートナーに対し我慢を強いるだけだ。理解を求めることは、相手に我慢を強いることと同義だと、私は感じている。
実は以前、勇気を出して愛さんに言ったことがある。もうちょっとだけ、刺激を強めたプレイに臨んでみないか、と。けれど、結果は惨敗だった。私だけ気持ちが昂り、愛さんは対照的に冷めていた。
結局のところ、愛さんと私では性行為に対して求める物が違うのが明確になっただけだった。
私は快楽を貪り合うようなセ●クスがしたい。でも、愛さんが求めているのは快楽では無かった。指先の些細な変化に、愛情を感じられるような、そんな優しいセ●クス。
求める物が根本的に違うのだから、体の相性がいいはずがない。
でも、私が愛さんに求めているのは体だけではない。寧ろその逆。愛さんの内に秘める精神性に憧れたからこそ、私は愛さんに告白して恋仲となったのだ。だから、体の相性が悪くたって、心さえ通じ合えていれば……何も問題は無いはず。
そんなことを考えながら、私は生まれたままの姿でトイレに入った。便座にお尻を乗せて事を始める。
用を足しに来たのではない。体の疼きと火照りを冷ますため、愛さんに聞こえないようにするため、ここへ来たのだ。
璃奈「……あっ」
指先は難なく膣内に入った。唾液で濡らす必要も無いくらい、私のあそこは潤っていた。
眠れない理由の第一はこの、収まらない欲求不満のせいだ。元々性欲は人並み以上にあったものの、孤独なぼっち期間が長いせいで自慰に明け暮れる日々が多かった。だから余計に私の性欲は強化されてしまった。
日々の人間関係で忙しい愛さんは、性欲にかまけている暇など無かったのだろう。
璃奈「んっ、ぁっ……んんぅ……」
快楽を得る方法は自分が一番知っている。親指で膣の上にある突起を弄びつつ、薬指と中指を膣内に入れて乱暴に搔きまわす。それだけの仕草で私は軽く達してしまう。
でも、まだ足りない。既に痛いくらい勃っている乳首に手を伸ばす。
璃奈「……ぇ」
やけに粘着性のある涎を上半身に垂らし、それを指先に絡め、乳首へと塗布していく。刺激が伝わりやすくなり、人差し指と親指で強く挟んだ。
強い刺激に思わず目が眩む。脳に火花が散ったようだった。私の性感帯で一番敏感なのは膣でも陰核でも無く、乳首なのだ。平坦で乏しい胸だからだろうか、それとも長年弄ってきたせいだろうか、私はどうしようも無く乳首で感じてしまう。
璃奈「……んっ、んっ、んぅうううう……っ!はっ、はっ、はぁ……っ」
またしても、簡単に達してしまった。それでようやく、私の体の火照りは収まった。これなら途中で起きることも無く、朝までぐっすりと寝られるだろう。
荒い息遣いになりながら、ぼんやりとトイレのドアを眺めた。四方を壁に囲まれた、狭い空間。部屋の中には勿論私しかいない。愛さんの気配など、感じられるわけもない、孤独で静かな空間。
璃奈「……恋人がいるのに、なんで独りなんだろう」
ぽつりと、どうにもならないことを口にした。
性欲さえどうにかできれば、私は過不足無く愛さんとの時間を楽しめるのに。性欲さえ解消できれば、もっと上手くやれるのに。
璃奈「……どうすればいいのかな」
独り言は狭い部屋にもよく響いたが、どこにも届けられることは無かった。
──
悩みと言えば愛さんとの関係だけじゃない。通学路で不審な気配を感じるのだ。
璃奈「……誰かいるの?」
朝の通学路。通い慣れた道を歩くのに迷う必要は無く、毎日同じルートを通っている。
だからこそ分かる。小さな変化に否応にも気付いてしまう。
璃奈「……」
車が走る音、鳥の囀る音、私の足音。そしてもう一つ。知らない誰かの小さな足音。
私が進めば、その足音も進む。私が止まれば、その足音も止まる。
璃奈「……っ」
思い切り走ってみる。相手を振り切る為ではない。相手が全力疾走すれば、それは派手な動きとなって目立つ。きっと、その影を掴むことができるはずだ。
璃奈「……」
突然足を止めて後方を振り返る。でも、そこには誰もいなかった。通学路には似つかわしくない、シンとした静寂が辺りを包む。
結局、影は掴めなかった。最近はずっとこんな感じだ。恐らく影の正体はストーカーだろう。スクールアイドルという活動上、付いて回る問題でもある。でもまさか自分にそのお鉢が回ってくるとは思いもしなかった。
メンタルの強い人なら、ストーカーが付いてくるほどの実力者になった、なんて思うんだろうか。生憎、私はあまりメンタルが強い方ではない。それも、雲を掴むような、いや、影を掴むような話なのだ。神経が擦り減らない訳がない。
そんな鬱屈とした気持ちを抱えながら、私は登校した。
お昼休憩。私は愛さんと一緒に中庭で昼食を摂っていた。楽しく和気藹々とした時間のはずだ。でも、私の心は晴れない。なぜなら、今こうしている間にも、誰かに監視されているんじゃないか、という懸念があるからだ。
愛「りなりー、大丈夫?」
愛さんが箸の進まない私を案じてか、顔を覗き込んだ。
璃奈「……うん。平気だよ」
平気ではない。でも、ストーカー被害に苦しんでいるだなんて言えなかった。愛さんに助けを求めたい気持ちはある。でも、もしこの問題に愛さんを巻き込んで、愛さんに被害が及んでしまったら……。そう考えると、悩みを打ち明けることができなかった。
そもそも、私は人に頼ることが苦手だった。頼った結果拒絶されたらと思うと……背筋が凍る。
愛「そんなわけないよ。りなりーの不調に愛さんが気が付かないわけないじゃん」
璃奈「愛さん……」
愛「大丈夫だよ。何を心配してるのか分からないけどさ、愛さんにも悩ませてよ」
璃奈「でも……。愛さんまで危険な目に遭うかもしれない」
そう言うと、愛さんは少し怒ったような表情をしていた。
愛「それじゃあ、今りなりーは危険な目に遭ってるってこと?」
真剣な声音だった。私は言葉を選び間違えたと後悔した。どうしよう、なんて言い繕えば……。
愛「……図星みたいだね」
璃奈「い、いや……。違うっ」
愛「違わないよ。りなりーってさ、付き合ってから隠し事が多くなったよね」
璃奈「……っ」
隠し事。それは私が夜の営みで欲求不満に陥っていることを指しているのだろうか。いや、私の被害妄想に過ぎないだろう。
愛「でも……隠し事を無理やり問い質そうとは思わないよ。きっと、私のことを考えてくれた上での隠し事なんだよね」
璃奈「……うん。ごめん」
愛さんは、こういう人だ。私に非があるのに、それを優しくフォローしてくれる。そして、愛さんのことを考えての隠し事、というのもあっていた。
愛「事情は聞かない。でも、これだけは言わせて。りなりーが困ってるなら、私は助けてあげたい。りなりーが私の身を案じてくれているように、私はりなりーに危険な目に遭って欲しくない」
璃奈「……うん」
愛「だって、私たちは恋人同士じゃん。悩むならさ、一緒に悩みたいよ」
愛さんは太陽みたいに明るく微笑んだ。その笑顔に、愛さんの言葉は本物だって感じられた。
私が愛さんを巻き込みたくないように、愛さんは私を心配してくれている。恐らくその気持ちは、本物。
私は何度も間違える。始めから、愛さんに相談した方がよかったのだ。巻き込みたくない気持ちがあったって、それは私の事情だ。愛さんと私は既に恋人なのだ。酸いも甘いも平等に味わう関係になっているのだ。
私はまだ……本当の意味で愛さんの恋人になれていなかった。罪悪感で胸の奥が鋭く痛んだ。
璃奈「うん……うんっ。ごめんね、愛さん。私、バカだったみたい」
愛「大丈夫。りなりーはバカじゃないよ。私のことを考えすぎて混乱しちゃっただけだよ。その気持ちが、私は何よりも嬉しい」
瞼から涙がこぼれる直前、私は愛さんに抱きしめられていた。
中庭でみんなの目があったから何とか涙は引っ込めた。その代わり、愛さんの気持ちだけは最大限受け取ろうと思って、私も抱きしめ返した。
私はまた、愛さんのことが好きになり、自分のことが嫌いになった。
憧れの愛さんのようになれる日は、果たして来るんだろうか。
愛さんには包み隠さず全てを話した。ここ最近ストーカー被害に遭っているということ。この話をすれば、愛さんにも被害が及ぶかもしれないと思って言えなかったこと。起こった事実、私の心情含めて全て、詳らかにした。
愛さんは神妙な顔付きで全てを聞き、最後には胸を叩いて「大丈夫!全部解決するよ!」と頼もしく言ってくれた。
本当に、始めから全部話せばよかった、と心の底から思った。
それから、真面目に授業を受け、同好会の練習に精を出した。そう言えば、今日のせつ菜さんは少し様子が変だった。練習に身が入らず、ずっと侑さんの方を見ていた気がする。まぁ、気のせいだろう。
同好会の活動後、私は帰宅しなかった。未だに学園内に残っており、詳しく言えば学園内のトイレの中にいた。
ここは特別教室が多く連なっている棟のトイレの為、放課後に人は寄り付かない。それも、部活動が終わる時間帯なら尚更人の気配は無い。私は安心して事に及べるということだ。
愛さんに悩みを打ち明け、頼もしい姿を見せられた結果、私の胸は高鳴っていた。その高鳴りは愛さんへの愛情へと変換され、その愛情は性欲へと転化した。平たく言ってしまえば、カッコいい愛さんを見て濡れてしまったのだ。
家に帰るまで待てなかった。体の火照りは限界を迎え、同好会の練習もあまり身が入っていなかった。
璃奈「……わっ、すごい糸引いてる……」
便座の前で下着を下ろすと、愛液が糸を引いていた。それを見て、私は自分の興奮度合いを知る。
果たして、これは愛さんが魅力的過ぎるせいなのか、私の強すぎる性欲が故なのか、いや、その両方なのかもしれない。
便座に座り、中指を慎重に膣内へと入れていく。指一本でも狭い膣内だが、絡みつくように動き、きゅうきゅうと締め付けた。
璃奈「はっ……ふぅ」
愛液の量は申し分なく、簡単に侵入を許した。けれど、まだまだほぐれていない。膣内の緊張を解くため、私はゆっくりと指を上下に動かしていく。
璃奈「愛さん……愛さん……あい、っ、さん……っ」
思い浮かべるのは、今日の光景。愛さんに強く抱きしめられた時のこと。格好良さ、頼もしさ、そして、愛しさが反芻される。
興奮が高まり、膣内がほぐれるのを待たないまま二本目を入れた。
璃奈「んぅ~っ。はっ、んんぅっ……」
口を固く結び、嬌声が漏れないように努める。けれど、口の端から唾液が漏れた。唾液は糸を引いて制服へと自由落下していく。
璃奈「はっ、はっ、はぁ……っ、んっ、んぅぅ……んんんぅっ」
二本の指の自由度が上がり、より膣内を掻きまわしやすくなった。水音も激しくなっていき、小陰唇の上の突起に親指を伸ばした。突起を撫でるように指圧すると、私の体は面白いように跳ねた。
璃奈「あっ、あっ、んんぅうっ!はぁっ、んん……っ、あぁんっ!」
口を固く結んでも、声は抑えられなかった。嬌声は駄々漏れになって零れていく。外のトイレのドア越しに耳を当てれば難なく聞こえるだろう。それでも、私は指の動きを止められなかった。
止められるとすれば、トイレに誰かが侵入すれば──
璃奈「──っ!!」
やや建付けの悪いドアが開く音がした。さっきまでとは別の意味で体が跳ねた。
夕方の部活動が大方終わった時間に一体誰が……?来るとすれば教師くらいだけど……。
そこまで考えて一つの推測が頭に浮かぶ。
ストーカー……?
教師とストーカー。私は前者であることを強く願った。
隣の個室から用を足す水音が聞こえた。普通にトイレをしているだけに思える。でも、まだ油断はできない。私の気の緩みを狙っているのかもしれない。
個室の上は吹き抜けとなっており、さらに下段は僅かに隙間が空いている。上下どちらかから何か仕掛けられるかもしれない。
気を張って注意深く趨勢を見守った。
やがて、トイレのドアが開く音がして、洗面台から手を洗う音が聞こえた。そして、トイレの出入り口のドアが開く音がして……閉じた。
璃奈「……はぁ、よかった。命拾いした気分……」
一度大きくため息を吐いた。弛緩していた気持ちが解け、一気に脱力してしまう。
どうやら中に入ってきたのはストーカーでは無く、ただの学園関係者だったらしい。教師でも生徒だろうと何でもいい。ただの杞憂だったのだから。
だが、頭の片隅では小さく違和感を告げていた。その違和感の正体は分からなかったけれど、今は性欲を解消するのが先だろう。
先ほどまであった緊張はどこへやら。無理やり封じ込めた性欲の波が大きくなって私へと押し寄せた。
璃奈「はっ、はっ……ぁんっ」
今度は最初から全力だ。膣内は濡れそぼり、中も十分に解れていたためいつでも準備万端だった。
遠慮なく中指と人差し指を膣内へと入れ、親指で陰核周辺の皮を剥いていく。私だけが的確に分かる膣内をまさぐると、頭に快楽が流し込まれた。
璃奈「きも、ち……いいよぉ……っ」
目を閉じ、歯を食いしばる。蜜壺を遠慮なく掻きまわすこの指が愛さんだったら。私の大好きな愛さんだったら。そう考えながら、私は指の動きを加速させる。
璃奈「あいさんっ、も、もっと……っ!あいっ…さんっ!んんぅっ、あっあっあぁんっ!あいさんっあいさんっ……!」
学園の中。トイレの個室。バレたら一発で人生が終わる。そんな緊張感さえ、今は興奮へのスパイスだった。
愛さんの名前を呼びながら、私はもうすぐ達しようとしていた。目の奥がチカチカと明滅し始め、ぞわりと鳥肌が体中を走り抜ける。
璃奈「イ……っ、んぁあっ、あっ、あぁぅうっ。あ、いさんっ。イク、イク…っあいさんイクぅっ!!」
爪先をピンと張り、口元から涎を垂らしながら、私は達した。深い絶頂だったため、しばらく目が開けられず肩で息をしていた。
璃奈「はぁ……はぁ……やばい。気持ちよすぎた……。こんな……クセになっちゃう……」
学園内のトイレで自慰行為なんて、常習していたら間違いなく破滅する。でももう、私はこの味を知ってしまった。それなら……私は誰かにバレるまで、この行為をやめられないかもしれない。
なんてことを自嘲気に思ったその瞬間だった。
侑「──あはっ。璃奈ちゃん、すごいイキかただったね」
璃奈「……っ!?」
頭上から声が掛かった。私は急いで顔を上げると、そこには仕切りの縁に手を掛けた侑さんがいた。
侑「やあ璃奈ちゃん。こんにちは」
璃奈「……うん」
私の個室の中に、侑さんが入ってきた。絶頂の余韻も無いまま、私は急いで下着を履いた。
侑さんが何を考えているのか分からない。でも、よくない腹積もりであるのは間違いないだろう。なぜなら、侑さんの笑顔は猛禽類のように狂暴な顔付きだったからだ。
侑「その顔、驚いてるね。どうして私がここにいるのか分からないって顔だ」
璃奈「……もしかして、さっきトイレに入ってきたのって……」
侑「そうだよ。璃奈ちゃんの後を追ったらトイレに入っていったからさ。それで随分長いなぁって思ってドアに耳を当てたら……ね。それで中に入って、用を足して。出入口のドアを開けて、閉じたんだ。私は中に留まったまま、ね」
中に入って、中に留まったままドアを閉めた。なるほど、出ていくと見せかけたらしい。私が感じていた違和感とは、出ていく足音が一切しなかったことらしい。はぁ、私も詰めが甘いな。
そしてどうやら、侑さんがここにいるのは全くの偶然というわけでは無いらしい。
私の頭の中で幾つもあった点が一直線に繋がる感覚があった。つまり、最近のストーカーの正体は侑さんだった、ということだ。
璃奈「なんで……私を追い回すような真似を?」
それなら、疑問は一つに集約する。ストーカーをする意味。それに絞られる。
侑「ん~……そうだなぁ……」
侑さんは人差し指を顎に当てながら思案していた。言葉を選んでいるのか、ごまかしの嘘を考えているのか、本音をどう話そうか迷っているのか、どれなのだろう。
侑「璃奈ちゃんが心配だったから、かな?」
璃奈「……え?」
その答えは、予想だにしないものだった。
璃奈「心配……?なんでそんな……」
侑「私ね、同好会のマネージャーだからよくみんなのこと見てるんだ。体に不調は無いかなぁ、とか、何か不安を抱えていないかなぁ、とかね。それで、最近璃奈ちゃんが悩んでる素振りがあったからさ、ちょっとね」
愛さんとの関係に思い悩んでいた。それは確かだ。だけど、そんなことを表に出していただろうか。元々表情に乏しい私だ。そんな不調、感じ取れる方がおかしい。
まあ、仮に侑さんの言い分が本当だとして、それでも明らかにおかしい点がある。
璃奈「それなら、直接聞けばいい。こんな……ストーカー紛いの行動しなくてもよかったはず」
侑「……あはっ。璃奈ちゃん、もしかして怖かった?」
璃奈「……っ」
私の指摘に、侑さんは愉快そうに笑みを深めた。私は精神的に追い詰められていたというのに、それが笑えることだろうか。
侑さんはそんな、人の恐怖を喜べる人間だったのだろうか。
そう言って侑さんは頬をポリポリと掻いた。悪気は無いらしい。なんだか毒気が抜かれた気分。
侑「でも、その甲斐あったかな。璃奈ちゃんを追跡調査して問題に気付けたよ」
璃奈「……いい。いらない。言わなくていい。私の問題は私と愛さんが解決する。侑さんの手はいらない」
悪気はないらしい。でも、侑さんは危険な匂いがした。私が心配で追跡調査?そんなの嘘に決まってる。頭の中で警鐘がけたたましく鳴っていた。
悪気、悪意が無いのなら、余計に質が悪い、そう思った。
侑「愛ちゃんと璃奈ちゃんで解決?無理だよ、そんなの」
そんな私の拒絶の意志を、侑さんはきっぱりと切り捨てた。
璃奈「無理って……なんでそんな……」
私は否定しようとしたけど、言葉尻が弱くなる。当然だ。私が当たっている問題とは、愛さんと私だからこそ解決できない問題なのだ。もしかして、本当に侑さんは私の抱える問題を──
侑「──欲求不満なんでしょ?璃奈ちゃん」
璃奈「……っ」
問題の核心を、侑さんはいとも容易く当てて見せた。私は思わず歯噛みした。容易に当てられるくらい、私は材料を振りまいていたらしい。こんな素人探偵に当てられるほど。
とはいえ、知らない人に的中されるよりはいい……と強引に自分を納得させた。
侑「愛ちゃんの名前を呼びながら一人でするなんてさ、それしかないじゃん。恋人同士なのに、どうして我慢しなきゃいけないのさ。だからつまり、そこに問題がある。違う?」
璃奈「……当たり。私の問題は、自分の性欲を満足させられない」
言い繕っても無駄だと判断した。これ以上言い訳しても墓穴を掘るだけだろう。それに、私の悩みを吐露したところで生じるデメリットなんて少ない。情けなさと羞恥心を感じるだけだ。
璃奈「確かに。これは愛さんと私だからこそ解決できない問題かもしれない。でも、私と愛さんは心で愛し合ってる」
そうだ。私が愛さんに惹かれたのは体じゃない、心だ。愛さんそのものの在り方に魅かれ、惹かれていった。
璃奈「だから体の悩みなんて些末なこと。こうして一人、自分の性欲を解消すればいいだけのこと」
愛さんが与えてくれない欲求の穴は、自らで慰めればいいだけのこと。私の問題とは、その程度のものなのだ。こんな悩み、普通のカップルなら誰しも抱えている。私だけが特別じゃない。
璃奈「体も心も、全て満たされてるカップルなんていない。心配してくれた侑さんには悪いけど、これは余計なおせっかいが過ぎるってものだよ」
私の言っていることは正論だと思う。でも、なぜだろうか。
文章の意味を正しく理解せず、ただ読み上げているような、この空虚な感じは。私は本心でこれらの言葉を口にしているのだろうか。
頭の片隅で訴え続ける空虚さに困惑しながら侑さんを見た。侑さんは何を言っているのか分からない、と言った風に首を傾げていた。
侑「ふ~ん?私と歩夢は、心も体も満たされてるけどなぁ……」
璃奈「……っ」
何事もないように言う侑さんに、怒りを覚えた。頭が沸騰したように熱くなり、横っ面に拳を入れたくなった。でもその前に、侑さんの手が私の肩に置かれた。
璃奈「……煽りたいだけなら、私は帰るよ」
前に出ようとするが、肩に置かれた手がそれを許さなかった。
侑「違うよ。私は心配なんだよ」
璃奈「心配心配って……私が欲求不満だとして──」
侑「それも違う。私が心配なのは、璃奈ちゃんと愛ちゃんが別れちゃわないか、ってことだよ」
璃奈「──」
水を打ったように静かになった気がした。私と愛さんが別れる……?
侑「璃奈ちゃんと愛ちゃんは好き同士。これは私も認めるよ。でもね、心と体は表裏一体。そこで生まれたひずみは必ず大きな溝を作ると思うんだ」
璃奈「……」
侑「不満はゴム毬と一緒だよ。押さえつければ押さえつけるほど、より強い反発力を持って跳ね返ってくる。璃奈ちゃんがどれだけ愛ちゃんが好きでも、何かの拍子に喧嘩しちゃうかもしれない」
璃奈「……喧嘩しても、仲直りすればいいだけのこと」
侑「ちっちっち。大元の原因が根っこから解決できてないなら、問題を先送りにしているだけだよ。それじゃあ何度も何度も繰り返すだけ」
璃奈「ぐっ……」
片目を閉じ、指を振って否定する侑さんはとても楽し気に見えた。
侑「それにさ、欲求不満は一人で解消すればいい、なんて言ったけど……」
璃奈「……え、侑さん何をっ!?」
侑さんは自然な動きで私の股下へと左手を移動させた。次の瞬間、私は小さな快感を覚えた。
璃奈「んっ……。や、やめて侑さん。今はそんな話をしてるんじゃ──」
侑「ほら、まだこんなに濡れてる。璃奈ちゃんは全然解消できてない。そりゃあそうだよね。愛ちゃんにして貰いたい気持ちを、自分一人で解消できるわけじゃないんだから」
璃奈「そ、それ、は……。あっ、んんぅうっ、ゆう、さ……んっ!だ、だめ!!」
最初は下着越しに愛撫するだけだったのに、侑さんの指先は下着の中へと入っていく。秘裂をなぞられると甘い快感が体を走り、思わず声を漏らしてしまう。
巧い。侑さんの愛撫は非常に巧みだった。
侑「あはっ。すごっ」
璃奈「な、中は……だめだって……あぁんっ!んっ、んっ、んんぅううっ!イ、いっちゃ……!」
侑「うんうん。このまま一回だけイっちゃおう!」
侑さんの指は、第二関節ほどまで膣内へと入っていた。たった一本で鍵盤を叩くように動き、私は達する一歩手前まで来ていた。
膝がガクガクと笑い、侑さんの体にしがみついて何とか立っていた。
璃奈「あっ、あっ、だ、だめだめだめ……っ!ほ、本当にイク、イク……あぁっ、イっちゃぁっ、んんんんぅうううっ!」
反らした顎から絶頂の嬌声が漏れた。侑さんの愛撫によって、私はまるで児戯のようにイッてしまった。
侑さんは私が達したことを確認した後、ゆっくりと指を抜いた。その拍子にもう一度、私は体をビクつかせた。
侑「おぉ、指を擦り合わせると糸引いてる。エ●チだねぇ……」
璃奈「はぁっ、はぁ、はぁ……ゆ、侑さん、何のつもり……」
荒い息遣いのまま、私は何とか声を振り絞った。侑さんは愉快そうに愛液の付いた指を眺め、長い舌で舐め取った。
侑「璃奈ちゃんの性欲、私が解消してあげるよ」
璃奈「なっ……」
侑「愛ちゃんはエ●チに乗り気じゃないんでしょ?それなら、解消方法を外に向ければいい。簡単でしょ?ね?」
璃奈「そ、そんなのだめ……。いくら体が疼いたって、私は愛さんを裏切れない。それに、歩夢さんはどうなるの?さっき、心も体も満たされてるって言ってたけど、本当は侑さんが私で性欲解消したいだけなんじゃないの?」
侑「う~ん……。それだけはあり得ないね。残念ながら、私と歩夢は心も体も相性抜群のベストパートナーなんだよ。それに、歩夢は私が浮気をすることを了承してるよ?」
璃奈「……っ!?」
だ、だめだ。侑さんが言っていることが理解できない。浮気を了承してる?それも独占欲の強い歩夢さんが?なんで?なんで?
侑「私は歩夢が好き、大好き。でも、璃奈ちゃんのことも好きだよ?それなら別に璃奈ちゃんに手を出すことだって何らおかしいことじゃないよね」
璃奈「……お、おかしいよ、そんなの……。意味が分からない……」
理解できないなりに、それを言語化してみようと試みた。でも、意味が分からなかった。侑さんのおかしさ、歪み、その全てをまるで理解できない。
侑「まぁ、分かるよ。歩夢は私の彼女。だから他の娘に手を出すのは良くないこと。私の一番は歩夢。でも、二番目も三番目も、好きには変わりないんだよ」
璃奈「……倫理観が合わない」
侑「あはっ。そうだね。別に理解されようとは思ってないよ」
ケラケラと、侑さんは愉快に笑う。まるで道化師だ。
侑「あぁ、ごめん。話が脱線したね。一つ知っていて貰いたいのは、私が璃奈ちゃんに手を出すのは好きだから、だけじゃないよ?さっきも言ったけど、愛ちゃんと別れて欲しくない。それが一番なんだよ」
璃奈「……詭弁だよ。そんなの」
侑「じゃあ璃奈ちゃんは愛ちゃんと別れてもいいの?」
璃奈「そんなのっ!いいわけないっ!」
そんなの、最悪のシナリオだ。
侑「でしょ?それに、このまま不満を抱えたまま、愛ちゃんと良好な関係を築けるって、本当にそう思う?」
璃奈「それは……」
築ける。そう言えたらどれだけ良かっただろう。でも私の脳内はその言葉を否定した。
脳裏には、あの日の光景が浮かぶ。
~……~
璃奈『……恋人がいるのに、なんで独りなんだろう』
~……~
心と体は表裏一体。問題を放置すれば、その歪みはやがて手が付けられないほどに肥大していく。侑さんの言葉が思い起こされた。
璃奈「浮気じゃ、ない……?」
侑「そうだよ。愛ちゃんと璃奈ちゃん。二人がこの広い世界で出会って、さらに愛し合えるなんて奇跡じゃん。私は二人に別れて欲しくないんだよ」
真剣な眼差しが私の両目を貫いた。その言葉に……嘘は無いと思った。
侑「これはね、二人が良好な関係を築くために必要なことなんだよ。罪悪感なんて覚えなくていい。全部、二人に別れて欲しくないって言う私のエゴなんだから」
エゴ……。侑さんのエゴ……。
侑「全ての責任は私にある。私に浮気したい気持ちが少しも無いって言われたら嘘になる。でも、璃奈ちゃんは浮気なんてしたくないでしょ?」
璃奈「……うん。愛さんを裏切ることなんて私は望んでない」
侑「それなら、全て私が悪いんだよ。璃奈ちゃんが私に体を許すのは仕方がないことなんだよ。むしろ、私に体を許すことが、愛ちゃんとの関係を続けたいって言う『愛の証明』になるんだよ」
全て、侑さんが悪い。体を許すのは仕方がないこと。
私は嫌だけど、侑さんとエ●チをするのは、愛さんへの愛故に。愛さんと別れたくないから仕方がない処置。
そっか……。それなら、しょうがないよね。すとんと、私の心の中で何か落ちた気がした。それは恐らく、建前とか免罪符とか、そう呼ばれるもの。
侑「お願い。璃奈ちゃんの力になりたいんだ」
璃奈「……」
侑「もし受け入れてくれるなら、今からすることを拒んでね」
そう言うと、侑さんは顔を近づけてきた。精悍な顔付きだった。これから浮気をしようって人の顔じゃない。
それはそうか。だって侑さんは浮気をしようとしてるんじゃない。私を救おうとしてくれてるんだもん。私の為に自ら汚れ役を買って出ているんだもん。
そりゃあ……カッコいい顔付きにも見えるよね。
私は、静かに瞼を閉じた。
璃奈ちゃんの陰核を見つけた。早く触れて欲しそうにピクピク主張していた。
侑「あはっ。これが璃奈ちゃんの……いや、りなりーのおいなりー?なんてね」
璃奈「……バカ。愛さんはそんなこと言わない」
便座に座り、自分で両足を抱えながら璃奈ちゃんは言った。格好の付かない悪態だった。
侑「いてっ。あはは。流石に無いか」
璃奈「無い。それと、エ●チ中は愛さんの名前出さないで」
侑「え、なんで?」
璃奈「だって……愛さんに申し訳ない……」
璃奈ちゃんは目を伏せた。まだまだ罪悪感は抜けきらないらしい。それもしょうがないか。でも、その罪悪感こそが、ね。
侑「……あはっ。何言ってるの璃奈ちゃん」
璃奈「え?」
侑「これはね、どこまでも気持ちよくならなきゃいけないことなの。それなら、多少背徳的なことでも我慢しないと」
諭すような口調で私は語り掛ける。璃奈ちゃんはきょとんとしていた。
璃奈「え、え?それはどういう──」
侑「──愛ちゃんの名前を出すと、ほら……こんなに締まる」
璃奈「え、んんっ……」
『愛ちゃん』。その言葉がトリガーとなって膣内がキツく締まる。分かりやすいなぁ。でも、顔に出ない璃奈ちゃんらしいな。顔じゃなくて、体に感情が出やすいって。
侑「自覚、無かったんだ。あはっ。どんどん気持ちよくなっていいよ、りなりー」
その言葉に、もう一度璃奈ちゃんの膣内は反応した。
璃奈「侑さんのバッグ。おもちゃばっかり。私よりも色に狂ってる」
侑「どうだろう。他の人と性欲の強さを比べたことなんて無いからなぁ……。璃奈ちゃんも相当だと思うけどね」
がさごそと、私のバッグを漁る璃奈ちゃん。私はいつこんな時が来てもいいように準備万端だった。まぁ、持ち物検査なんてされたら困るので多少はバッグに細工してるけど。
璃奈「……歩夢さんも侑さんも、色情魔。ほら、こんな極太の持ってる」
侑「そんなこと言って、物欲しそうな視線じゃん?」
璃奈「そ、そんな目はしてない……はず。それに、これを今から挿入れられるのは侑さんだよ」
侑「……あの、お手柔らかにお願いします」
私は便座の上で四肢を固定されていた。両腕は上に、両足は秘裂が良く見えるような格好になるよう、私が持参したガムテープで固定されていた。
璃奈ちゃんは私の言葉に、酷薄な笑みを浮かべる。
璃奈「ふふふ……。私、攻められるのも、攻めるのも、実はどっちも大好き。愛さんにはできなかったこと、全部ぶつけさせて貰う」
侑「……ひ、ひえ~っ」
璃奈「ひえ~って言いながら笑ってる。侑さん、やっぱり変態だね」
侑「あはっ。お互い様でしょ?」
璃奈「違いない」
気付いているんだろうか。璃奈ちゃんは今ごく自然に笑えていることに。水を差すのもあれなので、私は黙っていた。
そうして、璃奈ちゃんは欲求不満を見事解消させ、私は璃奈ちゃんを頂くことに成功した。
やや建付けの悪いドアを開く。開閉音が暗いトイレの中ではよく響いた。中を少し進むと、そこには恥ずかしい格好で固定された侑ちゃんがいた。
だらしない表情を浮かべ、満足そうだった。
歩夢「侑ちゃん……大丈夫?」
侑「あ~……歩夢。よくここが分かったね。えへへ」
ぼんやりと、侑ちゃんの意識はハッキリしていないらしかった。少し前まで激戦が繰り広げられていたのだから無理もない。
歩夢「まあ、いつ、何が起こってもいいように準備はしてるから」
侑「……どういうこと?」
歩夢「うぅん。なんでもない」
今は何も、知らなくていいんだよ。
私は侑ちゃんに貼られたガムテープをなるべく痕が付かないように剥がした。剥がす時に皮膚が持ち上がる感覚さえ、今の侑ちゃんには快楽に変換されているようだった。
侑「はぁ~……拘束プレイに放置プレイ。璃奈ちゃんもなかなかに倒錯してるよ」
解放された侑ちゃんはぐるぐると腕を回し凝りを解していた。
歩夢「ふふっ。ちっちゃくて可愛いのに、性欲は大きいんだね璃奈ちゃん」
侑「まぁ、背が小さい人の方が性欲強いって聞いたことあるし、そういうこともあるよ」
歩夢「ふぅん?とりあえず、目論見通りに行ったんだね」
侑「うんっ!ぜ~んぶ私の掌の上だったよ!」
覚束ない足取りで帰り支度をしながら、侑ちゃんは満面笑みで応えた。その笑顔に、思わず胸が高鳴った。
歩夢「璃奈ちゃんの悩みって、本当に欲求不満だったの?」
侑「そうだね。それも割と深刻なくらいね」
歩夢「へぇ……。どうして深刻だって分かるの?」
侑「歩夢ぅ……。欲求不満を甘く見てない?」
歩夢「えぇ?」
どうして私が呆れられた表情をされなきゃいけないんだろう。
侑ちゃんは先生のように語り始める。
侑「心と体は表裏一体。心の不満は体に影響が出て、体の不満は心に影響が出るものなんだよ。風邪引いた時って精神的にも落ち込みやすいでしょ?」
歩夢「……なるほど。詳しいんだね」
侑「まぁね。歩夢がエ●チさせてくれない時とか、次の日悶々として授業に集中できないからね」
歩夢「……」
結局おバカな話だった。感心して損したかもしれない。
侑「まぁ、今回は欲求不満がカップル解消に繋がるから、って話に持って行ったけど……その逆もあり得るんだよね」
肩を落としていると、侑ちゃんは少しだけ真剣な表情になった。
歩夢「逆って?」
侑「体の相性で嫌いになっちゃう可能性もあれば、体の相性で好きになっちゃう可能性もあるってことだよ」
愛ちゃんと璃奈ちゃんは体の相性があまり良くないようだった。それは心にマイナスな影響を与える。けれど、体の相性が良ければ心にプラスの補正が掛かる、ということであり、つまり……。
歩夢「それは……侑ちゃんのことが好きになっちゃうってこと?」
胸がざわついた。浮気を容認はしても、やはり他の娘から強い好意を向けられるのはやっぱり面白くない。
侑「まぁ、そうだね。体だけの関係、と言ってもね。完全に心と体を切り離すことなんて無理だよ」
歩夢「……」
私は侑ちゃんの袖を掴もうとした。すると、侑ちゃんはそれを軽く避け、恋人繋ぎで応えてきた。
こういうことを、侑ちゃんは難なくする。
侑「大丈夫だよ歩夢。いつだって私の一番は歩夢。歩夢の元を離れることは無いし、歩夢に愛想を尽かすことなんてないよ」
歩夢「……うん」
侑「それに、心と体の理論が本当なら、私が歩夢以上に体を重ねる娘なんていないよ。だから、一番が揺らぐことなんてありはしない。でしょ?」
揺らぎの無い双眸を向けられる。全く、侑ちゃんは狡いなぁ……。
歩夢「……呆れちゃうけど、その通りだと思う」
私はより強い力で侑ちゃんの手を握った。離れないとは分かっている。だからこそ、これは単なる侑ちゃんとくっつきたい私の意志だ。
侑「ふふふ。やっぱり歩夢は分かってるね」
私のちっぽけな不安は簡単に解消され、そのまま益体の無い雑談をしながら家路を歩いた。
侑「──そう言えば、この前の中間テストで学年一位だったんだよね?元々成績良かったけど、なんでそんな気合入ってるの?」
歩夢「なんでって……まぁ、自分のため、かな?」
侑「そりゃあそうでしょ。あ、着いちゃった。それじゃ、また明日!大好きだよ歩夢!」
歩夢「うん。またね侑ちゃん。大好きだよ」
手を振って、私は侑ちゃんと別れた。
中間テストで学年一位。これはほんの通過点に過ぎない。まだまだ私には足りないことが多い。でも、一歩ずつ進んでいくしか方法は無い。
と、そこまで考えてから、私はとあることを質問し忘れていることに気付いた。
歩夢「……次のターゲットが誰か、聞くの忘れちゃった」
Case3:朝香果林のペルソナ
何かの焼ける音と、空腹を刺激する匂いがする。寝惚け眼を擦りつつ、私は起床した。
エマ「あ、果林ちゃん起きた?もうすぐ朝ご飯できるからね~」
果林「ふわぁ……分かったわ……」
エマは台所に立って朝食を作っていた。私たちが付き合う前でも後でも、もう見慣れてしまった光景だ。
私はベッドに戻りたい欲求をどうにか抑え、洗面台で顔を洗い歯磨きをこなした。今日はずいぶん調子がいいらしい。
エマ「うんうん!ちゃんと朝の準備できて偉いね~」
果林「え、エマ。そう言って撫でられると流石に恥ずかしいんだけど……」
エマ「え~、いいでしょ別に~。それに、寝ぐせもぴょんぴょんしちゃってるよ?ほら、任せて」
果林「……お願いするわ」
いつも通り、私はドレッサーの前の椅子に座り、エマに髪を梳いて貰う。彼方ほどの癖っ毛では無いけれど、どうも私は寝相が悪いらしく、寝ぐせが厄介だ。だが、エマはもう私の髪の毛の癖を全て知っている。整うまでに要する時間は僅かだった。
エマ「よ~しっ。カッコいい果林ちゃんの完成だよっ!」
果林「えぇ、ありがとうエマ」
エマ「お安い御用さんだよ~。ほら、冷めないうちに朝ご飯食べてっ」
果林「はいはい……いただきます」
朝食に手を付け始める。机の対面で、エマは楽しそうに私の食べる姿を見ていた。どうやら既に朝食は済ませているらしい。
エマ「どうかな?」
果林「えぇ、美味しいわ。朝の弱い私でもパクパクね」
エマ「ふふっ。良かった」
エマは向日葵のような笑顔を浮かべた。その笑顔に気を取られ、ウインナーを落としそうになってしまう。モデルでもスクールアイドルでもある私が心奪われるとは。少しだけ悔しい気持ちになる。
けれど、そんなエマの素の魅力に惹かれたからこそ、私はエマと付き合いだした。
告白はエマからだった。見たこともない真っ赤な表情で、「私と付き合ってください!」と手を差し出された。スイス流なんてものは無く、日本らし過ぎる告白の方法に少々面食らったことを覚えている。
私はその手を取った。エマは喜びより安堵の方が大きかったのか、瞼から大粒の涙を流していた。それから今に至るまで、私とエマは付き合っている。
とはいえ、相変わらずエマはこうしてモーニングコールと朝食を作りに来てくれるし、道に迷えば良き水先案内人として活躍してくれる。以前と違う所と言えば……。
エマ「あ、果林ちゃん。ほっぺに付いてるよ……。あむっ」
ほっぺに食材の一部が付いていたらしい。エマはそれを指で絡めとり、自らの口に運んだ。
エマ「えへへ。今度は口で取っちゃおうかな?」
少しだけ恥ずかしそうに、エマは告げた。
付き合い始めて変わったことと言えば、日常にややむず痒いワンシーンが追加されたことだろう。それ以外は特に、無い。
と、そこまで考えた時、体がぶるりと震えた。
エマ「……果林ちゃん。やっぱりお洋服は着ようよ」
果林「嫌よ。まだ体が覚醒しきっていないもの。億劫だわ」
エマ「も~……。エ●チした次の日はいつもだよねぇ。いつか風邪引いちゃうよ~?」
果林「ふんっ。望むところよ」
一つ追加するならば、私の怠惰さに磨きがかかった、という点かもしれない。
エマと一緒に学園に登校し、下駄箱にやってきた。下駄箱の中を開くと、ひらりと一枚の便箋が落ちた。
果林「手紙、かしら。今時古風なことをするの人がいるのね」
裏表を見ても差出人の名前は書いていない。書いてあるのは宛名であろう『愛しの君へ』という言葉のみ。君、と言われても、私は女なのだけれど……。
エマ「愛しの君……。果林ちゃん知ってる?『君』ってね、古くは尊敬する人って意味だったんだよ?」
果林「エマ……」
エマ「平安時代、江戸時代って時代が移るにつれて意味は変化していってね、今では主に男性に使うイメージがあるよね。でも──」
早口でエマは講釈を垂れ流す。私の耳にはあまり入ってこないが、この講釈モードは付き合い始めてから現れたものだ。どういった時に現れるのか、簡単に言えば激しく動揺している時だ。
私へラブレターが届いてしまったのだから、恋人であるエマが動揺するのは無理のないことだ。
果林「大丈夫よエマ。きっぱりと断ってくるわ。私はもう恋人がいて、あなたの気持ちに応えることは天地がひっくり返ってもあり得ないって」
毅然とした態度で言葉を口にした。白黒させていた目が元に戻り、エマはため息を吐いた。
エマ「ご、ごめんねぇ、果林ちゃん。私、まだ慣れなくて……。果林ちゃんがモテるなんて昔から知ってたはずなのに……」
エマは目を伏せ、申し訳なさげな表情を作る。
果林「顔を上げてエマ。そんな顔、あまり見たくないわ」
エマ「果林ちゃん……。ありがとね。やっぱり果林ちゃんは優しいよ」
果林「いいのよ。私が表立って交際の事実を公言できればいいのだけれど……」
エマ「うぅん。無理しなくていいよ。もうちょっとすれば……きっとどっしり構えられる彼女になれるから。待ってて」
果林「エマ……」
モデルとスクールアイドル。二つは人気商売だ。学生風情ではあるが、恋人がいることは大々的に発表しない方がいいだろう。けれど、そのせいで事情を知らずにラブレターが送られ、エマが苦しんでいる。
仕事か、プライベートか。私はエマのためならモデルを辞める覚悟がある。けれど、だからこそ、エマはそれを許さない。
『私の心の弱さで果林ちゃんがモデルを辞めるなんて嫌だよ……』
以前言われた台詞だ。そう言われたら、私は何も言えない。エマのメンタルが鍛えられるのを待つだけだが、まだまだ先は長そうだ。
果林「……ゆっくりでいいのよ。それに、無理に慣れる必要なんてないもの」
エマ「でも……」
果林「嫉妬するエマが見られなくなるのは、それはそれで残念だわ」
エマ「か、果林ちゃ~ん。今は真面目な話してるんだよ?」
果林「ふふっ。本気よ?私」
エマ「む~っ!」
果林「むくれた顔も素敵よ。ラブレターを送ってくれた人に感謝するべきかしら?」
エマ「果林ちゃ~んっ!からかわないの!」
頬を膨らませ、肩を怒らせるエマは、実に可愛らしい。いつもは皆のお母さん的立場なエマが、子供っぽい表情を見せるのは貴重だ。だから別に……慣れる必要なんてないのだ。
私とエマはそのまま教室へと向かった。貰ったラブレターは、大切にバッグへと保管した。
舞台は屋上。風の強さは髪が多少揺れるくらい。空は小さな雲がふよふよと浮かぶくらいで晴れだった。
昼休み。誰もいない屋上にて、私は知らない女生徒と向かい合っていた。
女生徒「あ、あの……。ま、まずはっ!勝手に呼び出しちゃってごめんなさい!私如きが果林さんを呼び出すなんて畏れ多いことを──」
女生徒の正体は、今朝下駄箱に入っていたラブレターの差出人だ。手紙の内容は単純で、昼休みに屋上に来て欲しい、という内容だった。捻りも無く、オリジナリティも無い、十把一絡げなごくごくありふれたラブレターだ。
もう何通、いや何十通貰っただろうか。女生徒の長い長い前置きを聞きながら、私はそんなことを考えていた。
女生徒「で、ですので……畏れ多き、この世に舞い降りた現人神のような果林さんに失礼かとは存じ上げてはいるのですが……」
果林「えぇ、何?」
否定する気も起きない美辞麗句の数々。美辞麗句というより、何かしらね、これ。私はぞんざいに返事をした。
女生徒「ど、どうか……私の果林さんになってはくれませんでしょうか!?」
女生徒は直角に腰を折り曲げ、片腕を差し出した。その姿は、一瞬だけ以前のエマが重なった。私はかぶりを振ってそのイメージを振り払った。
果林「ごめんなさい。私、もうパートナーがいるの。だからあなたの気持ちには応えられないわ」
女生徒「え……」
女生徒は呆然としていた。告白を断られた時、普通は呆然とはしないだろう。普通は絶望するか、落ち込むとか、逆上するか、そういった態度を取るのが一般的だ。
だが、私が返事をすると、大抵はこの顔になる。その理由は……。
女生徒「え、えぇ!?果林さんともあろう人がすでに恋人を!?あのクールビューティで孤高の存在である果林さんが!?」
そう。私に好意を、いや、私を信奉している人は『クール』『ビューティ』『孤高』だとか、そういう言葉で私を表現する。
そういう人が考える朝香果林とは、恋人なんていなくとも問題ない。そんな気高き高潔な一匹狼なのだ。だから恋人がいることを言うと面食らう。全く、イメージの押し付けも大概にして欲しいところだ。
果林「あなたの中で私がどんな人間なのかは分からないけれど、私は普通の人間よ。トイレだって恋だってなんだってするわ」
女生徒「そ、それは……そうですけど……。くぅ~っ、先客がすでにいたなんて……。ち、ちなみに、相手はどなたなんですか!?」
女生徒は鼻息荒く聞いてきた。私は一度大きくため息を吐いた。
エマの名前を出すのは得策では無いかもしれない。けれど、私なりの義理であり、変に嗅ぎまわられるのを防ぐために、聞かれたことには素直に答えている。
果林「エマよ。同じ同好会のエマ・ヴェルデ」
女生徒「エマ……さん、ですか。そうですか……」
果林「二つ、言っておくけれど、エマには何も聞かないで頂戴。それと、私がエマと付き合っていることは他言無用でお願いするわ」
女生徒「……はい」
果林「……それじゃあ、話は終わりね。私は教室に戻るわ」
私はそう言って、屋上の出口へと向かった。慰めの言葉は口にしなかった。振った側が言える言葉等無く、送る言葉は全てが傷に塩を塗る行為だろう。
果林「はぁ……鬱だわ」
疲れる。本当に疲れる。告白とは一大決心だ。そしてその一大決心を受け止め、振るとは膨大なエネルギーが必要だ。
もし本当に、私が女生徒の言うような現人神やら、孤高のクールビューティであるならば、振ることなど朝飯前なのだろう。けれど、私の内面はそうではない。極々普通の精神性を持った平凡な人間なのだ。
果林「……こんなペルソナ、粉々に砕いてしまいたい」
表の朝香果林と、内にいる朝香果林。正直言って、表の私の存在が最近は煩わしくなってきた。スクールアイドルという表の朝香果林とは似ても似つかわしくない活動を始めてから、孤高を気取り、熱くなることを嫌うペルソナは足枷になることの方が多い。
いや……クールビューティの朝香果林を壊したい一番の理由は、きっとそれでは無い。
普通の私の、普通ではない、アブノーマルな部分。
丹精に作り込まれた孤高のクールビューティな朝香果林というペルソナを壊す。それ自体に、私はどこか……望んでしまっている。
一言で言ってしまえば、破滅願望。いつの間にか私の心に潜んでいた。
化けの皮が剥がれ、素のアブノーマルな私が外へ出されてしまえばどうなるのだろうか。それを思うと、背筋にぞわりとした何かが走り抜けた。
果林「……だめ。だめよ朝香果林。それだけは……」
けれど、私はそれを否定する。否定しなければならない。これは叶わぬ望み。叶ってはいけない望み。
私はエマとの関係、同好会の活動が大好きだ。だから、こんな破滅とも言える願望を持つのは、考えることは、いけないことだ。
でも……。もし、波風立たずに化けの皮を剥がしてくれる機会があれば、私は肉を目の前にした肉食獣のように、飛びついてしまうかもしれない。
憂鬱な昼休みを終え、その後は恙なく一日が終わる。終わる、はずだった。
同好会の練習が終わった後、私は侑から呼び出しを受けていた。曰く、相談事があるそうだ。
なぜ私に白羽の矢が?とも思ったが、大切な後輩たっての相談事だ。二つ返事で了承した。
そして、私は侑から指定された場所へと辿り着く。
侑「あ、果林さん。ようこそ」
果林「えぇ。それで、相談事って言うのは……と、その前に、どうして場所が防音室なのかしら?」
そう、指定された場所は防音室だった。虹ヶ咲学園に幾つもある防音室の中の一室。キーボードと椅子、それと二人が座れるくらいの小さなソファがあった。部屋の広さはその三つの家具を置いただけで手狭に感じるほどだった。
侑「聞かれたくない相談だからですよ」
果林「……そう。それで相談事って言うのは何かしら?」
単刀直入に、話を進めた。変に雑談をして濁すより、こっちの方がいいだろう。しかし、侑はそういう腹ではないようだった。
侑「まあまあ。落ち着いて果林さん。とりあえず、私特製の紅茶でも飲んでよ」
侑は魔法瓶を取り出し、中の紅茶を注いだ。
果林「……いただくわ」
紅茶の入った器を受け取る。口に含むと味わったことの無い甘さが鼻を抜けた。
果林「へぇ、美味しいわね。これって、侑が自分で作ったの?」
侑「そうですよ。この日の為に準備したんですよ」
果林「この日のために……?」
引っかかる物言いだった。けれど、紅茶の味が気に入ったので一気に飲んだ。ややとろみのある喉越しだったので、口の中に多少残っている感じがした。それに、紅茶の影響だろうか、体がポカポカと温かくなってきた気がする。
侑「それじゃあ一息吐けたということで……」
果林「えぇ。何でも言ってちょうだい。力になるわよ」
侑はピアノの前にある椅子に、私はすぐ近くのソファに座った。
侑「そうですか。じゃあ単刀直入に言いますね。果林さん、私とエ●チしてください」
世間話でも振るくらいの軽さで、はにかみながら言われた。
果林「……は?」
思わず、素っ頓狂な声が出てしまう。私と、侑がエ●チをする?聞き間違だろう。そうに違いない。
侑「もう一度言います。私とエ●チしてください」
聞き間違いでは無かった。侑は少し頬を赤らめながら、爆弾発言をした。
果林「……」
少しばかり思案に耽る。すると、頭の中で一つの解答が浮かんだ。なるほど、これは恐らくドッキリという奴だ。
全く、侑も突飛なことをする。きっとこの防音室の中には撮影用のカメラが設置されているのだ。
しかし、ドッキリにしても危ない話題だ。侑は歩夢と付き合っていて、私はエマと付き合っている。そんな間柄の私たちにとっては余りに危険じゃないだろうか。
果林「……あ、なるほど」
一つ、また気づいた。恐らくこの洒落にならないドッキリの発起人はエマだ。心配性のエマのことだから、侑を使って私の愛を試そうとしているんだ。
今朝の一件と言い、私は信用されていないらしい。小さな苛立ちが頭に募った。
それなら、わざとハメられてやろうじゃない。最近の憂鬱な気分を侑とエマにぶつけてやるわ。まぁ、浮気ギリギリのところまで来たら、素早く身を引くけれど。
侑「なるほどって……どういうことですか?」
果林「あぁ、ごめんなさい。こっちの話よ」
侑「そうなんですか?それで……返事はどうでしょう?」
侑はモジモジと手を絡め、視線を私から外していた。実に堂に入った演技だ。しずくちゃんにでも教わったのかもしれない。
私は足を組み、肘を突いて顎を手に乗せる。そして悪戯っぽい笑みを浮かべながら口を開く。
果林「いいわよ。私とエ●チ、しようじゃない」
侑「えっ!?」
侑は面白いくらい驚愕していた。思わず立ってしまったほどだ。
侑「えっ、えぇ……?」
笑えた。侑はこの展開になるとは思わなかったらしい。後ろ頭を掻きつつ、少し困っている様子だった。
侑は私の隣に座った。二人ほどしか座れないため、私と侑は自然と肩がくっつく距離に近づいた。もう少し顔を近づければ、容易にキスできる距離だ。
果林「なにを動揺しているの?侑が望んだことでしょう?」
侑「あぅっ」
顎を軽くつまんで持ち上げる。侑は可愛い声を漏らした。主導権は完全に私が握った。
果林「じゃあまずは……キスから始めましょう?」
侑「……」
徐々に顔を近づけていく。ゆっくりと、緩慢に、時間を目一杯かけて。
この映像を見ている歩夢か、エマがドアから現れるのだろう。「だ、だめーっ!」なんて歩夢が飛び出してくるのかもしれない。それとも「果林ちゃん……(低音)」なんてことになるのだろうか。
それにしても、このままでは本当にキスをしてしまう。このままでは、本当に……。
そう思った瞬間、侑が私の首に手を回した。そのまま、侑の手に引かれるまま──
侑「──ん」
温かな感覚が唇に伝わった。似ている感覚を、昨晩エマで味わった。けれど、エマのものとは違う。
果林「……え」
頭が、今起こった事実を正しく処理できていなかった。
私……侑とキスをしたの?キスしてしまったの……?
頭が真っ白になる中、焦ったように周囲を見渡した。誰も来る気配の無い防音室。監視カメラなど一切見当たらない白い四方の壁。
ドッキリじゃ、ない……?
侑「──あはっ。ようやく驚いてくれましたね、果林さん」
果林「……っ」
視線を元に戻すと、そこには悪戯っぽく笑みを歪めた侑がいた。
侑「びっくりしちゃいましたよ。まさか果林さんってビッチ!?って。そっちの方向だったかーっ!って、当てが外れたかと思っちゃいましたよ~」
果林「な……え、これって……ドッキリじゃ、ないの……?」
そう言うと、侑はきょとんとしていた。
侑「ドッキリ?違いますよ。正真正銘、現実、リアルですよ。あ、なるほど。ドッキリだと思ってたんですね。それじゃあさっきのも納得だ」
うんうんと、侑はそのまま頷いていた。ドッキリじゃ、ない……。頭から血の気が一気に引いていくのを感じた。
けれど、なぜだか体は余計に熱くなったような気がした。心臓の鼓動がやけにハッキリ聞こえる。
侑「か~りん、さんっ!んっ……」
果林「んむっ、ん、ちゅっ……ちょ、ちょっと待って侑っ!」
侑はもう一度首に手を回し、強引にキスをしてきた。このまま流されたい気持ちを抑えつけ、肩を掴んで何とか引き離した。
果林「あなた、歩夢がいるでしょう!?どうしてこんなことができるの!?」
侑「歩夢には許可を貰ってますもん。モーマンタイですよ」
果林「なっ……」
歩夢が、許可を……?あの嫉妬深い歩夢が……?侑の表情を見る限り、嘘とは思えなかった。
果林「で、でも……私にはエマがいるわ。エマを裏切ることなんてできないわ。さっきのはドッキリだと思ってたから……」
侑「ん~、今さらですよ、果林さん。私とはもうキスをしちゃったんですから」
果林「それは……。い、いえ、だめよ。一回過ちを犯したからと言って、それを繰り返す方が愚かよ。ごめんなさい。私もう帰るわ」
ここにいたらいけない。このままだとずるずる行くところまで行ってしまいそうだった。そうなる前に、私は脱出することに決めた。
侑「逃がしませんよ?」
果林「ゆ、侑っ!降りなさい!」
侑「えへへ。聞き入れられませーん」
侑は私の膝の上に座った。侑の柔らかな太ももの感触が伝わる。運動を余りしていないのか、筋肉より脂肪の肉感を強く覚える。
思わず、生唾を飲み込んでしまう。
侑「私、ずっと果林さんのこと、いいなぁ、って思ってたんですよ」
果林「何よ突然……離れなさいって……っ!」
強引に押せば、ひ弱な侑くらい押しのけられる。けれど、首に回した手が厄介だった。上手く突き離せない。
侑「クールだし、カッコいいし、セクシーなお姉さんですし」
果林「……」
その言葉は聞き飽きた。もはや私にとって褒め言葉では無く、疎ましさすら感じる。
果林「……侑。いくら私を褒めたって、応じることは無いわよ」
侑「ふふっ。いいえ果林さん。果林さんは必ず、私に応じるんですよ?それに、まだ私の告白が終わっていません」
果林「……はぁ。気の済むまで告白するといいわ。それが終わったらどいてくれる?」
私の問いに、侑は笑顔で答えた。濁されたらしい。
そして、満面の笑みのまま、その言葉を口にした。
侑「──そんな果林さんの化けの皮を剥がしたいって、ずっとずっと思ってたんですよ」
果林「……っ!?」
化けの皮を、剥がしたい?侑には表に出している私の顔が、素では無いとバレている?
いや、それも当然と言えば当然か。スクールアイドル活動を通して同好会の皆には色々な私を見せてしまっている。エマ経由でだらしない面も伝わっている。
だが、侑の物言いは……少し気色が違って思えた。お腹の奥の方が僅かに疼く。
侑「果林さんってクールビューティでセクシー姉さんとか言われてますけど、エマさんから毎朝起こされるくらい朝弱いんですよね?」
果林「……えぇ。だから何かしら」
侑「それに、よく道に迷う方向音痴さも持ち合わせている」
果林「なに?馬鹿にしたいの?」
侑「そんな素の果林さんにとって、クールで完璧な朝香果林って煩わしいんじゃないですか?」
果林「……」
人から言われると、少し苛立ちを覚える。エマの過剰な心配や、無味乾燥な告白など、煩わしいことはたくさんある。けれど、そんな私をステージの上で披露して、拍手を貰うことは気持ちのいいことなのだ。
だから、他人からとやかく言われるのはなんだかいい気持ちがしなかった。
果林「侑。あなたちょっと言い過ぎじゃ──」
侑「だから、私の前では見せてくださいよ。素の果林さんを。余裕そうな表情が崩れた、ファンには見せられないような朝香果林を見せてくださいよ」
けれど、私の反論は封じられた。抵抗の意志とは裏腹に、胸の奥が高鳴っていた。
常にどこか斜に構え、余裕そうな態度を崩さない普段の私。それを、侑は壊したい、崩したいと思っているらしい。
侑「あはっ。いい表情になってきましたねっ!」
側頭部を両手で掴まれる。私の瞳を覗き込む侑の瞳は、狂気の色を含んでいた。けれど、その凶暴さも窺える瞳の色に、なんだか惹かれてしまう私がいた。
侑「果林さんも思ってたんじゃないですか?クールを気取る自分をどこの馬の骨とも知らない誰かにぐちゃぐちゃにして欲しいとか」
どこの馬の骨とも知らない誰かに、ぐちゃぐちゃにして欲しい。その響きは甘美に思えた。
侑「節制に節制を重ねて得たその美貌を、汚らわしく下品に蹂躙されたい……。そんな被虐願望があるんじゃないですか?果林さん……」
果林「……あ」
私の胸の奥底。深層心理の部分が、それを確かに首肯していた。本性を見事にいい当てられ、羞恥で顔が真っ赤に染まった。
侑「ほらっ。果林さんってやっぱりマゾヒストじゃないですかっ!見せられませんよね?そんな顔。いくらエマさん相手だって」
果林「ま、マゾなんかじゃ……いたっ」
突然、頬を叩かれた。私は叩かれた箇所に手をやる。すると、僅かに熱を帯びていた。
果林「いっ……」
今度は逆の頬を叩かれた。思わず瞑った瞼からは、涙が少しだけ滲んだ。
果林「や、やめなさいっ。先輩にこんなことをしてただで済むと」
だめだ。本当に戻れなくなる。エマとの優しくも甘く、ほんの少しだけ満たされない日々へ。けれど、そんな葛藤はするだけ無駄だったらしい。
侑「──じゃあ、なんで笑ってるんですか?」
果林「……え」
侑「どうしてそんな、恍惚に染まった顔をしてるんですか?マゾヒストで、叩かれると悦ぶ人間だからですよね?」
震える指で自分の顔を触る。頬、唇、その角度。
果林「あ……あはっ、あははは……」
瞼には涙さえも浮かべているのに。痛いって脳は叫んでいるのに。
私はどうしようもなく、下卑た犬のような笑顔をしていた。
侑「大好きですよ、果林さん……。いただきま~す……」
果林「んむっ!?あ、ゆ、んちゅっ、ちゅっ…ら、ら、め……ぇろ、れろ……ちゅっ」
私の口内に、侑の舌が強引に入り込む。荒々しく、暴力的なキスだった。テクニックなんて関係ない、相手を貪って蹂躙するようなキス。
そんなキスで、私は容易に落ちてしまった。
侑「あはっ。素敵ですよ、果林さん」
楽し気な侑の声が聞こえる。けれど、姿は見えない。
私は現在、手錠で両腕を上に固定され、股を開くような格好でソファに拘束されている。生まれたままの姿で、尚且つ目隠しもされている。
侑「ちなみに、体が火照ったりとかしてます?えいっ。おぉ、すごい弾力」
果林「んっ……えぇ。あの時飲ませた紅茶に何か混ぜたのね……」
侑「説得が上手くいくよう、媚薬を混ぜておいたんですよ。海外から取り寄せたものなのでちょっと値が張ったんですが……その分だと効果覿面っぽいですね」
果林「あっ、んっんっ……侑……もっと……んんぅっ!」
体に熱が籠っている。それを排出するには、快楽の波で押し流すしかない。乳房をぐにぐにと乱暴に揉まれながら、私は侑に懇願する。
侑「もっと、じゃないでしょ。お願いします、でしょ?」
果林「お、お願い……します。もっと乳首も……いじめてください……あぁっ!」
侑「あはっ。あの果林さんがこんな格好で、そんな台詞を言うんだ。いいですよぉ……」
果林「あっ、ぁあんっ!ち、くびだけなのに……っ!きもちいいっ!んぁあっ!」
感じたことの無い強い快楽が体を突き抜ける。媚薬の効果なのか、マゾであることに素直になった効果なのか、いや、どちらもだろう。
素直になるって……こんなに気持ちいいものなのね……。
侑「いや~、にしても、何を食べればこんなにも育つんですか?私も大きい方だとは思ってましたけど、これは群を抜いてますよ」
果林「んんぅうっ!あっ、あっ、あぁっ!な、なに、も……んんっ!?ふ、普通よ……っ!」
侑「じゃあきっと、こうやって虐められるために大きくなったんです、ねっ!」
果林「あぁんっ!つ、強いぃっ!いいっ!いいですぅっ!んんぅうっ!も、もっと……くだ、さい……っ!」
侑「わっ。涎もいっぱい。舐め取ってあげますよ。ちゅっ……れぇろ……」
乳首責めをそのままに、口を塞がれる。舌を侑の口に侵入させ、互いの舌を絡ませ合う。
侑「ちょっ……んっ、れぇ…ろ……ちゅっ、がっつき過ぎ、ですよっ!」
果林「んんんっ!」
思い切り乳首をつまみ上げられる。痛いほどの快感によって思わず腰が浮いた。その拍子に、私は軽く達してしまう。
侑「え、まだ乳首だけですよ?どれだけ変態なんですか……」
果林「はぁっ、はぁ、はぁ……すご、い……」
声だけで、侑が呆れているのが分かる。でも、もっともっと快楽を求めるのをやめられない。すでに戻れないところまで来ている。そして私は、戻りたくない。
果林「ゆ、侑……下も、虐めて……」
羞恥に顔から火が出そうだったが、言わずにはいられない。もう乳首だけじゃ足りない。もっともっと、刺激的な場所に触れて欲しい。
侑「……果林さんさぁ、恥ずかしくないの?年下相手に必死に懇願してさぁ」
けれど、侑の反応は冷ややかなものだった。私は焦りを感じた。
果林「え……で、でも……」
侑「そんな姿見たら、エマさんも愛想尽かすよ?全く、エマさんも大変だね」
果林「うぅ……。エマには絶対……見せないで」
エマにだけは、嫌われたくない。ずっとずっと、好きでいて貰いたい。だから私はこの本性を隠し、ずっとずっと我慢しているのだ。本当はもっと……。
果林「……っ」
侑の言葉に、背中が跳ねた。
侑「告白された数は数知れず。断った数も数知れず。でも、クールビューティな朝香果林を守るため、エマさんのパートナーである朝香果林を守るため、ずっと断り続けてきたんだよね」
果林「……それは」
侑「──本当は好意を持たれた人全員からぐちゃぐちゃに犯されたい癖に」
果林「──っ!」
その言葉は……本当だった。
私は気高くも高潔でも無い。好きになって貰えたら嬉しいし、その好意に応えたい。そして、私の体の疼きを解消して貰いたい。
私の本質とは、不特定多数の人から犯して貰いたい願望を持つ変態だ。
侑「恥ずかしいね、果林さん。こんな姿見られたら、どれだけの人が落胆するだろうね」
果林「そ、それは嫌……っ。壊されたいけど、壊されたくないっ」
私のペルソナを粉々に打ち砕いて欲しい。でも、そんなことをしまえば……。
侑「大丈夫だよ。私だけは、そんな果林さんを、受け入れられる。そんな果林さんを、愛してあげられる」
果林「あ……」
目隠しで見えないが、今私は抱きしめられている。先ほどまで乱暴にされていたとは考えられるほど、優しく慈愛に満ちた抱擁だった。
そうなのね……。侑の前では、どんな私でいてもいいのね……。
侑「だから、ね、果林さん……」
果林「侑……」
優し気な声音と共に、髪を撫でられる。
侑「今はいっぱい乱れなよ!!」
果林「っ!?ぁあっ!?」
その言葉と共に、股に手が触れられ、膣内へと指が入れられた。私の膣内は侑の指を抵抗無く受け入れ、離さんばかりに膣内が締まった。
侑「大好きだよ、果林さんっ!んっ、ちゅっ、んんぅう……」
同時に口内も責められる。今度は侑の舌が私の口内へと侵入する番だった。歯茎、口蓋、奥歯など、全てを舐め尽くされる。侑の甘い唾液も相まって、私の興奮は限界以上に高められつつあった。
果林「んっ、んんんぅっ、あっ、はっ、はぁんっ!ん、ちゅっ、ん、れぇろ……んっ、ぁっ、あぁんっ!」
余った手で乳首もこねくり回される。上も下も、真ん中も、全てが気持ちいい。媚薬の効果も相まって、快楽しか考えられなくなっていく。
果林「ああっ!すきっ!きもちいいっ!侑っ、すきっすきっすきぃっ!も、もっとっ!んんっ!あぁああっ!?んんんぅううっ!」
侑「あっは。果林さん今、すごい綺麗な顔してるよ!その顔のままイっちゃえ!イけ!イけっ!!」
拘束された体を限界まで弓なりにしならせ、私は感じたことのない暴力的な快楽を流し込まれた。腰が何度もビクビクと痙攣し、口からは絶頂の叫びが爆発する。
視界は閉ざされているというのに、火花めいたものが何度も出現しては消える。絶頂が終わりを迎えようとした瞬間、温かい液体が股から流れ始めた。
侑「わおっ。漏らしちゃった。これは後片付けが大変そうだ……」
果林「はぁっ、はぁ……。き、気持ちよかった……」
漏らした羞恥を感じる暇も無く、私は荒い息遣いで絶頂の余韻に浸ることしかできなかった。
媚薬の効果もあったとはいえ、今までの人生の中で最も気持ちよかった。今日この日の瞬間の為に、生まれてきたと言っても過言ではない。
侑「はい、それじゃあ拘束を解くね。よいよい、っと……」
果林「えぇ……んんっ」
ソファと壁に付いた拘束具が外れていく。性感帯では無いというのに、拘束具が外れる感覚で快感を得てしまう。今の私は全身で快楽を得ることができるらしい。
果林「じゃあ、目隠しも……」
両手両足が解放されたので、目隠しを取ろうとした瞬間、侑に手を押さえられた。
侑「何してるんですか?まだ終わってませんよ」
果林「え……」
暗い視界のまま、私は声を漏らす。
侑「ほら、ソファの上で四つん這いになってください。あ、肘は付かないでくださいね」
果林「え、えぇ……」
私は目隠しを外さず、言われた通りに四つん這いになった。侑がどこに立っているか明確には分からないが、この体勢だと股の穴が強調されてしまう。
侑「よ~しっ。それじゃ、指の後は色んなおもちゃで遊んでいきますからね」
ガサゴソと、何かを漁る声が聞こえた。色んなおもちゃ……?どうやらまだ序盤も序盤であったらしい。
侑「気持ちよくても肘を突いちゃだめですからね。肘を突いちゃったらきつ~いお仕置きが待ってますから、覚悟してくださいね」
果林「お仕置き……」
お仕置き。脳が震えんばかりに反応する。と、ここで、侑が耳のすぐ傍にまで来たことが分かった。
侑「わざと肘を突いちゃっても……いいですよ。変態さん」
果林「~~っ!」
囁くように言われ、全身に鳥肌が立った。自然と、私の笑みはより深くなり、期待が胸の中で膨らんだ。
果林「……えぇ。悪いけれど、肘は絶対に突かないわ」
侑「へぇ……?強気ですね」
果林「だから……」
侑「はい」
果林「肘を突いた時は、もっともっと……強くお仕置きしてください……っ!」
侑「……あはっ。これは、変態さんを取り下げなきゃいけないかな……」
そして侑はもう一度耳の傍にまで接近し。
侑「ね、ド変態さんっ」
そう、嗜虐的な声音で呟いた。
果林さんを虐めに虐め抜き、適度に優しく接するエ●チは終わった。昔から狙っていた獲物を捕らえた後のようで、私は満足感に浸っていた。
帰り道、意味もなくステップしたり、くるくると回ったりしてしまう。嗚呼、なんて世界は楽しいんだろう。
歩夢「こんばんは、侑ちゃん」
人気のない道を歩いていると、唐突に歩夢が出現した。
侑「わっ……。歩夢ってば、本当に神出鬼没だよね。心臓止まっちゃうよ」
歩夢「ふふっ。ごめんね。それで、今回は果林さんだったんだ」
侑「うんっ。前から調理したかった相手だし、今日は達成感がすごいよ。ほら見て、まだ手がぷるぷるしてる」
充実感と満足感、そして達成感、この三つが渾然一体となり、私の手は震えていた。歩夢はその手を自然に握り、何事も無かったかのように歩き出した。
歩夢「ほら、こうすれば震えないでしょ」
侑「も~、興奮度合いを見て欲しかっただけなのにぃ。なんか反応は無いの~?ぶーぶーっ」
歩夢「はいはい」
歩夢は適当にいなした。何というか、浮気初期と比べると、ずいぶん肝が据わったような気がする。
歩夢「ちなみに……侑ちゃんは心配とかしてないの?」
徐に、歩夢はそんなことを口にした。私の頭の上に疑問符が浮かんだ。
侑「心配?どういうこと?」
歩夢「私は侑ちゃんの浮気を許してるけど、璃奈ちゃんとか果林さんとかは違うでしょ?他の娘にバレたら怖いなぁ、とか考えてないの?って話」
そう言いながら、歩夢はスクールバッグを片手でごそごそと漁っていた。スマホでも探しているんだろうか。
侑「う~ん、まぁ、大丈夫でしょ。璃奈ちゃんは口が固いだろうし、果林さんに関しては自分にマイナスになるだけだろうし……」
今思えば、そういうことはあまり考えていなかった。考えることを放棄していたわけでは無い。単純に、心配するより先に体が動いていた。それだけだ。
歩夢「ふ~ん。じゃあ一つ聞くけど、私が他の娘に浮気したらどうする?」
バッグの中で目当ての物を探し当てたのか、手が止まった。
私は歩夢の質問に対し、間髪入れずに答えた。
侑「どうもしないよ」
歩夢「え……」
歩夢の足が止まる。手を繋いでいるので、私の足も当然止まる。
歩夢「どうもしないって……。私が浮気しても、興味なんて無いってこと……?」
血の気の引いた顔が見える。どうやら勘違いしているらしい。
侑「そんなわけないじゃん。そもそも質問自体が無意味なわけ。歩夢が浮気をするわけないじゃん」
地球が明日無くなるとしたらどうする?よりも確率が低い質問だ。確率がゼロの質問など、解答する意味が無い。
歩夢「……愚問だったね。変な質問しちゃってごめんね」
ほっと、歩夢は息を吐いていた。どうしてそんな質問をしたんだろうか。
歩夢「でも侑ちゃん。もし、仮に、本当に……私が浮気をしたらどうするの?」
侑「えぇ……?答えなきゃだめ?それ」
歩夢「うん。答えないと嫌いになっちゃうよ?」
侑「……」
やや緊張感のある空気が流れだす。まぁ、ここで私が意固地になって答えなくとも、歩夢が私を嫌いになることなんて万が一にもあり得ないんだけど。
侑「う~ん。ちょっと待ってね。考えたことも無いからさ、時間が少し必要……」
顎に手をやり、瞼を閉じて黙考する。
歩夢が他の人とキスをする光景、エ●チする様子を妄想してみる。また、浮気に至る動機なんかも考えてみる。万に一つもあり得ないが、そうせざるを得ない状況、理由……。
侑「……おぇっ」
吐き気がした。吐瀉物をぶちまけ、今考えたことを全部吐き出したかった。涙腺から涙が分泌される。
歩夢「大丈夫?侑ちゃん……。ごめんね、変な想像させちゃったね」
背中をさする感覚があった。撫でる動作一つ一つに私に対する愛情を感じた。やっぱり……こんな歩夢が浮気をするなんて考えられない。けれど、もしそうなったとしたら……。
侑「もし……歩夢が浮気をしたら……」
歩夢「うん……」
侑「歩夢を殺しちゃうかもしれない」
歩夢「……」
誰かの手に渡った瞬間、私は歩夢の愛情を信じられなくなる。だから、殺して誰の手にも渡らせなくさせる。
自分の下した結論に背筋が冷えつつ、歩夢の顔を見た。そして、ぎょっとした。
能面。歩夢の顔は能面を張り付けたように無表情だった。
歩夢「ふ~ん……。じゃあ、私が侑ちゃんを刺し殺す権利もあるわけだよね?」
侑「え……」
感情が一切感じられない声音で呟いた後、歩夢はスクールバッグから何かを取り出した。それは正に一瞬の出来事であり、全く反応できなかった。
全てがスローモーションのように見える世界の中で、歩夢は手に持ったそれを、私のお腹へと勢いよく押し当てた。
それは、包丁だった。
侑「……ぁ」
刺された。思わず私は後退した。全身が凍えるような気持ちになりながら、患部に手を当てて止血をした。
パニックになりながら歩夢を見ると、薄ら笑いを浮かべていた。
侑「な……んで……」
脂汗がこめかみを流れながら、私は震える唇で疑問を口にした。
歩夢「何でも何も、侑ちゃんが自分で言ったことだよ?浮気したら殺しちゃうかもしれないって」
歩夢は私から視線を外し、包丁の刃を指でなぞっていた。一切血液が付着していない包丁を。
侑「え……」
患部を確認する。すると、押し当てられた鈍痛はあれど、血の類は一切流れていなかった。
歩夢「ふふっ。驚いた?まだ刃付けしてない包丁だから切れないんだ」
愉快そうに歩夢は語っていた。その言葉に、私は何も言えずに黙ってしまう。
歩夢「──侑ちゃんはね、そういうことをしてるんだよ?」
侑「あ……」
私は……そういうことをしている。恋人から、刺されかねないことをしている。その事実に、包丁を当てられてようやく気付いた。
侑「歩夢……私……」
歩夢「大丈夫だよ、侑ちゃん」
謝罪の言葉を口にしようと思ったが、それは遮られた。
歩夢「私は侑ちゃんの浮気を認めてるから。気にしないで自分のやりたいようにやっていいんだよ?」
侑「歩夢……」
ニコニコと、明るい表情をしていた。この場には似つかわしくないほどに。
歩夢「侑ちゃんの一番は私なんでしょ?だったら、最後には私の元に帰ってくるし、その後はずっと永遠に一緒にいられるから大丈夫だよ」
最後……?その後……?にこやかに微笑む歩夢の真意が分からなかった。
私は歩夢が浮気をすれば、それを許さなかった。でも、歩夢は私が浮気をしても、それを許した。一体歩夢は、何を考えているのだろうか。
でも、もはやそんなことはどうでもよかった。
私が歩夢を愛する以上に、歩夢は私のことを愛してくれている。それ故の結論であると、分かったからだ。
裏切る予定なんて露ほども無いけれど、益々裏切れなくなったし、歩夢のことが好きになった。
侑「うん……。私はこれからも浮気はするけど、歩夢が一番なのは間違いないよ。それだけは物理法則が変わったって、あり得ないことだよ」
歩夢「うんっ!大好きだよっ!侑ちゃんっ」
侑「……私も大好きだよ、歩夢」
私たちは、もう一度手を繋いで家路を歩いた。この手は何度も離れるかもしれない。けれど、何度だって固く繋ぎ直すことができる。
でも、包丁を当てられた場所が、どうも疼いた。熱を帯び、痛みを主張してくる。
私はそれを、歩夢からの愛だと思って忘れることにした。
薄暗い台所で、私は包丁を研いでいた。刃先を確認してみると、照明が反射して鋭さが窺えた。こんなものでいいだろう。
台所の照明を落とし、自室へと戻る。鍵を閉め、床に大量に敷いたタオルの上へと座った。その後、上半身に身に着けていた衣服全てを脱ぎ、少し遠くへと置く。
丸めたタオルを口に挟み、よく研がれた包丁を逆向きに両手で握った。
歩夢「ふーっ……ふーっ……」
特に激しい動きをしたわけでもないのに脂汗が滲む。息遣いが荒くなり、脳内が警笛を上げている。やめろ、やめろ、やめろ、と。
でも、これを成功させれば、私と侑ちゃんの安寧は約束されたようなものだ。短期間ではあったものの、相応の努力を重ねた。代償に払った物も多い。
侑ちゃんとの時間。スクールアイドルにかける時間。夢を追う為の時間。それらを全て代償に払ったのだ。きっと、上手くいく。
唾液で丸めたタオルが湿ってきた。もうずいぶん時間が経過しているらしい。
覚悟を決めろ。上原歩夢。これを乗り切れば、甘く優しい世界は間近だ。
歩夢「……っ!」
逆向きに握った包丁を、自らの腹部へと深く突き刺した。
Case4:中須かすみの過ち
同好会の雰囲気が変だ、と明確に意識し始めたのは極々最近の話だ。思えば数か月前からその兆候はあった。侑先輩とやけに艶めかしい視線を送るようになったせつ菜先輩とか、りな子と作曲の相談ということで一緒にいる時間が増えた侑先輩とか。果林先輩に限って言えば、公然と侑先輩の頬にキスをしていた。
同好会の歪みの中心にいたのは侑先輩だった。私はその場面を見る度に心がざわつき、かぶりを振って頭から追い出す努力をした。
そうして数か月。同好会メンバーが全員部室に揃う日の方が珍しくなった。ソロアイドルという特性上、全体練習をする方が珍しかったのだが、部室に揃わない日なんて数か月前は考えられなかった。
ライブの回数も目に見えて少なくなり、険悪なムードになることも珍しくなかった。真面目にスクールアイドルに向き合えという派閥、今はそんなことよりも優先したいことがあるという派閥。後者にいたのは主にりな子と果林先輩。
喧嘩……とまではいかない小競り合いであったけど、そのせいで余計に時間は消費され、悪循環に陥っていた。歩夢先輩なんて風邪をこじらせたのか、一か月以上学園に来ていない。面会謝絶をしており、侑先輩でさえ立ち入れないそうだ。
私としず子と彼方先輩、そして侑先輩は仲裁役だった。私たち三人ではどうしようも無いことでも、なぜか侑先輩が間に入れば落ち着いた。歪みの中心にいるのも侑先輩であり、それを正すのも侑先輩だった。
何かがおかしい。そう感じてはいても、その場凌ぎはできている。だから詳しくは追及しなかった。逆に、仲裁している人に難癖を付ける方がおかしいだろう。それに、歪みの中心にいるのが侑先輩だなんて、それも私が勝手に決めつけた勘に過ぎない。
でも……同好会は、空中分解寸前だった。いつ、誰が抜けたとしてもおかしくは無い。そんな最悪な状況だった。
だからこそ、私は一つの計画を考えた。名付けて『プリティキュート・リフレイン大作戦』だ。
作戦の概要は、私がプリティキュートな最高に可愛いライブをする。それを見た同好会のみんなは、スクールアイドルの魅力を改めて知る。そうしてモチベーションを上げて、元の同好会に元通り、という作戦だ。
そのために、練習に鬼のように打ち込んだ。見てくれる人が誰もいなくても、同好会のみんなが励ましてくれなくても、私は努力した。いや……しず子だけは、私の彼女であるしず子だけは、「一緒に頑張ろうね」と言ってくれたっけ……。
まぁ、そういう日々を重ね、私は遂に振り付けを完成させた。これまでの振り付けとは一線を画すほどに難易度の高い振り付けだったけど、私は完成させた。肉離れ、捻挫を起こすこともあったし、怪我が原因で発熱することもあった。それでも、私は完成させた。
願いはただ一つ、元の同好会に戻って欲しかったから。その一心が、遂に結実したのだ。
私はこの振り付けをまず、侑先輩に見て欲しかった。空中分解寸前で済んでいるのは、仲裁役として有能だった侑先輩のおかげだ。だからこそ、同好会を復活させる狼煙は、侑先輩を始めとしたかった。
加えて言えば……努力の成果を最初に見て貰いたかったのが、侑先輩だったからだ。
私が一番好きだった、でも、歩夢先輩に取られてしまった侑先輩に。
すごいねって、可愛いねって、褒めて貰いたかったから。
──しず子では無く、侑先輩に見て欲しかった。
その日は、振り付けを完成させた興奮と、明日ようやく褒めて貰えるという期待でなかなか寝付けなかった。睡眠不足で折角完成した振り付けを十全に踊れないのは嫌だったので、気合いで何とか意識を落とした。
登校中も、授業中も、昼食を食べている間も全部全部、侑先輩に見せることだけを第一に考えていた。
昼休み中、一緒に食べていたしず子が何かを言っていた気がしたが、正直覚えていない。
そして遂に、待ちに待った放課後がやってきた。期待と不安、一握りで足りないほどの恋心を胸に、部室のドアに手をかけた。
侑先輩は恐らくいる。歩夢先輩が病気をこじらせている間は、同好会の出席率が高かった。だからきっと……。
生唾を一つ飲み込み、ドアを少しだけ開け、隙間から中を覗き見る。
せつ菜「侑さんっ!今日は私と過ごしますよね?」
璃奈「せつ菜さん、我がまま。侑さんに先約があるのは私」
果林「璃奈ちゃん、愛が呼んでいたわよ?」
璃奈「知ってる。でも関係ない。LINEに既読を付けなければ、知らないも同然。それに、それはエマさんも同じ」
果林「ぐっ……。い、いえ。パートナーだからと言って、常にくっついていなきゃいけないルールなんて無いわ」
璃奈「じゃあ私が愛さんと過ごす理由も無いはず」
せつ菜「お二人は恋人と過ごせばいいじゃないですか!侑さんは歩夢さんがいなくて寂しいはずです!私が一番適任なのは間違いありません!」
璃奈「……水掛け論に押し問答。ここは三人平等に折れて、三人平等に分け合うべき」
果林「……まぁ、仕方が無いわね。不服だけれど」
せつ菜「それはそれで楽しそうです!」
侑「あはは……」
侑先輩は困ったように頬を掻いていた。でも、笑っていた。嫌では無いらしい。
その光景を見て、胸に鉄球が付いたように重くなった。
一体、何を浮かれていたんだろう。必死で努力していたことが馬鹿みたいに思えた。
私は何のために血の滲むような努力をした?同好会を復活させるため?初めはそうだったかもしれない。でも、今はどうだろう。本当に同好会を復活させようとだなんて、本気でそう思ってる?
私が今一番願っているのは、完成した振り付けを侑先輩に見せて、撫でて貰って、褒めて貰って……あの場所に行くことだ。
それに気付いてしまい、私の心はとうの昔に同好会から離れていってしまったと感じた。
好きだった同好会は既に終わっていて、仲裁をしたところで私にはどうにもできなくて、ただただ無力を痛感させられるだけだった。
復活させるなんて自分に吐いた嘘。
気付かない内に、私の心は折れていたんだ。
侑「──じゃ、今日は璃奈ちゃん家に……って、かすみちゃん。どうしたの?」
かすみ「……っ」
気付けば、目の前に侑先輩がいた。何も事情を知らない、きょとんとした顔だ。呑気に欠伸が出るくらい平和な顔付きで、私の抱える苦悩なんて一切知らない表情。
そして、私が大好きな人の顔だった。
かすみ「なんでも……ありませんっ」
侑「あっ……。どうしたんだろう……」
私はそこから逃げた。ダンスの為に鍛えた脚力が如何なく発揮され、侑先輩の視界から消えることなんて簡単だった。期待していたこととは真逆の方向に活かされ、余計に虚しさを感じてしまう。
そうして無我夢中で辿り着いた先は、学園裏のじめじめとした場所。遠くの方で運動部の掛け声が聞こえた。
膝を抱え、一人孤独に鼻を啜っていた。
もう、戻れない。楽しかった同好会の日々には。もう帰れない。楽しかった部室に。
私が悲しみに打ちひしがれて何分、いや何時間過ぎた頃だろう。誰も来ないはずのこの場所に、足音が聞こえた。
足音の本人は私を見つけたのか、足音が速くなる。私の元へと駆け寄ったのだろう。
荒い息遣いが聞こえる。もしかして、私を見つけるために方々を走り回ったのだろうか。
しずく「はぁ、はぁ……やっと見つけた……」
ゆっくりと顔を上げると、そこにはしず子の必死な顔があった。膝に手を突き、息を切らせていた。
かすみ「しず子……」
私は、その後何も言えなかった。当然だ。何も言える言葉なんて無い。すでに心が同好会から離れたなんて言えるわけない。しず子より侑先輩に完成した振り付けを見せに行ったなんてもっと言えるわけない。
でも、そんな私の肩に優しく手が置かれた。
しずく「……帰ろう?」
しず子は、そう言って微笑んだ。
かすみ「……うん」
その後、しず子から差し出された手を取り、ちゃんと靴を履き直して学園を出た。帰り道、相変わらず何も言えなかったけど、その分しず子が喋ってくれた。新鮮な話はごく僅かだったけど、少しだけ居心地が良かった。
私の乗る電車の駅に差し掛かった時、しず子は私の腕を掴んだ。
しずく「今日……私の家でお泊りしない?」
その提案を、私は受け入れた。
私はかすみさんを連れ立ってスーパーに寄った後、鎌倉の自宅へと帰った。スーパーに寄ったのは夕食の買い出しに行くためだ。
理由は分からないけれど、落ち込むかすみさんを独りにはできなかった。だからせめてもの気分転換にと思い、一緒に料理をしようと考えた。作り慣れたコッペパンであれば、幾分か気持ちは晴れるのではないだろうか。
自宅に到着し、早速夕食を作り始めた。正直夕食にコッペパンってどうなの?という気持ちはあったものの、今はかすみさんの気を晴らす方が先だ。
出来上がったコッペパンの出来は、私が見た中ではピカイチだった。工夫に工夫を重ね、凝りに凝りを重ねた出来栄えだった。鬱屈とした気持ちが溜まっていたのだろう。それを全てコッペパンにぶつけた、って感じの出来だった。
味も申し分無く、思いつく限りの言葉を駆使してかすみさんを全力で褒めた。褒めているのに凄い剣幕であったからだろうか、かすみさんはようやく小さく笑った。
かすみ「あはは……。しず子、褒めすぎだよ!それじゃあ逆に嘘っぽく聞こえる」
笑みを零した後、瞼から涙が一筋流れていた。私はそれを、見ないフリをした。
コッペパンを食べて満腹になった後は、お風呂へと向かった。かすみさんの着替えは私の部屋に常備してあるのでパジャマに関しては問題がいらない。流石にリンスやシャンプー、化粧水や乳液は私の物だが、入浴後に仄かに香るかすみさんの匂いが好きだった。
同じ物を使っているはずなのに、かすみさんから香る匂いは私と同じでは無い。何となく、そこに愛しさを覚えてしまう。
体を洗い終わった後、私とかすみさんは二人一緒に湯船に入っていた。入ってすぐ、かすみさんは口を開いた。
かすみ「……しず子、ちょっといい?」
しずく「うん。いいよ」
かすみ「ちょっとさ、話し辛い内容だから……後ろ向いたままでいい?」
しずく「……うん」
かすみさんは後ろを向いた。一点も汚れが見当たらない白磁の肌をした背中が映る。後ろから抱きしめたくなる衝動に駆られたが、理性で何とか抑え込んだ。
かすみ「えっと……。今日、さ……。私、おかしかったでしょ?」
しずく「……まぁ。いつものかすみさんらしくないな、とは思ったよ」
かすみ「あはは。だよね……」
天井から湯気によって発生した雫が一つ落ちた。一滴、二滴、数滴と、無言の時間が暫し流れた。
かすみ「……侑先輩に、りな子、せつ菜先輩、果林先輩がくっついてて……。なんか、頭がぐちゃぐちゃになっちゃって……」
しずく「……そうなんだ」
何となく、問題の原因は分かっていた。恐らく、侑先輩絡みのことだろうな、と。かすみさんのその言葉に、私も少し……動揺した。
侑先輩に、他の人が……。
……うぅん。だめ。今はかすみさんの言うことに集中しないと。だって、私はかすみさんの恋人なんだから。
かすみ「なんかさ、同好会にいるの……嫌になっちゃって……」
しずく「そっか……。嫌になっちゃったんだね」
かすみ「うん……。あんなに好きだったのに。あそこが私の居場所だって思ってたのに。息が詰まって呼吸ができない……。そんな場所になっちゃった……。あはは……」
かすみさんは力無く笑ったような気がした。表情は見えない。けれど、涙を流しているような気がした。
でも、最近の同好会は歪んでいる。恋仲になった人たちが多くいるからだろうか、不和がそこかしこで見られた。それでライブも練習も何もかもが滞っている。
それでも、かすみさんはスクールアイドルを信じていた。一度は廃部の憂き目にあった同好会だけど、復活したのだから。そのスクールアイドルの底力を、魅力を、信じて練習を重ねていた。
でも、私は逃げてしまった。同好会では無い、もう一つの居場所である演劇部に。同好会に行って喧嘩の仲裁などには参加していた。でも、私ではなしのつぶてだった。いくら時間が経過しても悪化の一途を辿る同好会に対し、私は見切りを付けてしまっていた。
『どうせ私になんてできっこない』と、半ば諦めながらの仲裁が多くなった。やっている感だけだった。でも、かすみさんはそれでも抗った、諦めなかった。
そんな時、仲裁に入って上手く事を収めた侑先輩に対し、慕情が強くなったとしてもそれは自然だろう。元々好きだったのだから、さもありなんといった次第だ。
私のかすみさんの恋人の地位とは、所詮は失恋という傷口に上手く入り込んだ結果なんだろう。未だにかすみさんの心には侑先輩がいて、そこに私が入り込む隙なんて蟻一匹ほども無い。
でも、それでも、私はかすみさんの恋人なのだ。早々に同好会に見切りを付けていても、仲裁を半ば諦めながらやっていたとしても、落ち込むかすみさんを元気付けられるのは、元気付けるべきなのは、恋人である桜坂しずくの役目なのだ。
何よりも、私がそうしたいと思っているのだ。
しずく「じゃあ、さ……かすみさん」
かすみ「うん……」
次に言うべき言葉は決まっている。ここ一か月くらいずっと、喉元まで出かけていた言葉だ。でも、勇気が出なかった。これを言ってしまえば本当に終わってしまうと思ったから。
でも、言うべきなんだ。苦しんでいるかすみさんを解放できる言葉は、これしか無いのだから。
風呂場だと言うのに口がカラカラに渇き切っている。一度唇を噛んでから、その言葉を口にした。
しずく「──一緒に、同好会辞めちゃおうよ」
かすみ「……え」
しずく「かすみさんは頑張ったよ。あんな痴情のもつれだらけの同好会なのに、歯を食いしばってみんなを元に戻そうと頑張った。でも……もう無理なんだよ」
かすみ「……」
しずく「ここらが潮時なんだよ。それに……これ以上頑張って傷つくかすみさんを……私は見たくないよ……」
無意識の内に、かすみさんを後ろから抱きしめた。いつもは頼もしい背中が、ずっとずっと小さく感じた。
しずく「……誰も責めはしないよ。むしろ、よく頑張ったね、って慰めてくれる人ばかりだと思う。それに……」
この言葉を口にすべきだろうか。いや、迷っている暇はない。言うしか無いんだ。
しずく「私たちはソロアイドルだから、同好会の枠に居続ける必要なんて、無いんだよ」
それがかすみさんにとって、一番大切な居場所であったとしても。
かすみ「……っ」
抱きしめた腕から震えが伝わる。葛藤しているのだろう。同好会を続けて苦しみ続ける暗中模索の道を進むのか、同好会を辞めて手に入る平穏安寧の道を進むのか。
ここで辞めてしまえば、かすみさんのこれまでの努力は全て水の泡になるかもしれない。同好会存続の為に働き続けた末路がこれだなんて、あまりに哀し過ぎる。
でも、引き際を誤ってしまえば、かすみさんは心身ともに壊れてしまう。だから誰かが……引導を渡さなければならないのだ。たとえ恨まれ、嫌われたとしても。
かすみ「で、でも……っ」
しゃっくりと鼻声交じりの声だった。爆発しそうな感情を抑え、小さな穴から絞り切るような声でもあった。
かすみ「でも、まだ……まだあそこには……っ」
しずく「……」
かすみ「……ごめんしず子。もう少しだけ、考えさせて」
しずく「……うん」
かすみさんの口からは、同好会を辞める旨の言葉は聞けなかった。
まだあそこには。その後に続く言葉は何だったのだろうか。簡単だ。かすみさんの恋人ではない、想い人の名前だろう。
かすみさんにとって私は、同好会を辞める理由になり得ない。
今はただ、それだけが深く、胸に突き刺さった。
陰鬱とした雰囲気に逆戻りし、最悪の空気のまま就寝の時間となった。
かすみ「今日は……一人で……うぅん、一緒に寝よ?しず子」
しずく「……うん」
その言葉は私への贖罪から来るものだろうか。本当は一人で寝たいに違いない。でも、かすみさんは優しいから、その選択を選ばない。
そしてかすみさんは気付かない。選んだその選択こそ、より私の心を抉るということに。
私たちはベッドに入る。体の距離は拳一個分くらいしか開いていない。でも、たった数センチの距離が、私には果てしなく遠く感じられた。
しずく「かすみさん……」
私に背を向けて寝るかすみさんに抱き着いた。私と同じ髪の匂い、そしてかすみさんの匂いが仄かに香る。拳一個分の距離は縮まった。でも、物理的な距離は縮まっても、心の距離は遠いままだった。
もっともっと、この距離を縮めたい。
体の距離だけじゃない。心をもっと近くに感じたい。
自然と、かすみさんの衣服の中に手が入った時。
かすみ「ごめん、しず子。今日も……」
しずく「あ……。ごめんね。私ってば自分勝手で……」
私は手を引いた。すぐに最悪な選択肢を選んだことを後悔した。自分の欲望を優先し、かすみさんの気持ちを一切顧みていなかった。
最悪だ、私。
かすみ「うぅん。しず子は悪くないよ……。悪いのは全部、煮え切らなくて、諦めが悪くて、未練を捨てきれない私が悪い」
無感情にそう吐き捨てた。自罰的な台詞に胸が痛んだ。
しずく「そんなことないよ……。それは全部、かすみさんの長所だよ……」
かすみ「……ごめんしず子。おやすみ」
私の慰めの言葉など、無力だった。
抱き着く腕を解き、私も背を向けて瞼を閉じた。
もう、どうすればいいのだろう。私とかすみさんは、ずっとすれ違ってる。恋人になったあの日から。
私とかすみさんが恋人になったのは、歩夢さんが侑先輩に告白した次の日。心の隙間に上手く入り込み、同じ日に体を重ねた。
私とかすみさんの肉体関係は、その日一日だけ。それ以来、私たちは性交に及んでいない。
なんだかそれは、一日だけの過ちと突きつけられているようで、ずっと苦しかった。
私たちって、本当に恋人なんだよね、かすみさん。
もしかして、かすみさんにとっての救いって、同好会を辞めることじゃなくて、私との恋人関係を解消することだったりするのかな。
そんなこと言えるはずも無く、私たちは孤独に二人眠った。
翌朝、私はしず子に黙って家を出た。書き置きで『今日使う教科書家に忘れたから帰るね』とだけ残したのはせめてもの言い訳だった。
私としず子は恋人だ。告白されたのは私。受け入れたのも私。私には嫌なら拒否する権利があった。でも、拒否しなかった。
当時の私は情緒不安定な状態だった。大好きな侑先輩を幼馴染の歩夢先輩に取られ、世界の終わりを告げられた以上に絶望していた。いや、絶望という表現は正しくない。
全部全部、我先に行動しなかった私のせいだ。好意を自覚しておきながら、自分自身を騙して気持ちに蓋をしていた。そんな自分に、激しい自己嫌悪を感じ、自責の念を覚えた。暗い気持ちに押し潰されそうだった。
全ての感情が手遅れだった。処置のしようが無い大きな傷。
その傷を埋めてくれたのが、しず子だった。傷心の私に告白してくれて、その日にしず子を抱いた。乱暴で、気遣いなんて一切無い交わりだった。性欲をぶつけたというより、憂さ晴らしのセ●クスだった。
行為後はより酷い自己嫌悪に陥ったが、しず子はそれでも『ありがとう』と口にしていた。それで私は今さら気づいた。
侑先輩が取られてショックを受けているのは、私だけじゃないんだって。
つまり、この関係は最初から歪なのだ。傷を舐め合うためだけの恋人関係という歪な関係。
でも、しず子にとって私は、ただ傷を舐め合うだけの存在では無かった。私にもしっかり、好意を抱いていたのだ。そこが私とは違う決定的な差。
勿論私にとってしず子は大切な親友だ。それは間違いない。でも、抱く感情は恋人のそれでは無い。
だから、しず子と体を重ねたのはあの日の一度だけだった。憂さ晴らしをする為だけに抱いた一回きり。罪悪感、申し訳ない気持ちが去来した。
だからこそ、私はしず子を好きになる努力をしている。悲しみに暮れた時、すぐ傍で寄り添ってくれるしず子は人間的にも、親友的にも、恋人的にもよくできた人間だ。そうした点をたくさん見つけ、積み重ねていけば、いずれしず子のことが好きになれる。そう思ったから。
でも、私が好きになる努力をすればするほど、とある言葉が耳に囁かれた。
好きになる努力ほど、虚しいものは無いんじゃない?
胸の内から沸いた自分の声を、必死で掻き消した。私のしていることは間違っていない。間違ってはいないはずなんだ。
かすみ「……はぁ。後でしず子にはちゃんと謝らないと……」
鬱屈とした気持ちを抱えながら、学園の廊下を歩く。
今日一日の記憶はぼんやりとしか覚えていない。授業は上の空、食欲が沸かなかったので朝・昼と共に抜いている。だから余計に朧気だった。
そんな放課後、廊下を歩いている途中、とあることに気付いた。
かすみ「活動報告書……。すっかり忘れてた……」
活動報告書。それは各部活・同好会の部長が提出を義務付けられている書類だ。私はスクールアイドル同好会の部長として、どんな活動をして、どんな実績を上げたのか生徒会に提出しなければならない。
退部か、継続か、その狭間で揺れていたとしても、活動報告書は提出しなければならない書類だ。
かすみ「……まぁ、活動を振り返るっていうのも、自分の気持ちに整理がつくいい機会かも……」
そんなことを考えながら、私は生徒会室へと足を向けた。書類は生徒会室にあり、放課後に受け取る手筈だったはず。
部室に行く勇気も無く、意味も無く学園を徘徊していたので、時刻は夕方を過ぎている。もう生徒会室は閉まっているかもしれないが、それでも行かなければならない。
生徒会室前に到着した。生徒会室のドアはやや重厚な作りの為、外から中の音は聞こえない。
聞こえない、はずなのだ。
かすみ「なに、この声……」
断続的に小さく聞こえる悲鳴とも取れる声。それが、ドア越しに小さく聞こえる。鼻歌でも歌えば掻き消されるほどの小さな声だが、私の耳にはハッキリと聞こえた。
生唾を一つ飲み込んだ後、ドアに耳を当てた。
「──やっ、あぅっ……す…き……あっ、あっ……」
かすみ「せつ菜、先輩……?」
頭の中で幾つもの材料が一手に繋がり、最悪の想像が頭に出来上がった。
そんなはずはない。せつ菜先輩が喘いでいるはずは無いし、その相手があの人な訳ない。だってあの人は歩夢先輩と……。
かすみ「……」
ドアの取っ手に手を掛ける。片手では震えて上手く掴めなかったので、片方の手を使って震えを止めた。
中で何が起こっていようと、絶対に私だと気づかれてはいけない。息が小さく速くなるのを感じながら、ゆっくりとドアを開けた。
菜々「あぁっ、ゆ、侑さんっ、すきっ、好きですっ!もっと、もっとしてくださいっ!侑さんっ侑さんっ!」
侑「可愛いよ菜々ちゃんっ。私も大好きだよっ!」
その光景は、私の想像した最悪だった。
せつ菜先輩は侑先輩と向き合うように抱き合っていた。侑先輩がせつ菜先輩の乳首を責め、時折愛おしそうに頬を撫でている。その仕草は初めてのように思えなかった。恐らく何度も何度も体を重ね合っているのだろうと、容易に想像できた。
そして、私はそこから逃げた。まるで昨日のリバイバルだ。人生の中で最大の最悪が連日更新されていく。
かすみ「……っ」
瞼から大粒の涙が出た。何度腕で拭っても、壊れたように止まってくれない。止まれ、止まれ、止まれ。何度願っても、涙は止まらなかった。
この涙の理由が何かなんて分からない。
せつ菜先輩が羨ましかった?侑先輩が浮気をするような人でショックを受けた?本当は、歩夢先輩じゃなくてせつ菜先輩が本命?
色々な理由が交錯しては、頭の中で肯定、否定が飛び交う。思考を止めたくても止められない、制御できない。そんな気持ちが涙となって溢れているのだと、そう感じた。
幸いだったのは、放課後の中でも時間帯が遅かったこと。人の気配が無く、私は全力で悲哀を抱えながら走り抜けることができた。
そうしていつの間にか、私は部室にいた。
考えてここに来たわけじゃない。ここに来たのはきっと……ここが私にとって、かけがえのない居場所だったから。泣くのも笑うのも全部、ここから生まれた。
もう、そういう場所では無いというのに。
そのまま、時間を忘れて泣き腫らした。
そんな時、部室のドアが開く音がした。涙も底を尽きた頃だった。目線をそちらにやると、黒い影がいた。すでに夕方を過ぎていたため、誰か判別がつかない。
でもこんな時、私の傍に寄り添ってくれるのは……。
かすみ「しず子……?」
縋るような声音でその名前を呼んだ。
璃奈「かすみちゃん……?なんでこんな遅い時間に……?」
でも、そこにいたのはしず子ではなく、りな子だった。
璃奈「まあ、一息つきなよ」
かすみ「……うん。ありがとりな子」
鼻を鳴らしながら、かすみちゃんは私の差し出した紅茶を受け取った。彼方さんの見様見真似で淹れた紅茶だけど、味は悪くないはず。
くぴくぴと喉を鳴らして飲んだ後、かすみちゃんは深く息を吐いた。目を見ると真っ赤に腫れていた。ずいぶんと泣き腫らしていたらしい。
かすみ「それで……ずびっ、りな子はなんでここに?」
璃奈「私は単純に忘れ物があったから。かすみちゃんは?」
かすみ「……言いたくない」
璃奈「そっか……」
まあ、ただならぬことがあったのは事実だろう。そうでなければ、ここまで泣き腫らさない。私は忘れ物をバッグに詰めながら、ここからどうしようか頭を抱えた。
放っておくわけにもいかないし、無理やり問い質すのも違うだろう。嗚呼、侑さんならどうしただろう……。
……。こういう時、いつもは愛さんに頼りたくなるんだけどな。
かすみ「ねぇりな子……」
璃奈「……なに?」
少し思案に耽っていると、徐にかすみちゃんが口を開いた。考えるだけ無駄なことは頭の片隅に押しやる。
かすみ「りな子から見て、せつ菜先輩と侑先輩ってどんな感じ……?」
璃奈「せつ菜さんと侑さん?それは……」
侑さんにとっての浮気相手、だなんて言えない。
私はとうの昔に、侑さんが私以外の人と浮気をしていることを知っている。それは私が侑さんと浮気をすれば当然の成り行きであった。
なぜなら、侑さんと体を重ねれば重ねるほど、私は侑さんのことが大好きになっていき、より多くの時間を共に過ごしたいと考えるようになったからだ。そうなれば自然と侑さんを追いかける時間も多くなり、その結果、せつ菜さんとの情事を見つけるのは時間の問題だった。余談だが、果林さんと侑さんの関係も同様の成り行きで知った。
でもそんなこと、かすみちゃんに言えるわけがない。私は勿論、せつ菜さんも果林さんも、浮気の事実を隠しているのだから。
あれ、でも待って。かすみちゃんが泣き腫らしている理由。こうして質問している経緯。それを考えると、かすみちゃんは既にせつ菜さんと侑さんの関係を知っている?
かすみ「ねぇ、りな子……。ちゃんと答えてよ」
侑さんが浮気をしていると知って、泣く理由とは?
璃奈「あっ……」
点と点が結ばれた。かすみちゃんも、侑さんと浮気をしてるんだ。そして、自分だけと浮気をしていると思ったら、せつ菜さんとの情事を目の当たりにしてしまった。自分だけが特別ではないと知ってしまい、かすみちゃんは泣いたんだ。
なんだ。私と同じ穴の狢じゃないか。かすみちゃんは上手く隠し通せていたらしい。
私に聞いたのは、せつ菜さんと侑さん二人の関係について、その確度を上げるためだろう。かすみちゃんの気持ちは、痛い程分かる。私も、侑さんのことが好きになればなるほど、他の人と同様の関係を結んでいることにショックを受けた。
だから、事実をしっかりと言ってあげることが、せめてもの親切のはずだ。
璃奈「──悲しいけど、せつ菜さんと侑さんは浮気してる」
かすみ「そう、なんだ……やっぱり……」
顔に影が落ちる。泣き腫らした瞼に、もう一度涙が浮かんでいた。
窺うような目線だった。聞きたいけれど、聞きたくない。そんなアンビバレンツな感情を感じた。
璃奈「うん。私も侑さんと浮気してる。追加で言えば、果林さんもだよ」
かすみ「……うそ。そんな……」
目線が床へと落ちた。私も、そして果林さんも、というのは大きなショックだったらしい。私はもう気持ちの整理がついたけれど、侑さんは色々と危ない橋を渡っていると、改めて思った。
璃奈「……侑さんは自分のときめきに正直なだけなんだよ。私はそう思ったらちょっとだけ楽になった」
かすみちゃんの隣に座った。横から伏せた顔を覗くと、自らの親指の爪を強く噛んでいた。顔は悲しみというより、張り詰めた必死な顔付きになっており、少し恐怖を感じる。
かすみ「ときめきに正直にだけって……それじゃあ私には……ときめかなかった、ってこと……?」
璃奈「うん……?」
かすみ「わたっ、私は……っ。そんな、手を出すまでもないって……。浮気する価値も無いって……そんな、そんな風に……っ」
かすみちゃんの膝が激しく揺れ、親指の爪の奥から血が滲み始めていた。
おかしい。この反応は、自分だけが特別だと思っていたとか、そんなことじゃない。もっと質の悪い、悪感情が支配している時の反応だ。
璃奈「か、かすみちゃん。血が出てるっ。だめっ」
何か選択を誤った。そう本能が確信した。かすみちゃんの噛んでいる方の腕を掴み、なんとかそれをやめさせようと試みた。でも、どうにもできないほど、かすみちゃんは力んでいた。
かすみ「あぁ~……あぁっ、なんで、なんで……っ。私のこと、可愛いって言ってくれたのに……っ。大好きって言ってくれたのに……っ。なんで私だけ、なんでなんでなんで……っ」
目が血走り、喋りながら立てた歯は指に突き刺さっていた。痛々しい光景に目を覆いたくなる。でも、私しか止められる人はいない。
璃奈「かすみちゃんっ!!だめっ!!やめてっ!!」
人生の中で一番叫んだんじゃないか、って思うくらいの声量が出た。すると、かすみちゃんの震えが止まった。
ゆっくりと首が回り始め、私と視線が交差した。涙を流しながら目を血走らせ、一切の瞬きをしない瞳は強い恐怖を覚えた。全身の肌が粟立ち、思わず後ずさりしてしまう。でも、このソファは二人掛けであり、すぐさま後退できる限界が来た。
かすみ「ねぇ……りな子は自分から侑先輩を誘ったの……?」
璃奈「ひっ……」
凄い力で押し倒された。かすみちゃんの表情は狂気に染まっており、瞼から落ちた涙のしずくが私の頬へと垂れた。
かすみ「ねぇっ!聞いてんじゃんっ!早く答えてよ!!」
璃奈「ち、違うっ。侑さんから私に……強引に……迫られて……」
口ごもりながら言うと、かすみちゃんは薄く笑った。依然、瞼から涙を流しながら。
かすみ「……そう、なんだ。侑先輩は、りな子のことが好きだったんだね……」
璃奈「……?」
分からない。質問された内容は分かるが、その意図が不明だった。どうして今その質問をしたのだろうか。
そんな疑問を他所に、顔のすぐ横に拳が叩きつけられた。
かすみ「なんで、なんでなんでなんで……。なんでりな子だけ……。いや、りな子だけじゃないっ!せつ菜先輩も!果林先輩も!みんな侑先輩が誘ったんだ!侑先輩はみんなのことが……っ!私以外好きだったんだっ!」
どんっどんっ、と何度も拳が横切る。その度に私は小さく悲鳴を漏らす。狂気一色に染まるかすみちゃんに対し、私は抗う気力が無かった。
かすみ「ああっもうっ!!全部嘘だったんだっ!私に可愛いって言ってくれたこともっ!大好きだよっ!って言ってくれたことも!同好会の中でただ私だけが……っ!侑先輩から好意を持たれてなかったんだっ!あああああああああああっ!!」
そのまま、かすみちゃんは意味のある言葉と、意味のない絶叫を繰り返していた。時折笑ったり、大粒の涙を振りまいたり、その行動に一貫性は存在しなかった。
そんな言葉をずっと聞いていて、私の中で一つの仮説が生まれた。
もしかして、かすみちゃんは……。
璃奈「……かすみちゃんは、侑さんと浮気してないの?」
ぴたっ、と、先ほどと同様に、かすみちゃんの動きが止まった。私の仮説は、的を射ていたらしい。
それと同時に、私の犯した過ちの大きさに気付いた。
かすみ「……そうだよ。してないよ。私は……っ!私だけがっ!手を出されてない!見向きもされなかった!侑先輩にとって私は……っ!そんな、魅力がゼロの存在だったんだよっ!ねぇっ!笑いたいんでしょ!?笑えばいいじゃんっ!可愛いとか、大好きとか、そういう言葉を信じてたピエ●だってさっ!ほらっ!笑いなよりな子!!!!」
その顔は……もう狂気を宿していなかった。深い深い……深遠な悲哀を含んでいた。
恐らく、かすみちゃんは侑さんのことが大好きだったんだ。それも、恋愛的に。加えて言うならば、私のように後から好きになったわけでは無く、最初から好きだったんだ。
それなのに、かすみちゃんは侑さんから手を出されなかった。その事実が、かすみちゃんを狂わせたんだ。
私はそんなかすみちゃんを、気の毒に感じた。かすみちゃんの立場なら、心情なら、それは地獄のように感じるだろう。だから、返答は一つだった。
璃奈「笑えるわけ……ないよ」
かすみ「……っ」
その返答にもう一度だけ、かすみちゃんは力なくソファに拳を振り下ろした。
その通話の後、私は着の身着のまま自宅を飛び出した。通話の相手は璃奈さんだった。そしてかすみさんとの間に起こった顛末、その全てを聞いた。
侑先輩が複数人と浮気をしていること。璃奈さんもその一人であること。その事実をかすみさんに誤って教えてしまったこと。
そして、かすみさんは侑先輩から手を出されなかったことに対し、深く傷ついていること。そういう通話だった。
逸る気持ちを押さえながら電車に乗り、虹ヶ咲学園を目指した。部屋着の格好を通行人に怪しまれはしたけれど、補導されるほどではないし、そんなことを気にしてはいられなかった。
私はただ必死に、かすみさんの傍にいてあげたかった。
なんで私は……一番傍にいなきゃいけない時に、かすみさんの傍にいられなかったんだ。
それがせめてもの、かすみさんへの贖罪なのではないか。
侑先輩と歩夢先輩が付き合ったことを知り、私はかすみさんへ告白した。それは心が砕け散りそうな自分の心を守るための、傲慢で自分本位で歪な告白だった。
だからせめて、かすみさんには償いの一環として、傍に居続けなければならない。
でも私は……それを守れなかった。
その事実に深い自己嫌悪に陥ったが、今は自分を責めている場合じゃない。一刻も早く、かすみさんの元へ駆けつけること。これが第一だ。
私は守衛さんに見つからないよう、学園内に侵入した。同好会の部室へと一直線に走り出す。
息も絶え絶えで、汗が体中から流れる中、なんとか部室前に到着した。一切の逡巡なく、ドアを開けた。
璃奈「あ、しずくちゃ──」
しずく「かすみさんっ!!」
項垂れるかすみさんを見つけた。酷く憔悴していて、生気を感じない様子だった。それでも、私の声に鈍く反応し、顔を上げた。
かすみ「しず子……」
その顔を見た瞬間、大きく動揺してしまう。
しずく「……っ。かすみさん、辛かったよね。苦しかったよね。でも、大丈夫だよ。私はずっと傍にいるから……っ!」
こんな薄っぺらい言葉ではかすみさんには響かない。そうは分かっていても、言わずにはいられなかった。
かすみさんを強く抱きしめる。小さく、それでいて壊れそうなほど儚い感触だった。
かすみ「はは……。ねぇ、しず子……」
しずく「なに……?かすみさん」
こうして強く抱きしめておかないと、かすみさんはどこかへ行ってしまいそうだった。それほど呟いた声は弱々しかった。
かすみ「私って……可愛い?」
そしてその言葉は、今まで聞いた中で一番弱々しかった。死の間際に告げるような、全てを諦め放棄したような、そんな声音だった。
だからこそ、私は強く言い切らなければならない。かすみさんをこちらに引き戻すために。
しずく「うんっ!かすみさんは可愛いよ!同好会で一番可愛いっ!日本だって、世界を見渡したって、かすみさん以上に可愛い女の子なんていないよ!」
かすみ「……。しず子は?しず子自身は……どう思うの?」
力なく肩を押され、抱擁が緩む。再びかすみさんの顔を見ると、泣き笑いというか、自嘲気に笑うような、そんな表情だった。
しずく「私はかすみさんこと、可愛いって思うよ。かすみさんが笑えば私も楽しい。かすみさんが泣けば私も悲しい。かすみさんは可愛いだけじゃなくて、私を勇気づけてくれたみたいに、頼もしくて、カッコいい……私の大好きな人なんだよ……?」
かすみ「……ふぅん」
でも、私の大好きな気持ちは、かすみさんの胸を打たなかったらしい。
かすみ「そっか。そうなんだ」
しずく「……うん。可愛くて、カッコいい……。それが私の大好きな、かすみさんだよ……?」
かすみ「……」
そうして数秒間、沈黙が流れた。そして、その空白を打ち破ったのは、かすみさんだった。
かすみ「……あははっ。ねぇしず子、おかしいよね」
かすみさんは力なく、けれど愉快に笑った。不気味に感じるが、それでも傍を離れたくなかった。離れちゃいけないって思った。
しずく「なにが、おかしいの……?」
かすみ「だってさ、可愛いって言われても、大好きって言われても、な~んにも嬉しくないんだもん」
しずく「……っ」
瞳の奥を見た。そこに宿した色は、悲哀でも激怒でも無く、無だった。空っぽの闇だけが、かすみさんの瞳にあった。
かすみ「なんでか分かる?しず子」
そんな空虚な双眸が、私の瞳を射貫いた。
しずく「わ、分からないよ……そんなの」
私の頭は、その答えを勝手に考えていた。でも、考えたくなかった、聞きたくなかった。だから思考を打ち切った。
でも、その言葉は告げられてしまう。
かすみ「──私が可愛いって、好きだって、そう言って欲しいのがしず子じゃないからだよ」
しずく「──」
璃奈「かすみちゃんっ!!それは言っちゃ──」
真っ白になった。頭の中、視界。感じること、見ること、考えること。全てに空白が生まれた。
でもそれが、かすみさんにとっての真実だった。
終わった。
何もかもが全部、終わった。
同好会は私の居場所では無いし、しず子も今日の一件で私に愛想を尽くしただろう。
居場所も無ければ、味方もいない。
だから私は、独りぼっちで暗い道を歩いている。
言ってはいけない言葉を吐き、私はしず子を置いて学園を出ていた。一歩歩くと、侑先輩が私に対し興味も何も持ってくれなかったことを思い出して悲嘆に暮れる。もう一歩歩くと、しず子に対しての後悔の念が波濤のように押し寄せる。
かすみ「もう、死んじゃおっかな……」
ぽつりと吐いた言葉。心の底から出た言葉だった。
かすみ「死んじゃえば、こんな苦しまなくていいよね」
死ぬのは一瞬。でも、今の苦しみはいつまで続くか分からない。それなら、楽な道を選ぶ方がいいのかもしれない。
かすみ「はは……死~ぬ。死~ぬっ。死んじゃえば、ぜ~んぶ軽くなる~」
死ぬ選択肢が輪郭を持つと、なんだか心が軽くなった。考えが後ろ向きに明るくなる。
それじゃあまずは、死ぬために色々準備しないとなぁ……。できれば痛くない方がいいし、一瞬で眠るように死にたいなぁ……。
自殺の方法を考える。すると思考の靄が晴れる感覚があった。過去への後悔ではなく、未来を考えるようになったからだろうか。
かすみ「首吊り……は嫌だなぁ。可愛くないし。あ、お花に囲まれて死ぬ方法なんてあるんだ……」
スマホを取り出して調べ始める。はじめはこころの相談ダイヤルや、自殺を防止する団体のページがヒットしたが、少し検索を変えればいくらでも自殺の方法は出てきた。
そんな中の一つに、目が留まった。
どうせ死ぬなら、やりたいことやってから死ぬべき。
かすみ「……」
やりたいこと、かぁ……。お小遣い全部使って超高級コッペパンを作る?送る相手もいないのに?欲しかった服を大人買いしちゃう?着る人が死んじゃうのに?
悩んでいると、一つだけやりたいことが思い浮かんだ。
かすみ「……侑先輩に、どこが気に入らなかったのか聞こうかな」
手を出されなかった。浮気する価値も無かった。それは分かった。でも、じゃあなんで?その疑問を解消せずして冥途に逝けるだろうか。
いいや、逝けない。
今際の際の心残りを見つけ、侑先輩の家へと向かい始めた。
インターフォンを押す。どこにでもあるような電子音が鳴った。少し待つと、ドアが開いた。
侑「どちらさま……って、かすみちゃん?どうしたの?」
ドアの隙間から侑先輩の顔が見える。私だと分かると、ドアに掛かったチェーンを外してくれた。
かすみ「……ちょっと、聞きたいことがあって。中に入ってもいいですか?」
侑「……うん。いいよ。今日はお母さんもお父さんもいないからさ、どうぞ入って」
かすみ「ありがとうございます」
ただならぬ気配を察したのか、簡単に家に入ることができた。手を洗った後、リビングの椅子に座った。机を挟んで対面に、侑先輩が座る。
侑「それで……どうしたの?」
かすみ「えと……」
いっそ死ぬなら、私に手を出さない理由を聞く。決断は楽だった。でも、いざとなったら日和ってしまった。
喉の奥が酷く乾く。私は出されたお茶を一気に飲み干した。けれど、変なところに入ったのか、思わず咳をしてしまう。
かすみ「げほっ、げほっ……す、すみま……げほっ」
侑「まあまあ。焦んないで。何を言いに来たのか分かんないけど、時間はたっぷりあるからさ」
侑先輩は椅子から立ち上がり私の背中をさすった。その声、その仕草、一挙手一投足に優しさを感じる。
嗚呼、やっぱり私は、侑先輩のことが好きだなぁ……。
そう思うと、悲しみより怒りの感情が沸々と出てきた。
私はこんなにも可愛いのに、可愛いって言ってくれたのに、どうして手を出してくれなかったんだ。その気持ちが口をついて出る。
かすみ「侑先輩は、私に手をだしてくれないんですか……?」
侑「……え」
さする手の動きが止まる。止まったというより、凍った、と表現する方が正しいかもしれない。
かすみ「りな子、せつ菜先輩、果林先輩。この三人と浮気してるんですよね?もしかして他の人とも──」
侑「え、ちょ、えぇ?」
かすみ「……浮気、してるんですよね?歩夢先輩がいるのに」
糾弾の台詞がスラスラと出てくる。今まで閉じ込めていたからだろうか。行き場を求めて言葉が溢れ出る。
侑「……うん。浮気してるよ。歩夢公認でね」
かすみ「……え」
今度は私が困る番だった。浮気をしている。それは歩夢先輩公認だって?
あの嫉妬深く、侑先輩のことが大好きな歩夢先輩が……?
侑「私さ、自分のときめきに正直になることにしたんだ。好きな人は歩夢以外にもいて、そういう人と、愛し合いたかった」
ときめきに正直?そう言えばそんなことを、りな子も言っていたような。
侑「だってさ、考えてもみなよ。好き同士なのに、愛し合えないだなんて寂しいとは思わない?」
かすみ「……いや、でも、それは……」
常人の感覚じゃない。道徳という言葉を知っているんだろうか。
侑「一人と付き合えば、他の人とは愛し合えない。好きな気持ちに蓋をしたまま、一人の人を愛し続ける。私としては、逆に不健全だと思うんだよね」
かすみ「不健全て……」
侑「だってさ、考えてもみなよ。告白から始まる恋愛なんて、早い者勝ちでしょ?今回は歩夢がたまたま先だっただけ。でももし、先にかすみちゃんから告白されていれば……?」
かすみ「え……」
歩夢先輩じゃなく、私が先に侑先輩に告白していたら?
そう考えた時は幾らでもあった。その度に、私は深く後悔した。なんでもっと、自分の気持ちに素直にならなかったのか、と。
でもその想像に、意味は無い。だって、もう遅いんだから。
侑「かすみちゃんから先に告白されていたら、私はかすみちゃんと付き合ってたよ」
かすみ「──」
耳を疑う台詞だった。もし私が先なら、私と付き合っていた……?
侑先輩は、私に興味なんて無いはず。浮気性なのに、私に手を出してこなかった。それが何よりの証左じゃないか。
侑「嘘じゃないよ。本当のこと。私はかすみちゃんのことも好きだった。だから私とかすみちゃんが付き合う別の世界もあったんだよ」
私のことも、好きだった……?そんなの、信じられるわけない。でも、これは慰めの言葉で言っているわけでは無い。だから余計に、現実味を帯び始める。
侑「そう考えるとさ、寂しいし、悲しいじゃん。告白が先か後で愛し合える選択肢が消えるだなんてさ。そうは思わない?」
かすみ「あ……」
その言葉に、私は俯いてしまう。私は侑先輩と付き合えなかったから、こうして死にたいほど苦しんでいる。ただ、後か先か、それだけの話なのに。
侑「──だからね、好き同士なら、浮気をしてでも愛し合うべきだと私は思う」
かすみ「……っ」
それが、侑先輩の行動理念。浮気を自ら正当化する本音。
侑先輩とは、こういう人なんだって、今ここに来て理解した。
理解はした。じゃあそれなら、と、私の心が叫びたがっていた。
かすみ「じゃあそれなら、どうして私に手を出してくれなかったんですか!?」
語気が荒くなる。好き同士なら、浮気をしてでも愛し合うべき。私のことが好きなら、真っ先に手を出すべきではないのか。
好きというのも、先に告白されていれば付き合っただの、それらは全て嘘八百なのではないだろうか。
侑「あはは……。実はね、かすみちゃん達はメインディッシュに取っておいたんだよ」
かすみ「め、メインディッシュ……っ!?」
侑「それにちょっと前にね、浮気が原因で刺されたことがあってさ、新たに人を増やすことに抵抗を感じちゃって……。えへへ」
かすみ「え、えぇっ!?さ、刺されたぁ!?えへへじゃないですよ!!」
侑「ぐうの音も出ないよ」
頭が混乱する情報の数々だったが、一応理解はできた。でも、メインディッシュという点については納得できずにいた。
かすみ「なんで私がメインディッシュなんですか……?」
侑「簡単だよ。歩夢以外で考えたら、かすみちゃんが一番私のことが大好きでしょ?それに、しずくちゃんっていう恋人がいるからね」
かすみ「……っ」
ぼふんっと、頭から湯気が出そうだった。私の好意は正確に、ストレートに、侑先輩に伝わっていたらしい。
でも、なぜしず子が必要だったんだろう。好き同士に恋人の有無は関係ないはずだ。
侑「私さ、どうも略奪愛が好きらしくてね。人の持ってる物が羨ましくなっちゃうらしいんだ」
恋人の有無は、大切なファクターだったらしい。くだらなく、それでいて質が悪すぎる理由だった。
かすみ「……最低ですね」
侑「あはは……。これまたぐうの音も出ないよ。でも、それが私なんだからしょうがないよね」
かすみ「……開き直られても、困るんですけど」
侑「あはは……」
こうして悪態をつくが、私の頭は喜びを感じてしまっていた。
それなら……私に手を出してくださいよ、という期待。
でも、そう思った瞬間、一つの記憶が思い起こされる。それは、ついさっきの出来事。しず子に酷い台詞を吐き、深く傷つけてしまったこと。
あの時しず子は、赤ん坊みたいに泣いていた。恥も外聞なんて関係なく、ただ感情の赴くままに泣いていた。
私は勘違いで、しず子を泣かせてしまったのだ。
矢庭に、椅子から立ち上がる。
かすみ「……行かなきゃ」
有頂天だった気持ちはどこへやら。私の胸には使命感が芽生えていた。もう許して貰えないかもしれないけど、しず子に謝らないと。
侑「かすみちゃん?どうしたの?」
でも、何のために。今さら謝って私はどうなりたいんだ。しず子に謝罪をして、許して貰えたとして、それで何が残るのだろう。
これは、私の罪悪感を消す為の我がままなのかもしれない。しず子への申し訳ない気持ちよりも、自分の罪を清算したいという気持ちの方が大きい。
なんて自分勝手なのだろうか、私は……。
もう戻れないなんて、とうの昔に知っていたはずなのに。私は……手遅れになってから、謝りたいって気付くんだ。
何もかもが遅かった。戻れない位置にまで来てから、私は自らの本心に気付く。愚かで馬鹿で、どうしようもない滓みたいな存在。
そんなどうしようも無い存在だからこそ、私はしず子へと抱く本当の気持ちに、今さらになって気付いてしまうのだ。
嗚呼、なんだ……。私、しず子と恋人で居続けたかったんじゃないか。好きかどうかなんて関係ない。始まりが歪だったかなんて関係ない。
同好会が私の居場所であったように、しず子の隣も、私の居場所だったんじゃないか。
私が悲しみに暮れている時、真っ先に駆けつけてくれて涙を拭ってくれる。どうしようもなく落ち込んでいても、大丈夫だよって元気づけてくれる。
私以上に私を想ってくれる人を、私は失ってしまったんだ。
かすみ「うっ、うぅ……。あっ、ぁああああああああ……っ」
消えた居場所は一つだけじゃなかった。私は同時に、二つの居場所を失ったのだ。
悲しむ資格なんて私にありはしない。でも、涙はとめどなく溢れ出る。
侑「かすみちゃん……」
両手で顔を覆っていると、温かな感覚があった。知っているようで、知らない感覚。
私は侑先輩に、抱きしめられていた。
本来なら、その手を払いのけるべきなのだろう。でも、私は払いのけられなかった。なぜなら、温かったから。
寄る辺の一切を失った私にとって、侑先輩は最後の拠り所なのだ。
侑先輩にしがみつき、胸に顔を押し付けた。
かすみ「ゆ、侑、せんぱ、い……あぁぁあああああ……っ!」
侑「……」
私は泣いた。今日だけで何リットルもの涙を流しているのだろうか。学園のプールなら満杯にできるくらい泣いた気がした。
私はきっと、この後すぐ侑先輩と浮気をするんだろうな、って思った。私はそういう弱い人間だから。私はそういう最低な人間だから。
でも、侑先輩も最低な人間だ。知らず知らずの内に同好会を荒らしまわった元凶なのだ。だから、最低な人間同士、体を重ねられる。
そして一つ、私は気付いたことがある。
最低な人間同士でも、人肌は温かく、安心するんだなって。
ひとしきり泣き終わった後、侑先輩の部屋へと場所を移動した。灯りは最低限の光量に抑えられており、薄っすらと互いの輪郭だけが分かった。
侑「じゃあ、膝の上、座って」
かすみ「……はい」
侑先輩は勉強机の椅子に座り、その上へと私が収まった。ドキドキと心臓が高鳴ってうるさかったが、それ以上に期待でいっぱいだった。
かすみ「重くないですか……?」
侑「平気だよ。かすみちゃん軽いし、むしろちょっと心配なくらい」
かすみ「そうですか?なら、よかったです」
侑「それにしても……」
かすみ「ひぅ……」
侑先輩の手が頬に触れる。冷たいわけでもないのに、ちょっと体が跳ねた。
侑「やっぱり可愛いね、かすみちゃん」
満面の笑みを向けられる。頭が沸騰しそうなくらい熱くなる。この表情は……ちょっと見られたくない。
侑「あ、だめだよ。顔隠さないで」
かすみ「だ、だめですっ。今絶対変な顔……あっ」
必死になって顔を隠していると、手が髪飾りに触れた。それは、しず子に貰った満月と三日月のヘアピンだった。
かすみ「……ごめんなさい。ちょっと取りますね、これ」
既婚者が指輪を外すように、私はヘアピンを外そうと手を掛けた。でも、その手は侑先輩の手によって阻止される。
かすみ「侑先輩……?」
侑「私、一番可愛いかすみちゃんと、エ●チしたいなぁ……」
かすみ「……っ」
悪意なんて微塵も感じない、無邪気な提案だった。
かすみ「……知ってますよね。これ、しず子から貰ったヘアピンだって」
侑「もちろん。貰ったその日、色んな人に自慢して回ってたよね。忘れるわけないよ」
かすみ「じゃあ、私がこれを外す意味だって……」
侑「そりゃあね、分かるよ。でも、それを付けているかすみちゃんが一番可愛いし、一番大好きなんだ」
かすみ「……っ。侑先輩って、こんな酷い人だったんですね」
侑「あはは。幻滅したかな?」
かすみ「いえ……。親近感が増しただけです」
私はヘアピンから手を下ろした。よく考えれば、今さらの話だ。ヘアピンを外そうと、付けたままだろうと、私が浮気をする事実は変わらない。罪悪感を薄れさせるために行う、最低な行為だった。
侑「……ふふっ。影のある顔も素敵だよ。もっと見せて」
かすみ「……はい。いくらでも見てください。私も侑先輩の顔、穴が開くくらい見てやりますから」
すると、視線が交差した。大好きな侑先輩の顔。見ているだけで胸が高鳴り、そちらへと駆け寄りたくなる顔。
大好きな侑先輩の唇。紡がれる言葉は、いつも私を元気づけてくれるし、肯定してくれる。そして、ずっとずっと、触れたかったところ。
自然と指は唇に伸び、人差し指で軽く触れた。リップクリームだけなのに、艶やかで柔らかな弾力が返ってきた。
かすみ「……よく、ないです」
侑「そう?じゃあ、どうしたい?」
かすみ「いじわるです……。ちょっとくらい、かすみんに優しくしてくれてもいいじゃないですか」
侑「あ、かすみちゃんのかすみん、久々に聞いた気がする」
かすみ「え、そうですか?」
言われて気付く。そう言えば、最近は心のゆとりがあまり無かったから、おどけることもできなかった──
かすみ「んむっ!?」
と、思考を巡らせていたから、唇を奪われたことに気付かなかった。
かすみ「んっ、ちゅっ……んむっ、んっ、んっ、はっ、んぅうむ……っ」
強引だったけれど、乱暴なキスでは無かった。ビックリしたのは最初だけ。それからは優しく、そして気遣うようなキスだった。強張っていた体も、自然と解れていく感覚があった。
嗚呼、幸せだ。私はずっとずっと、この感触を、この場面を、求めていた。
何度頭の中で描いたか分からない、叶うはずが無かったワンシーン。それが今、正に目の前で現実となっている。
私は手を侑先輩の首に回し、より体を密着させた。
かすみ「ちゅっ、れぇろ……んっ、ちゅっ、ぇろ…っ、んんぅ……、すき、です……んっ、んっ、すきっ、だいす、き、です……」
私が上に乗っているので、舌を入れるのは私の役目だろうと感じた。だから思い切って口を割って、中へと入れていく。
熱い。それでいて、甘い。
侑先輩の舌に触れた。感じたことの無いぬるぬるとした感触だった。
かすみ「んんっ!?んっ、ぁあっ、んっ、えろ……んっ、んんぅっ!も、もっと、んっ、もっと……してください……」
舌を軽く吸われ、激しく舌を攻めたてられた。それが凄く気持ちよく、私はさらなる刺激をねだった。
かすみ「す、き……です。んっ、れぇろ……んっ、ちゅっ、ちゅぅ……だい、すき、です……ゆう、しぇんぱい……んぅ……」
けれど、激しさはなりを潜め、甘く絡み合うようなキスに変更される。緩急が巧みだった。きっと、このテクニックで色んな娘を手籠めに……。
侑「──かすみちゃん。今は私にだけ集中して」
かすみ「……っ。は、はい」
舌を伝って心でも読まれているのだろうか。それほど、侑先輩の読みは冴えていた。
でも、そう言った時の真剣な眼差しが……とてもカッコよかった。
私はきっと、これから何度も侑先輩に恋するんだろうなって、そう思った。
ひとしきりキスを堪能した後、侑先輩の薦めでベッドへと移動した。その時、腰が砕けて倒れそうになったところを支えて貰った。この仕草一つだけで、私の目はハートになっていたんだろうなって思う。
ベッドの上にタオルを敷いて、その少し後ろに座った。脱いだのは下半身の下着だけ。いくら照明が抑えられているとは言っても、まだ全てをさらけ出すのは恥ずかしかった。
侑「……そう言えば、一つ確認なんだけど、かすみちゃんって経験あるよね?」
かすみ「あ、はい……。一度だけ、しず子と……」
一度だけ。その言葉に、少しだけ胸が痛くなった。でも、侑先輩は気にしていない様子だった。ありがたい。
侑「ふぅん。でも、下着に糸引くくらい濡れちゃってるじゃん。こっちは準備万端っぽいし心配いらないね」
かすみ「ちょっ、そこはあんまり見ないでください!さすがにデリカシー無いですよ!」
侑「ごめんごめん。でも、私とのキスでこんなに興奮してくれたんだって思ったらさ、ちょっと嬉しくてね」
かすみ「……もぉ。侑先輩って本当に変態ですよ」
侑「あはは。よく言われる」
侑先輩はそのまま私の体の横に移動した。どうやら左手でするらしい。
かすみ「あれ……侑先輩って左利きじゃ……んっ」
侑「へへ。左手でも前戯ができるように日々練習してるんだ。今では右手より巧く動くから、努力はするものだよね」
かすみ「んぅっ、そう、なんっ、ですか……ぁっ」
入口の方を軽くなぞられているだけなのに、簡単に体は反応してしまう。こんなの、一人でする時でも経験が無い。好きな人に触られているから?それとも、侑先輩が上手なだけ?
侑「じゃあ余った右手はどうするのか。それはね、ちゅっ」
かすみ「んぁっ、んむっ、ちゅっ……」
右手は私の顎に添えられ、強引にキスをする方向に向けられてしまう。利き手は強引に使う時用らしい。
かすみ「んっ、んっ、ぁあっ!な、なかっ、んっ、れろ、ちゅっ、んんぅ……いれ、ちゃ……んっ、ぁああっ」
指が膣内へと入っていく。誰かの指の感覚は久々で、最初は少し異物感があった。でも、巧みな前戯のおかげで簡単に膣内は解れた。
強く激しい快感の波が襲い、私は少し恐怖してしまった。
侑「大丈夫。全部、受け入れて。んっ……」
かすみ「は、はい……」
その言葉だけで、私は全幅の信頼を置いてしまい、安堵に包まれる。そうなると、快感を受け入れる土壌が完成したのか、次々に容赦ない甘い快感が脳に送り込まれた。
息遣いが荒くなり、お腹の奥の方がビクビクと波打つのが分かった。
かすみ「はっ、はっ、んっ、ちゅっ、んっ、あぁっ!ゆ、ゆうせんぱっ、ぁあんっ!」
何か、感じたことの無い大きな波が来る感覚があった。
ひょっとして……これが、イクってこと?
何かが立ち昇る感覚があり、それが全身を経由して頭に抜けていきそうだった。
かすみ「き、きちゃい、ますっ。イっ、イク……ゆ、ゆうせんぱっ、んぅっ、んっ、んっ、す、すき、です……っ、あっ、あぁっ、イ、イク、イクイク……っ!イっ、ぁああああんっ!!」
脳が揺れるほどの快感だった。これまでに無いほど腰がガクガクと痙攣し、膣内からしずくが漏れた。キスの快感も相まって、長く、深い……絶頂を味わった。
余韻を十分に味わった後、侑先輩の唇が離れた。
かすみ「はっ、はっ、はぁっ……。す、すごい、です……。かすみん、こんな深くイったことなんて……ない、です……」
息が絶え絶えになりながら、感想を漏らした。今まで私が感じていた絶頂全てを置き去りにするような、そんな感覚だった。
本当に好きな人とやるエ●チって、こんなに気持ちいいんだ……。
侑「大丈夫?かすみちゃん」
かすみ「は、はい。まだ……やりたい、ですけど……ちょっと休憩したいかもです……」
侑「そっか。じゃあ、ベッドの上でしばらくイチャイチャしてようよ」
かすみ「あっ……」
侑先輩に軽く押され、添い寝するような体勢になった。少し横を向くと、ちょっとだけ髪の乱れた侑先輩の顔があった。頬が若干赤面しているので、どうやら私同様に興奮しているらしい。
侑「もっともっと、私を味わってもらうからね」
そう言って、ギュっと手を握られた。
かすみ「……はい。お願いします」
私はこの日、侑先輩という味を何度も何度も味わった。でも……味わい尽くせる気がしなかった。
侑「……ん」
スマホの通知音で目が覚めた。瞼を擦りつつスマホに手を伸ばすと、少しだけかすみちゃんに触れた。
かすみ「んん……ゆう、しぇんぱぁい……」
侑「……よしよし」
かすみ「うへへ……」
力の抜けた寝顔だった。エ●チの経験が少なかった中、よく私に付いてこれたものだ。まぁだからこそ、疲労困憊になって熟睡しているんだろうけど。
軽く頭を撫でつつ、スマホを手に取る。通知は歩夢からだった。
歩夢『来週から登校できそうだよ』
侑「お……遂に」
歩夢はここ一か月ほど、学園に来ていなかった。どうやら質の悪い風邪をこじらせたみたいだけど、本当のところどうなんだろう。歩夢は時々突拍子も無い大胆なことをやらかすからなぁ……。
でもまぁ、久々に顔を合わせられるのは嬉しかった。と、ここで、もう一つメッセージが届いた。
歩夢『今晩は、お楽しみだったみたいですね』
侑「……わーお」
壁越しに耳でも立てていたんだろうか。筒抜けになっていたらしい。いや、それともこの時計が原因なんだろうか。
この時計には脈拍を測る機能とか、色々と搭載されているらしいし……。いや、流石に私のバイタルがリアルタイムで歩夢の元へと送られている訳ないか。そんなの見ても何も面白くないしね。
侑『うるさくしてしまってごめんなさい。全快したら歩夢を楽しみたいよ』
歩夢『も~、調子いいんだからっ』
侑「ふふっ……」
そんなやり取りを幾つか交わした後、メッセージのやり取りを終えた。
少し、目が覚めてしまった。眠りに落ちるまで少し時間がかかるだろう。
シーツを体に掛けながら、明日からの土日をどう過ごそうか考える。このままかすみちゃんと二夜連続で過ごしちゃう?それとも普通にお台場で遊ぼうかな?寝返りを静かに打ちながら考えていると、月明かりがキーボードをぼんやりと照らした。
侑「……そう言えば、ずっと弾いてないな、キーボード」
思い返せば、歩夢と付き合い始めてからずっと……キーボードに触れていなかった。学園の授業中に弾く機会はあったけれど、自分から積極的に触りに行くことはほぼゼロになっていた。難しいけれど、少しずつ上達していくのが好きだったのに……。
キーボードも弾かず、スクールアイドルの曲を聴くことも最近はしていなかった。あんなに好きだったのに、同好会に入ってマネージャーをするくらい好きだったのに。
そんなことにも気が付かないほど、恋に、性に、乱れすぎているらしい。好きになったことには周りが見えないほど一直線に走り抜けるのが私だ。今回もまた、そうした悪癖が出てしまっているらしい。ほどほどに控えないと……。
と思いながらもう一度寝返りを打つと、かすみちゃんのヘアピンが目に入った。満月と三日月をモチーフにしたヘアピン。しずくちゃんから貰った大事な品らしい。
侑「……しずくちゃん、か」
もう一度寝返りを打ち、天井を見上げた。
かすみちゃんはしずくちゃんと付き合っている。かすみちゃんは私のことが好きであり、私の見立てでは、恐らくしずくちゃんも私のことが好きだ。
それなら、しずくちゃんにも手を出すのが道理だろう。かすみちゃんは私から手を出されないことに悩んでいたらしいし、もしかすればしずくちゃんも同様の悩みを抱えているかもしれない。それなら、土日にやることは一つだろう。
侑「──しずくちゃんも、手籠めにする」
思い立ったが吉日だ。深夜だが、LINEを送るくらい別にいいだろう。スマホを操作し、考えた文面を送った。
侑『ちょっと話があるんだけどさ、明日私の家に来れる?』
文面は敢えて濁した。直接的に『浮気せえへんか?』なんて言えるわけない。何事も建前が重要なのだ。
ワクワク気分のまま寝入ろうとしたら、スマホが鳴った。どうやらしずくちゃんも起きていたらしい。
しずく『ぜひ。私もお話したいことがあったのでちょうどよかったです』
侑『了解!じゃあ明日!』
しずく『はい。おやすみなさい』
やや事務的とも取れる会話を終え、もう一度瞼を閉じた。
さて、どうしようかな。かすみちゃんを家に帰すか、それとも一緒にいて貰うか。
確実な案を取るなら、かすみちゃんを家に帰して一対一で臨むべきだ。でも、私に対して好意を抱いているんだ。多少強引にやったとしても御することは可能だろう。
それに、恋人のいる前で堂々と浮気宣言をするなんて、ちょっと楽しそうだ。
かすみちゃんとしても、裏で色々とやられるより、現場を実際に見た方がダメージは少ないだろう。
そんなどうしようも無く屑な理論展開をしながら、眠りに就いた。
かすみ『私が可愛いって、好きだって、そう言って欲しいのがしず子じゃないからだよ』
バカ。
かすみ『私が可愛いって、好きだって、そう言って欲しいのがしず子じゃないからだよ』
バカバカ。
かすみ『私が可愛いって、好きだって、そう言って欲しいのがしず子じゃないからだよ』
バカバカバカ。
しずく「かすみさんの……バカ」
璃奈さんの静止も聞かず、私は泣きじゃくりにながら自宅へと戻った。お母さんには驚愕され心配されたが、それを全て振り切って部屋に閉じこもっている。
何かを見ると激しく苛立ったので灯りを点けず、暗い室内で膝を抱えていた。
頭の中で何度もあの光景が思い浮かぶ。心無い一言とは、あのことを言うんだろう。
そして今の感情こそ、慟哭と言っていい。演劇、小説では頻出する単語だが、自ら体験するとは思ってもみなかった。体験なんて、したくなかった。
しずく「……今、何してるのかな」
でも、そんな慟哭の中にいても尚、かすみさんのことを考えてしまう自分がいた。あれほど否定されて、酷い言葉を吐かれても尚、私はかすみさんのことが好きらしい。
そんな、かすみさんのことが好きな私が、必死で擁護しているのだ。
酷い言葉を吐いて無事じゃないのは、私だけじゃないんだよ。優しいかすみさんのことだから、きっと今頃罪悪感に苛まれてるよ、と。
しずく「そんなの、知らない……っ。一番傷ついてるのは私なんだもんっ。どうして私がかすみさんの身を心配しないといけないのっ」
どうして、って。理由は一つしかないでしょ。
しずく「理由ってなにっ」
本当は知ってる癖に。私はあなた。あなたは私なんだから。
しずく「……」
好きって、そういうことなんだよ。嫌いになるくらい酷い言葉を言われても、執着し続ける。好きって、呪いなんだよ。
しずく「……」
それに、私はかすみさんのこと、より好きになってるもんね。
しずく「……っ」
同好会の為に必死になって練習に打ち込むかすみさん。喧嘩の仲裁を諦めずに全力でやってたかすみさん。私は早々に諦めて自己嫌悪に陥ったけど、それと同時に、かすみさんへ強い羨望を抱いたよね。
しずく「……うん。恋人になってから、もっと好きになった。私には無い物を幾つも持っているから。近くにいると、自分との違いで死にたくなるけど、だから好きなの……」
だよね。だからこそ、あんな言葉を吐かれたって、私は嫌いになれない。
しずく「……うん」
それじゃあ、このままじゃダメだよね。
しずく「うん……。このまま、かすみさんとお別れなんて、そんなの嫌っ」
好きなんだから。恋人になれたんだから。どんなに辛くたって、その真っ直ぐな執着心は捨てちゃいけない。
しずく「うん。うん……っ!始まりは歪だったけど、今の私は心の底からかすみさんを愛してる。このままなんて、終わらせられない……っ!」
俯いた顔を上げる。すると、先ほどまで何度もリフレインしていたかすみさんの情景が全て消えた。
覚悟が決まったからだろうか。どんなに嫌われても、興味を持たれなくても、愛し続けるという、強い覚悟を決めたから。
覚悟が決まった矢先、スマホから通知音が鳴った。手に取ると、侑先輩からのメッセージだった。
侑『ちょっと話があるんだけどさ、明日私の家に来れる?』
しずく「……好都合」
自然と、頬が吊り上がった。
翌日、私は侑先輩の家の前にいた。インターフォンを押すと、少ししてドアが開いた。
侑「おはよ~しずくちゃ……っ!?」
しずく「おはようございます侑先輩。どうしました?」
侑「い、いや……。上がってよ」
しずく「はい。お邪魔します」
玄関へと入り靴を脱いだ。その様子を、侑先輩は落ち着かない感じに見ていた。
しずく「どうしました?何か変でしたか?」
侑「い、いや……。服装が真っ黒で何て言うか……。いや、なんでもないよ」
しずく「そうですか」
そう。今日の私の格好は上から下まで全て真っ黒だ。見る人によっては喪服のようにも見えるかもしれない。気合いを入れる為、覚悟を決める為、威嚇をする為等々、色々と気持ちが込められたカラーリングにしている。最初は興が乗って黄色と黒の混色にしようと思ったが、流石に恥ずかしいのでやめた。
何はともあれ、決戦の現場へと来たのだ。今日は色々と、聞きたいことを聞き、鬱憤を晴らさせていただこうと思う。洗面所で手を洗った後、侑先輩の部屋へと入った。
かすみ「あ、しず子……。おはよ」
すると、そこにいたのはかすみさんだった。少々予想外だったので面食らってしまった。昨日の今日なので、少し気まずい。
しずく「おはよう、かすみさん」
でも、そんなことは臆面にも出さずに挨拶をした。私は大女優の卵。これしきの修羅場を乗り越えられずにどうする。
糸をピンと張ったような緊張が部屋に満ちた。私はその中で、口を開く。
しずく「それで、侑先輩。お話とは一体なんですか?」
侑「早速だね。まあ、話って言うのは……しずくちゃんにお願いがあってね」
しずく「お願い、ですか」
侑「うん。まぁね。でもその前に、しずくちゃんは私に聞きたいことがあるんじゃないの?」
にこりと、侑先輩は笑った。場の雰囲気には合っていない、楽観的な顔だった。あくまでもイニシアチブは自分が握っていると確信しているらしい。
それなら、乗ってやろうと思った。軽く息を吸った後、口火を切る。
しずく「えぇ。ではそうしましょうか。昨晩、璃奈さんから聞きました。侑先輩は同好会の方々と浮気をしているそうですね」
まず、情報の裏付けから始める。
侑「あ~……。そう言えば昨日はなあなあになってたけど、璃奈ちゃんから漏れてたんだね。そうだよ。私は浮気してる。それも、歩夢公認でね」
しずく「歩夢さん公認、ですか。それは初めて聞きました」
歩夢さんが公認。耳を疑う情報だ。でも、ここでわざわざ虚偽の情報を伝えるわけは無いだろう。大事なファクターだと感じたので、覚えておくことにした。
しずく「それで浮気をしたのがせつ菜さん、璃奈さん、果林さん、ですね?」
次の裏付けを始めると、その台詞でかすみさんの肩が跳ねた。怪訝に思ったが、すぐにその意味が分かった。
侑「まぁ、概ね合ってるよ。そこにかすみちゃんも加えれば大正解だね」
かすみ「あ、その……はい……」
飄々と言ってのける侑先輩に対し、かすみさんはバツの悪い表情をしていた。
正直、聞いた私が一番衝撃を受けている。でも、ある程度予想はしていたことだ。完全に予想外というわけではない。とはいえ……。
しずく「……いくら何でも、早すぎませんか?侑先輩も、かすみさんも……」
かすみ「だって……もうしず子は私から離れるって思ったから……」
訥々と言葉を濁しながらかすみさんは言った。私が考えられる限り、最悪の選択肢を選んでしまったらしい。
かすみ「い、言ってないけど……。でも、あんなに酷いこと言っちゃったんだもん。しず子だって、私のこと──」
しずく「嫌いになんて、なってないよ。私は昨晩からずっと、かすみさんのことを好きなままだよ」
かすみ「……っ。嘘、そんな、わけ……。そんな、私に都合のいい……」
しずく「嘘じゃないよ。でも、今はまだ待って。今は侑先輩との会話が先」
かすみ「……うん」
何か言いたげに口を開いたが、かすみさんは口を閉じた。そのまま目を伏せ、視線を横にずらした。
そう、今は裏付けだ。私の愛、執着を知ってもらうのはもう少し先だ。自然と拳が硬く握りしめられたが、感情を堪える。
しずく「ちなみに、侑先輩がかすみさんへ手を出した理由は何なんですか?」
侑「ん?手を出した理由?ん~、かすみちゃんのことが好きだったから。それと
しずくちゃんと付き合ってたから、奪いたくなっちゃってね」
しずく「そう、ですか……。よくもまぁ、私の前でいけしゃあしゃあと言えますね」
侑「あはは。少し前に肝が据わる出来事があってね。そのせいかな?」
侑先輩は自らのお腹を軽くさすった。懐妊した、ってわけじゃ無さそうだけど……。
しずく「それじゃあ、かすみさんは侑先輩に嫌われていたとか、興味を持たれていなかったとか、それは勘違いだったってことですね」
侑「あ~、なるほど。手を出されなくて悩んでたって、そういうことだったんだ。全くもぉ。私いつもかすみちゃんに可愛い!大好き!って言ってたのに」
かすみ「……だって、それで手を出されなかったら疑っちゃうじゃないですか」
侑「あはは。可愛い勘違いだね」
その言葉に、こめかみに青筋が浮かんだ気がした。可愛い勘違い?その勘違いのせいで、私とかすみさんは引き裂かれようとしているのに。
出血しそうなほど握りしめられた拳を振るいたくなったが、理性で封じ込めた。
しずく「……では侑先輩、次の質問です」
侑「うん。ここまで来たら何でも答えるよ」
次の質問。それは正に、侑先輩が私を誘ったことに直接起因することだ。昨晩はベッドの上でずっと思考を続け、そして答えが導かれた。
しずく「私をここへ呼んだ理由。それはつまり、私とも浮気をしたいってことですね?」
侑「おぉ、正解、大正解だよしずくちゃん。かすみちゃんとしずくちゃん。二人はメインディッシュだったからね」
かすみ「え……」
侑先輩は愉快に笑って拍手をし、かすみさんは呆然とした表情になっていた。
かすみ「き、今日って、しず子に浮気を告白して、謝るとか、認めて貰うとか、そういう場じゃなかったんですか……?」
認めて貰うって……。かすみさん……。
かすみ「それは、そうです、けど……」
侑「まあまあ。しずくちゃんは始めから、私が浮気に誘うって分かってたみたいだよ」
かすみ「じゃあ、しず子がここにいるってことはつまり……」
私とかすみさんの目が合った。真正面から受け止め、口を開いた。
しずく「私は浮気しませんよ」
侑「ほらね、ここにいるってこ、とは……。え?」
しずく「しませんよ、浮気」
侑先輩は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。全くの予想外だったらしい。
侑「え、えぇ?な、なんで?私のこと、好きなんじゃないの?」
しどろもどろになりながら言葉を紡いでいた。その姿は、はっきり言って滑稽だった。
しずく「……えぇ。好きでしたよ」
過去形。そう、好きだった。以前までは。
しずく「スクールアイドルが好きで、音楽っていう自分の夢を持ちながら、私たちの活動を後押ししてくれる、そんな侑先輩のことが大好きでした。どんな相談でも真剣に考えてくれるから、困ったことがあれば侑先輩に頼るようになっていました。私にとって侑先輩は、憧れであり、恋心を抱く人でした」
これらの言葉は全て本心だ。こういう人だったから、私は侑先輩のことが大好きだった。
しずく「けれど、最近ピアノの練習をしていますか?スクールアイドルに真剣に取り組めていますか?……いませんよね。私の好きな侑先輩は、もう死にました。色欲に溺れ、恋愛にのみときめきを感じるようになった、恋の奴隷でしかありません」
だから、心が痛んだ。大好きだった人が、自らの大好きを忘れた人になってしまったから。
侑「……あ、え……」
しずく「それに、気付いていますか?同好会は今、空中分解寸前なんですよ?」
侑「……え。空中分解?」
しずく「えぇ。昨日、ようやく得心が行きました。侑先輩が浮気をしたせいで、恋人のいる人たちの間で不和が起こるようになったんです」
侑「う、嘘……。だ、だって、私が間に入ったらすぐに解決──」
しずく「当然じゃないですか。浮気してる相手の顔を立てて、その場は身を引いたんですよ、みんな」
侑「……嘘」
しずく「全て、本当です。見たいものしか映さない瞳から見る世界は如何ですか?さぞ美しく、幸福な世界なんでしょうね」
侑先輩は愕然とした表情を浮かべていた。言われたこと全て、信じられない様子だった。だが、これが真実だ。
しずく「早々に見切りをつけた私が言うのもなんですが、私にとって同好会は、大切で大好きな場所でした。かすみさんにとっても、得難い場所であったんです。そんな私たちの居場所を壊した元凶と浮気をするだなんて、本当にそう思いますか?」
侑「あ……」
しずく「浮気をしてさぞがし幸せだったんでしょう。本来なら愛し合えない人と愛し合えるんですから。でも侑先輩の幸福が、私たちの幸福を踏みにじっていったんですよっ!」
激情が体を走り回る。私はその激情に身を委ねた。
しずく「侑先輩の不明、私が正して差し上げますっ!」
侑先輩に一瞬で肉薄した。全体重を乗せて、今まで硬めた拳を思い切りみぞおちへと突き出す。
捻るようにして突き出した拳は、易々とみぞおちの深くまで突き刺さった。侑先輩は腹部を押さえて膝を突いた。
でも、それだけじゃ終わらない。もう一度弓のように弾き絞った拳を思い切り顔面に叩き込んだ。
侑「ぐぁッ!?」
前へと倒れ込んだ体は後ろへとひっくり返る。侑先輩の鼻から鼻血が噴き出し、私の服へと付着した。だが、予定調和だ。そのために、血が目立たない黒の服を着ている。
しずく「……侑先輩、浮気がなんで悪いか知ってますか?」
私の呼びかけに、侑先輩は答えない。上手に呼吸もできていない様子だった。それでも、私は言葉を続けた。
しずく「浮気で幸せになるのは、当の本人だけだからですよ」
その言葉に、涙を浮かべた侑先輩は目を見開いた。ようやく、この簡単な事実に気付いたらしい。
しずく「それに、浮気をする時間があるのなら、私は好きな人と一緒にいたいです。かすみさんの隣に、ずっといたいんです」
侑先輩には侑先輩の恋愛哲学があるのだろう。だが、これだけは譲れない。一番好きな人を全力で愛し続ける。浮気する暇なんて無くし、全身全霊で愛を叫ぶ。
これだけが真実だ。
しずく「誰かを好きになるのって、すごく素敵なことでしょう。その中で、たった一人だけを選んで愛する。短い人生の中で、愛を伝える時間を分割してしまうなんて、勿体ないと思いませんか?」
だから私は、かすみさんただ一人だけを愛し続ける。仮に前の侑先輩から浮気を誘われたとしても、それを拒否するだろう。
それが私の、恋愛哲学なのだから。
しずく「かすみさん」
かすみ「……っ!」
痛みに喘ぐ侑先輩を尻目に、かすみさんへと向き直った。
しずく「かすみさんが好きだって、可愛いって言って貰いたいのは私じゃないかもしれない。でも私は、好きだって、可愛いって、かすみさんに言って貰いたいよ」
かすみ「しず子……」
しずく「それがたとえ一方通行の恋だとしても……。かすみさんを愛し続けること、それを許してくれないかな」
ただ一人を愛し続ける。でも、それは叶わぬ悲恋かもしれない。一方通行かもしれない。
でも、叶わなくても、好きな人を愛し続けられる人生は……きっと幸福だって思う。
かすみ「し、しず子……っ。ご、ごめんねっ!わ、私……あ、謝ろうって……昨日のこと……で、でも私はバカだから……っ」
目の前で、明らかにかすみさんは狼狽えていた。思った通り、傷ついていたのは私だけじゃなかったんだ。鋭すぎる刃物は、使用者さえも傷つけてしまうのだろう。
かすみ「私……っ!しず子と恋人でいたいよっ!しず子の隣がいいよっ!勘違いでしず子を傷つけて、浮気しちゃうような最低な私だけどっ!隣に、いたい……っ!」
瞼から大粒の涙を流しながら、そう捲し立てた。そう言いながら、かすみさんは少しずつこちらに近づいていた。
だから、私から迎えに行った。
軽い足取りでかすみさんとの距離を縮めた。そして、強く、強く、二度と離れないように抱擁した。
しずく「ありがとう、かすみさん……っ。わたっ、私も……かすみさんの隣にいたい……っ」
かすみ「うんっ……うんっ!ありがとう、しず子……。大好き、大好きだよっ!」
しずく「私も大好きだよ……かすみさんっ」
私たちは抱き合いながら、互いに涙を流した。一番近い距離で大好きを叫びながら。
きっと、私にも落ち度はあった。
私は、かすみさんとの関係をどこか焦っていた。侑先輩への未練を互いに整理できないまま恋仲になってしまったから、愛し合う距離感を間違えていたのだ。
春風がゆっくりと氷を解かすように、一歩一歩、私たちの速度で好きを深めていけばよかったんだ。
でも、もう過ぎたことだ。私たちは色々と間違い、過ちを犯し、すれ違った。けれど、今こうして抱き合えている。これだけで十分なのだ。
そんな様子を、痛みに耐えながら侑先輩はずっと見ていた。
Case6:高咲侑の敗北
あれから、しずくちゃんとかすみちゃんは私の家から出ていった。二人はこれからいいカップルになるんだろうな、って呑気にそう思った。
侑「いつつ……。しずくちゃんってば本気で殴り過ぎだよ……」
正中線の水月を正確に打ち抜くなんて、最初から計画してたんだろうなぁ。
ズキズキと痛む腹部をさすりながら、何とか立ち上がった。その時、スマホから通知音が鳴った。でも、今はそんなのを確認している場合じゃない。
侑「おぉ……膝がぷるぷるしてる……。うぷっ……。あ、危ない……」
未だにダメージは大きいようで、気を抜くと吐瀉物をぶちまけてしまいそうだった。それと、急いでティッシュを手に取って鼻周辺を拭っていく。
べっとりと真っ赤な血がティッシュに付着し、血の気が引いた。恐る恐る鼻の骨の部分を触ったが、どうやら折れてはいないらしい。不幸中の幸いだった。
侑「それにしても、浮気は私しか幸せにしない、か……」
鼻に詰め物をしながら、先ほどの出来事を振り返る。ふらふらとした足取りで何とかベッドに腰を落ち着かせた。
浮気とは、あり得たかもしれない未来を実現させ、愛し合える素敵な物だと考えていた。
でも、それで幸福になれるのは当の本人である私だけらしい。まぁ、少し考えれば分かる簡単なことだった。
璃奈ちゃんは愛ちゃんと、果林さんはエマさんと喧嘩したことで不和が生まれた。つまり、私の浮気が原因で不幸になってしまったのだ。
では、菜々ちゃんは?フリーの菜々ちゃんは不幸にならなかったのでは?と思ったが、私は菜々ちゃんの恋人にはなれない。たった一人を愛し続けるという機会を奪い続けているのだ。それは未来の幸福を奪い不幸にさせている……と言えるかもしれない。
侑「それに、短い人生の中で愛を分割するのは勿体ない、ね……」
私にとっての一番は歩夢だ。これまでも、これからも、一生変わらない位置づけだと思う。それならば、歩夢へと愛情を注ぎ続ける。これが私にとっても歩夢にとっても一番幸福な在り方だろう。
浮気をする暇があるなら、一番大好きな人に愛を叫び続けろ、という単純な論理だ。
真理だと思った。これまで私の中にあった疑問が一瞬にして晴れた。
どうして好き同士なのに愛し合ってはいけないのか?
それが、一番好きな人ではないから。
一番好きな人を愛し続ける。それこそが単純明快にして不変の真理だから。
たとえば、菜々ちゃんはどうなのだろうか。菜々ちゃんは私のことが大好きだ。順位付けだけで言えば、一位なのだろう。
でも、私にとっての一位は歩夢だ。菜々ちゃんではない。
シンプルな真理は綺麗だが、悲しいまでに残酷だった。
侑「もし死ぬ前に……歩夢のことを、愛し足りなかった、なんて思ったら……。死んでも死にきれないよね」
真理は残酷だ。けれど、その残酷さに同情してはいけないのだ。一人を愛し続けることができなくなってしまうから。
なんだ、浮気は茨の道だと思っていたけれど、本当は一途に愛し続ける道こそが、正しき茨の道だったんじゃないか。私は残酷な真理の前に同情し、楽な浮気の道に逃げた愚か者だったんだ。
疑問は解消され、答えは得た。もう、浮気はしない。そう決めた。
そしてこれからは、これまでの罪の代償を清算しなければならない。私の浮気によって、不明によって、不幸になった人たちへの清算を。
そう思った瞬間、誰かの足音が聞こえた。迷いなく一直線に私の部屋へと向かっているらしい。一体誰が……。
そして、私の前へと姿を現したのは、よく知る人物だった。
彼方「……やあ、侑ちゃん」
不思議だった。なぜここにいるのだろう。約束なんてしていないはず……。あれ、それに彼方さん鍵は……って、しずくちゃん達が最後に出たから施錠はしてないのか。
彼方さんは力なく笑っていた。どう言い表せばいいのだろう。自殺直前の人をインタビューすれば、こんな風に笑うのかもしれない。
そんな彼方さんは、重たげに口を開いた。
彼方「ねぇ侑ちゃん。しずくちゃんとかすみちゃん、同好会辞めちゃったよ」
侑「え……二人が?」
耳を疑った。いや……でも、先ほどのやり取りを考えれば当然かもしれない。二人は大切な居場所だった同好会を離れ、愛を優先したのだ。
そうか。さっきのスマホの通知音はそういう……。
続けて彼方さんが口にした言葉は、これまた私を動揺させた。
彼方「彼方ちゃん、全部知ってたよ。侑ちゃんが色んな娘と浮気してるって。歩夢ちゃんがいるのに」
侑「……知って、たんですか」
彼方「うん。今さらになって思うよ。止めればよかったって。止めなきゃだめだったって。でも、もう遅いよね。二人がいない同好会なんて、もう同好会じゃないもん。彼方ちゃんの大好きな、同好会じゃないもん。はは……」
侑「……」
私の罪が、目の前にあった。強欲に自分だけが幸せになろうとして周囲に不幸を振りまいた結果、しずくちゃんとかすみちゃんを同好会から離れさせてしまった。その結果、彼方さんという被害者を生み出してしまった。
彼方「同好会はさ、彼方ちゃんにとって、大事な大事な場所だったんだよ?遥ちゃんにとってのスクールアイドルみたいに、彼方ちゃんもようやくそういう場所が見つけられたんだって嬉しかったんだ~」
侑「……ごめんなさい」
私は素直に謝った。謝って、どうにかなる問題でも無かったけど。でもだからこそ、私は行動しなければならないって思った。
同好会をもう一度、私の手で復活させるために。それが、私にできる唯一の贖罪だから。
侑「彼方さ──」
でも、そうは問屋が卸さなかった。
彼方「だからね、これは復讐……うぅん、八つ当たりかな?大好きな同好会を潰してくれた、侑ちゃんへのね」
侑「……え」
彼方さんは自然と私に駆け寄った。日常動作の一つみたいに。だからこそ警戒なんてできず、反応もできなかった。
いつの間にか、私の腹部に包丁が突き刺さっていた。服が私の血によって赤く染まっていく。
侑「あ……え、ぁ……?」
彼方「ごめんね、侑ちゃん。彼方ちゃんもさ、意味の無いことだって分かってる。でも、意味が無くたって、抵抗したくなっちゃったんだ。本当に、ごめんね。大好きだった侑ちゃんにこんなこと、したくなかったよ」
侑「かな、た……さん」
無感情にそう吐き捨て、彼方さんは私の部屋から出ていった。
侑「ご、ごほッ……ぁっ……あっ、がはッ」
ベッドが血に染まっていく。痛みを感じる間もなく、体温がどんどん奪われていくのが分かった。力もどんどん失われていき、遂にベッドから転げ落ちた。
どうやら、私はそろそろ死んでしまうらしい。死こそが、私の犯した罪に対する代償なのだろう。
本当なら……私の手でもう一度、同好会を復活させたかった。スクールアイドルだって、ピアノだって、もう一度取り組みたかった。今際の際になって改めて、胸の内に燃えるときめきに気付いた。
嗚呼……恋は盲目って、こういうことか……。
そう思ったのが、意識の無くなる直前に思っていたこと。
そして、薄れゆく意識の中見た最後の光景は、部屋に入ってくる歩夢だった。
Case@:上原歩夢の勝利
私は侑ちゃんが浮気をすると決心してから色々と裏で動いていた。
まずは時計型のウェアラブル端末を渡した。これは、装着している人のバイタルが分かるもので、浮気をする代わりに絶対外さないことを義務付けた。実はもう二つ、盗聴機能と位置情報も搭載されている。勿論、侑ちゃんのバイタル、音声、位置情報が私の家へとリアルタイムで送られていることは言わなかった。侑ちゃんが経験するであろう、破滅の未来を悟られては計画が台無しになるからだ。
次に、勉強に邁進した。元々成績が悪い方では無かったけれど、スクールアイドルや侑ちゃんとの時間を犠牲にすることで成績はうなぎのぼりに上がった。とはいえ、これは少し遠くの未来の為の下準備だ。
専ら勉強した科目は医学だ。特に、深い傷を負った際の処置法という実践的な医学を学んだ。だが、勉強するだけでは知識にしかならない。実践してこそ知識は知恵へと変化する。
つまり、毎日侑ちゃんのバイタルを確認しながら、学園の勉強、医学の勉強をしていた。
勉強の成果は定期テストで一位という結果を叩き出し、模試でも全国二桁の順位を記録した。これがきっと、愛のなせる業、という奴なのだろう。
そして、学んだ医学知識を知恵とする為に行ったのは、傷の治療だ。私は自らの腹部に刃を深く突き立て、それを自ら治療した。絶対に失敗できないリハーサルだった。その困難を見事に潜り抜け、私は知恵を勝ち取った。
私がなぜ、こんな凶行に及んだかと言うと、それらは全て侑ちゃんのためだ。
浮気をすると宣言されてから、私の脳内は訪れるであろう破滅の未来を予感した。
近いうち、侑ちゃんは誰かに刺されるだろう、と。
短絡的な浮気を繰り返せば、浮気相手の恋人か、若しくはその過程で不幸を被った人から復讐されると考えた。私にできることは誰かに刺されることを未然に防ぐことではなく、刺されても死なせないことだった。
刺されでもしない限り、侑ちゃんのおバカな浮気癖は治らないと判断したからだ。
そして、私が裏で暗躍する中、侑ちゃんは着実に浮気街道、もとい破滅の道を歩んでいた。正直、いつ刺されるかだけは予測できなかったので、音声で浮気をする日が分かれば近くに行っていつでも治療できるように構えていた。まぁ、私が自分を刺す前だったら完璧な治療ができるか怪しかったけど。
でも、リハーサル前の私でも延命はできる自信はあった。たとえ侑ちゃんが指一つ動けない重傷を負ったとしても、私は養える自信があった。医師免許を取り開業医となれば、侑ちゃん一人の食い扶持くらい稼げるだろう。学業への邁進は、こういった未来への投資の意味もあった。
そして、その時は遂に来た。下手人は彼方さんだった。彼方さんは抜けているようでしっかりと周囲を見ている聡い人だ。けれど、気付くが行動をためらう人だった。だからこそ同好会が手遅れになってから後悔する人であり、その鬱憤を元凶の侑ちゃんへとぶつけたのだろう。純粋な殺意というより、やぶれかぶれな動機だったのが彼方さんらしいな、と感じた。
刺された箇所はやはり腹部だった。何となく、勘で腹部だろうなぁと思って自分でもそこを治療したが、予想が当たって心底ホッとした。
一生見られないと思っていた侑ちゃんのお腹の中を見て少し気分が上がってしまったが、自制して努めて冷静に治療をした。何度も頭の中でシミュレーションを重ねた結果は、しっかりと実を結んでくれた。
ここに来るまでずいぶんと長かった。けれど、終わってみれば短かったように思える。
侑ちゃんは浮気をする阿呆さに気付いたし、傷も痕が残らないように治療できたし。計画通りに事は運べた。
やっぱり、浮気をして色んな人と愛し合ったとしても、侑ちゃんは最後に私の元へと戻る。なぜなら侑ちゃんにとっての一番は私で、私にとっての一番は侑ちゃんだから。
余談だが、死ぬほど愛してる、なんて言葉がある。でも、死んじゃったら愛し合えない。そんなのは嫌だった。
私はどう足掻いても、どんな手を使っても、生きたまま侑ちゃんを愛し続けるのだ。
寿命が二人を分かつ、その時まで。
侑「はぁ……憂鬱だよ歩夢」
歩夢「全部侑ちゃんの蒔いた種が原因なんだから。責任は取らないと」
侑「うぅ……。それはそうなんだけどさ……。拳骨一回くらいで許してくれないかなぁ……」
歩夢「もしかしたら、みんなから刺されちゃうかも」
侑「……ジョークに思えないのが恐ろしいところだね」
私は今、同好会の部室でみんなのことを待っている。もう一度、ゼロからやり直すために。
あの日、彼方さんに刺された私は一度死んだ。そう、死んだのだ。浮気なんて最低な行為をする私は。うん。
歩夢の企てによって見事助けられた私は、湖の中から出てきたように漂白された。自分のやらかした重大さに、ようやく気付いたのだ。たくさんの人を不幸にし、たくさんの人の居場所を奪ったのだ。私はその罪に、報いなければならない、というのが真面目な理由。
実際の本音のところは、私としても同好会は大切な場所だったので、それが無くなるなんて嫌、という何とも我がままな理由だった。
私は床に臥せって歩夢の看病を受けながら、同好会のみんなにとある報告をした。私が浮気をしたこと。私が同好会をもう一度復活させたいこと、等々。私が書いた文章は端々に自己弁護っぽい場所があったので、歩夢が客観的な文章に直してくれた。ほんと、歩夢様々って奴だ。
ちなみに、あの日歩夢から応急処置を受けた後、普通に病院へと入院した。延命できる腕はあれど、命を長期間継続するとなれば専門機関を頼った方がいいのは言うまでもない。
だからこそ、自らの腹を掻っ捌き、親の手を最小限しか借りずに自己治癒した歩夢はバケモ……すごいのだ。
お腹の穴が無事に塞がった後、私は学園へと登校し、改めてみんなの前で謝罪を述べることにしたのだ。
なんというか、もう胃に穴が開くくらい気分が重い。まぁ、一度お腹に穴は開いてるんですけどね!はっはっは!
歩夢「彼方さん、来てくれるかな……」
侑「きっと来てくれるよ。悪いのは彼方さんじゃない。私なんだから。それに、こうしてお腹も元通りなんだし、気に病むことは無い……なんて私が軽々しく言っちゃダメなんだろうね」
私の傷はこうして完治したが、彼方さんの傷はどうなのだろうか。体の傷では無い、心の傷だ。
彼方さんのやったことは、一言で言えば傷害罪だ。でも、警察には通報しなかった。それは当然で、悪いのは全部私なんだから。私の深々と抉られた傷の理由は、包丁でお手玉してたら偶然突き刺さった、と病院と警察に話した。怪しまれはしたものの、当事者の私があっけらかんと言うのだから納得するしか無かったのだろう。事件性は無し、ということで解決した。
でも、彼方さんに包丁を握らせ、私を刺すまで追い込んでしまった。自分のしでかした罪を糾弾されなくても、きっと彼方さんは自分自身を責め立てるだろう。それくらい、彼方さんは優しい人だから。
そんな優しい人を、私は……。
歩夢「あ、誰か来たみたい」
と、ここで、部室のドアをノックする音が聞こえた。
せつ菜「こ、こんにちは……」
やってきたのはせつ菜ちゃんだった。ときめきの思うままに純情を弄んでしまった被害者の一人だ。
私は開口一番、土下座して謝った。狡いかもしれないが、もうこんなことしかできない。もしかすれば、次の瞬間背中に包丁が刺さっているかもしれない。
せつ菜「侑さん……。顔を上げてください」
そんな私に対し、せつ菜ちゃんは優しかった。恐る恐る顔を上げると、そこにはにこやかに微笑みを浮かべるせつ菜ちゃんがいた。
せつ菜「侑さんのやったことは、確かに最低な行為です。ですが、私もそれに乗っかってしまいました。だから同罪です」
侑「……ごめんね。本当に」
せつ菜「謝らないでください。私は一番でなくても……あの日愛されていたことは、本当に嬉しかったんですから」
侑「……っ」
だが、その微笑みには悲痛さが嫌でも滲んでいた。今すぐ抱きしめ、慰めてあげたい衝動に駆られたが、それをしてしまえば以前と変わらない。
だから私にできるのは……。
侑「……せつ菜ちゃん。怒ってる、よね」
せつ菜「えぇ、そりゃあもう。私の純情に付け込んだんですから。なのに今さら、浮気を自分の都合でやめるだなんて卑劣極まりないじゃないですか」
侑「そ、そうだよね。じゃあ、んっ……」
私はそう言って、頬を差し出した。私にできることなんて、鬱憤を晴らすために殴られるくらいしかできない。私としても、一発殴られないと罪悪感が拭えない。
拳骨一発で済まそうなんて、バカな考えだった。
せつ菜「……あまり暴力は好きではないのですが、侑さんの意を汲みましょう」
歩夢「どーんっといっちゃっていいよっ!」
……歩夢。
囃し立てる歩夢を少し睨む。目の前のせつ菜ちゃんは腰を落とし、拳を構えた。そのまま全体重を乗せるように一歩踏み出し──
あれ、この光景どこかで……。と、思った瞬間、お腹にとんでもない衝撃が加わった。
侑「……ごッ。あッ、んんん~~~ッ!?」
悶絶した。水月を的確に打ち抜かれ、呼吸が思うようにできない。せつ菜ちゃんが狙ったのは差し出した頬では無い、未だ古傷疼くお腹だった。
侑「はっ、はっ、ぐッ、あぁ……ッ!」
ごろごろとのたうち回っていると、せつ菜ちゃんは晴れた顔をしていた。
せつ菜「よしっ!侑さん、改めて同好会をやり直しましょう!これでおっけーです!」
腹部を押さえて痛みに堪えながら、私はせつ菜ちゃんと握手をした。
これは、地獄になりそうだ……。
侑「あ~……。覚悟していたとはいえ、やっぱキツイね」
せつ菜「大丈夫ですか?」
歩夢「腰が入ったいいパンチだったよね。シュッシュ!」
侑「うん。大丈夫。一番辛いのはさ、殴られもしないことだから。これくらいは受け入れないとね」
せつ菜「……はいっ!お腹に力を入れて頑張りましょう!」
太陽のような笑顔だった。もう一度この笑顔が見られるなんてね。そのためなら、何度だって痛みに耐えられると思った。
歩夢「あ、また誰か──」
そして、訪問者は突然に。
愛「……ゆうゆっ」
侑「あ、愛ちゃ──」
二人目は愛ちゃん、そして後ろからおずおずと璃奈ちゃんが付いてきていた。愛ちゃんは怒気を孕んだ表情だったが、璃奈ちゃんはボードで顔を隠していた。気まずいのだろう。気持ちは分かる。
私はせつ菜ちゃんの時同様、土下座をする……予定だった。でも、愛ちゃんに肩を掴まれて阻まれてしまう。
愛「ゆうゆさ、お腹に穴開いたんだって?」
侑「え、うん……」
愛「もう大丈夫なの?」
侑「うん。傷は完璧に塞がったけど……」
そう言ってお腹を軽くさする。未だ、せつ菜ちゃんの時のダメージが鈍く残っていた。
愛「そっか。じゃあ遠慮はいらないね。やぁッ!!」
侑「げふ……ッ!?」
そして私はもう一度、あの悶絶を経験した。愛ちゃんも、みぞおちだった。
くの字に体が曲がり、私は膝を突いてしまう。気を抜けば吐瀉物がまろび出て……。
侑「お、おえッ……おえぇええ……」
まろび出てしまった。びちゃびちゃと部室の床に吐瀉物が広がっていく。
愛「あ~~っ、スッキリしたぁっ!」
対する愛ちゃんは、非常に晴れやかな顔をしていた。憑き物が取れたようだ。
愛「あはっ。なんかゆうゆのそれ、もんじゃみたいだね!なんつって!」
その台詞、もんじゃ焼き屋の娘が言っていいものなんだろうか。まぁ、だいぶハイテンションっぽいし、仕方が無いのかもしれない。
せつ菜「やりますねぇ!愛さん!私と同じ個所ですよ!」
愛「お、せっつーもみぞおち!?気が合うじゃ~ん。うぇ~いっ!」
横では、みぞおち仲間の二人がハイタッチしていた。経緯を知らない人が見ればいじめの現場にしか見えないだろう。
侑「が、がはッ……。だ、だいじょぶ、だよ……」
璃奈「あの、その……流されちゃった私も悪いのに、侑さんだけ……。本当にごめんなさい」
そう言って、璃奈ちゃんはボードを取った。すると、頬に紅葉ができていた。私が今までの経緯を報告したのは一か月ほど前の話だ。でも、今日この痕があるということは……。
恐らく璃奈ちゃんの方から愛ちゃんへと、叩いて欲しい、って懇願したんだろうな。けじめを付ける発想は、みんな同じらしい。
愛「まあ、愛さんもさ、悪い所はあったよ。りなりーのこと、ちゃんと理解できてなかった。苦しみを、理解できなかった」
璃奈「愛さん……」
愛「愛さん、りなりーくらい変態になって見せるからさ!待っててよ!好きな人のために変態になる!これもまた、愛の形だよね!愛だけに!」
璃奈「ふふ。愛さん、心強い」
二人はそうして抱き合っていた。よかった。二人が別れるなんて事態にならなくて。
愛「りなりーとの仲も戻った!ゆうゆも殴ってスッキリした!私とりなりーも、もう一度同好会に参加するよ!」
璃奈「うんっ!もう一度やり直そう、侑さん、みんな!璃奈ちゃんボード『むんっ!』」
侑「二人共……。げほっ、よ、よろしくね」
未だに残る鈍痛に耐えながら、私は二人と握手をした。
歩夢「侑ちゃん、もし傷がパックリ開いても大丈夫だからねっ!」
歩夢がにこやかに告げた。大丈夫じゃないんだけどなぁ……。
愛「いや~っ、ビックリだよね。みぞおちってあんなに深くめり込むものなんだ」
せつ菜「確かに。なかなかできない経験ですよね」
歩夢「包丁で叩いたから、肉が柔らかくなってるのかもっ!」
愛「歩夢~っ。叩いたんじゃなくて、刺さったんでしょ!」
愛・せつ菜・歩夢「あっはっはっはっは!」
璃奈「璃奈ちゃんボード『やべぇ』」
侑「まぁ、笑ってくれるのが一番だよね。へへ……」
酷すぎるブラックジョークを聞きながら、次の人を待つ。吐瀉物は歩夢によって綺麗に拭き上げられ、そんな事実は元から無かったように思える。
匂いだけはどうにもならないので、部室の窓を全開にして開けている。
愛「それにしても、包丁でお手玉なんてさ、無茶するよね」
璃奈「それはそう。やっぱり侑さんは頭のネジが緩んでる」
侑「あはは……。って、やっぱりって何」
実は、彼方さんが私を刺したことはみんな知らない。伝えるべきことは私の犯した罪についてであり、彼方さんのことに関しては、私は口を噤むべきだと感じた。
その事実が公表されるのは、自らの口だけだろう。私から言うことではない。
そんな中、廊下から跫音が聞こえた。
愛「お、来たんじゃない。次の人。ゆうゆはお腹に力入れておいた方がいいよ」
侑「う、うん……。次はお腹じゃないことを祈るばかりだよ」
せつ菜「痛くないと侑さんも不完全燃焼じゃないですか?」
そうして、ドアから入ってきたのは、果林さん、そしてエマさんだった。
果林「……ご無沙汰、かしらね」
エマ「……」
果林さんは余裕そうな表情、エマさんは若干眉の上がった表情をしていた。いや、果林さんは余裕のある顔じゃない。あれは……脱力しきった、全てを達観した顔だ。
エマ「みんな、久しぶりだね」
愛「うん。こうして顔を合わせるの、久々な感じだよね」
せつ菜「えぇ……。私たち、互いに避け合ってましたもんね」
果林さん、エマさんの言う通り、どうやらみんなは互いを避けていたらしい。小さな小競り合いの末、しずくちゃんとかすみちゃんが部を辞め、私が重傷を負う結果になったのだ。無理もない。
これでは空中分解というより、自然消滅だろう。本当に、危なかった。
エマ「侑ちゃんも……久しぶり」
侑「……はい。久しぶりですエマさん。そして、ごめんなさい」
私は真摯に土下座をした。浮気をしてしまったこと。部を廃部寸前まで追い込んでしまったこと。申し訳ない気持ちは湯水のように溢れ出る。
エマ「……もう、お腹は大丈夫なの?」
侑「は、はい……。無事に完治し、しました」
完治はした。でも、現在進行形で痛みは継続中だ。主に、刺突とは無縁の痛みで。
エマ「そっか……」
そう言って、エマさんは私に近づいてきた。手を軽く掴まれ、立たされた。また、みぞおちを殴られるのだろうか。それとも頬だろうか。いずれにしろ、私にはそれを甘んじて受け入れなければならない。
痛みを覚悟し、体を硬くした瞬間、予想外の柔らかさが私を包んだ。
侑「……え」
私はなぜか、エマさんに抱きしめられていた。
エマさんはそう言って、さらに強く私を抱きしめた。想像の埒外のことで混乱した。でも、罪は私の物だ。エマさんに背負わせるわけにはいかない。
侑「ち、違います。私が自分勝手に浮気をしたから……。心の隙間を狙って、弱点を抉るような酷いことをしたからこうなってるんですっ。エマさんが悪いわけないですよっ!」
エマ「確かに。元凶は侑ちゃんなのかもしれない。でもね、喧嘩して雰囲気を悪くしたり、みんなから遠ざかっていったのは紛れもなく私たちなんだよ」
侑「そ、そんなの……」
エマ「侑ちゃんは喧嘩の仲裁をしてくれたよね。浮気は悪いことだよ。でもね、同好会のために動いてくれてた。自分の作った問題のいたちごっこだとしてもね」
侑「エマさん……」
エマ「それに何より、侑ちゃんは同好会を潰したかったわけじゃないでしょ?」
侑「……っ。それは、そう、です……」
エマ「じゃあ、もういいんだよ。壊した切っ掛けを作ったのは侑ちゃん。でも、またこうして私たちを繋ぎ直そうとしてくれてる。それだけで十分なんだよ」
侑「え、ま、さん……。うっ、うぅっ……」
泣く権利なんて私には無い。全ての原因を作り出したのは私。私さえいなければ、この同好会は健全なままだった。それを壊して、元通りにしようとしてるだけだ。
でも、涙は流れた。私の思いとは裏腹に、流れ続けた。エマさんは制服が涙で濡れるのもお構いなしに、私を抱きしめ続けた。その優しさに、甘えてしまった。抱きしめ返し、私はわんわんと赤ちゃんみたいに泣いた。
ひとしきり泣き終わった後、エマさんは抱擁を解いた。
エマ「でも、いくら私たちが許しても、侑ちゃんは自分を許せないと思う」
侑「ぐすっ、はい……」
せつ菜ちゃんから渡されたティッシュで涙を拭いながら答えた。
エマ「だからね、侑ちゃんが自分を少しでも許せるように、私頑張るね」
にこりと、久々にエマさんの向日葵みたいな笑顔を見た。でも、一体何を頑張ると言うのだろうか。
侑「……んぶッ!?」
エマ「ごめんね。でも、これで侑ちゃんもスッキリするでしょ?んッ」
侑「おあぁッ!?」
二発。右拳に左拳、左右で一発ずつ、みぞおちに途轍もないものを貰った。先ほどの焼き直しみたいに、悶絶し、床を転げまわる。
歩夢「う~ん。やっぱりパンチ力だけなら同好会随一だよね」
璃奈「私にはとても真似できない。すごい」
せつ菜「匹敵するとすれば、果林さんでしょうか」
愛「いや~、豊かなスイスの自然が育んだパンチだからね。いくら島育ちって言っても難しいっしょ」
視界を明滅させながら、そんな呑気な会話が耳に入ってくる。私のみぞおち打ちはすっかり風景の一部になってしまったらしい。もしかして、裏で打ち合わせしてたんじゃないかって疑ってしまう。
果林「侑……その、ごめんなさいね」
侑「ごほッ、い、いえ……わ、私こそ、これまで……ごほッ、色々やっちゃって……すみません」
果林「私も阿呆だったわ。性欲に目が眩んで他の大切な物が何も見えていなかった。恋は盲目って言うけれど、本当ね」
侑「……そ、う、ですね」
果林さんはどこか遠い目をしていた。なんだか自分に酔っている雰囲気さえうかがえる。本当に反省しているんだろうか。
エマ「私の目も節穴だったな~。まさか果林ちゃんがこんなにド変態だったなんて、知らなかったよ~」
果林「え、エマっ!」
侑「……?」
エマさんは昔みたいなほんわかとした雰囲気に戻っていた。部室内のピリついた空気も消え、なんだが和やかささえ感じた。
エマ「だめだよ果林ちゃん。果林ちゃんの性癖をみんなに知ってもらう。これがそのまま浮気したお仕置きになるんだから」
果林「う、うぅ……」
侑「……」
痛みが引き始めた時、冷静な頭が一つの結論を導き出した。ほわほわして温かな雰囲気を持つエマさんだが、意外とサディスティックな面もあるんだなぁ、と……。
もしかして、果林さんとエマさん。この二人って体の相性も実は相当いいんじゃないだろうか。今回の件で、一番得している二人かもしれないなぁ……。
エマ「じゃあ侑ちゃん。改めて、これからもよろしくね」
侑「……はいっ。よろしくお願いします」
そしてエマさんとも握手をした。果林さんとは……性癖暴露が終わってからした。
エマ「えぇっ!せつ菜ちゃんも愛ちゃんもお腹にパンチしたの!?だ、大丈夫侑ちゃん!」
侑「はい。今のところは破けることも無く大丈夫です」
愛「あれで破けないってなると、ゆうゆのお腹ってなかなか頑丈だよね~」
歩夢「一度包丁を経験しているからかな?拳程度じゃビクつかないのかも」
エマ「それなら果林ちゃんのお腹も強そうだね~」
せつ菜「あぁ、先ほどの話を聞いた後だと、確かに……」
果林「ちょ、エマっ!それはどういうこと!?」
エマ「なんでもないよ~。ふふっ」
璃奈「賑やかで楽しい。璃奈ちゃんボード『わいわい』」
愛「かり~ん。夜はどんなことして楽しんでるのさ」
果林「愛っ!さすがに怒るわよ!!」
エマ「私は侑ちゃんからどんなことされてたのか気になるな(低音)」
せつ菜「ヒエッ。突然低音になると怖いですよっ!」
……なんというか、同好会は全く新しい形で復活する。そう感じた。
歩夢「次は誰かな」
愛「誰かなかなかな、近江彼方!」
エマ「来てくれるよね。きっと」
璃奈「問題はしずくちゃんとかすみちゃん、かな……」
侑「……」
しずくちゃん。同好会の中で唯一浮気のお誘いを断った後輩だ。同好会を辞めたのだって、私にかすみちゃんを近づけないためとか、完全に未練を断ち切る意味もあったのだろう。
でも、それでも、二人には戻ってきて欲しい。私の切なる願いだった。
果林「……ふぅ。今の私になら言えるわ。同好会を辞めて戻ってきたところで、何も恥ずかしいことなんて無いってね。安心して戻って来なさいって、メッセージ送ろうかしら」
せつ菜「あ……その必要は無さそうですよ」
せつ菜ちゃんの言う通り、部室のドア越しに聞き慣れた二つの声がした。どうやらドアの前に二人がいるらしい……が、入室してこない。
せつ菜「どうしたんでしょう……」
歩夢「何か言い争ってるみたいだけど……」
璃奈「こんな時はこれ。でで~ん。『猫型拡声器・スクリーム・アラン』。これをドアの傍に……ほいっと」
璃奈ちゃんが犬のような拡声器をドアの前に放る。すると、犬の口が開いてそこから声がした。
しずく『いやーっ!今さら戻れないもんっ!私、かすみさんと一緒に死ぬって決めたんだもん!同好会なんて今さらだもんっ!いやいやっ!』
かすみ『ここまで来てなに日和ってるの!せっかくのやり直すチャンスじゃん!』
しずく『いやったらいやーっ!私たちがどんな覚悟でLINEグループ退会したと思ってるの!?』
かすみ『分かるけど……。でも、私は同好会に戻りたいよ。あそこは私にとって……大事な、大事な……うっ、うぅ……』
しずく『あ……。かすみさん……』
そんな会話を、私たちは耳にした。
愛「ねぇ、これって聞いちゃいけない会話だったんじゃ?」
璃奈「反省はしてる。でも、二人の本心が聞けた。これだけでも大収穫」
侑「そう、だね……。私、行ってくるよ」
椅子から立ち上がり、ドアの前まで来た。なんというか、同好会から絶縁の為に来たわけじゃないって考えると、少しだけ気楽に思えた。
侑「しずくちゃん、かすみちゃん、久しぶり」
しずく「あ」
かすみ「侑先輩!久しぶりです!」
しずくちゃんは間の悪いところを見られた顔。かすみちゃんは満面の笑みを浮かべていた。私も、久々に二人に会えて嬉しい気持ちだった。
しずく「あ、あ、あ、あ……」
しずくちゃんは顔が赤くなったり青くなったり、口をパクパクさせていた。何を言うべきか非常に迷っているらしい。
かすみ「ほら、しず子。謝りたいって言ってたじゃん。顔とみぞおち殴ってごめんなさいって」
しずく「……」
侑「え、そうなの?でもあれは私が悪いんだし……。まぁ、とりあえず中に入りなよ」
しずくちゃんは殴ったことを気に病んでいたらしい。それもそうか。鬱憤が溜まっていたとはいえ、鼻血が出るほどの力で殴ったのだ。スッキリより罪悪感の方が強くなるのも無理はない。
逆に、愛ちゃんみたいに爽快気分で殴る方がちょっとおかしいのだ。
璃奈「しずくちゃん、かすみちゃん。久しぶり」
かすみ「あ、りな子。それにみんなも大集合じゃないですか!」
しずく「……ご無沙汰してます」
そして銘々、挨拶などの言葉を交わした。かすみちゃんは明るい顔だったけど、しずくちゃんはずっと暗い顔のままだった。
さて、まずは私の謝罪が先だ。改めて、二人に対して土下座をした。
侑「しずくちゃん、かすみちゃん。本当に、ごめんなさい。私の勝手な浮気で、ずいぶん迷惑をかけたね」
かすみ「ちょ、侑先輩っ!顔を上げてくださいよ!あれはかすみんも悪かったんですから……」
しずく「……っ」
顔を上げる。すると、困ったように焦るかすみちゃん、そしてバツの悪い顔をし、自分の片腕を抱くしずくちゃんがいた。
しずく「なんで……そんな、今さら……。遅いんですよ、気付くのが、ずっとずっと……」
侑「うん……。ごめんねしずくちゃん。でもさ、このままじゃ嫌だったんだよ。いつの間にか、同好会が消えて、消えたことにも気付かないで……。そして大人になったいつかさ、後悔するのが嫌だったんだ。あの日、ちゃんと行動すればよかったって」
しずく「そんなの、そんなのっ!それもっ!侑先輩の勝手じゃないですか!私は最大の決心で同好会を抜けたんですよ!?ここを抜けたら、もう本当に戻れないって。なのに……こうしてのこのこ戻ってきたら、バカみたいじゃないですか……」
侑「……ごめん」
しずく「……うぅっ。本当は、こんなことっ、言いたいわけじゃ、ないのに……」
しずくちゃんは泣いていた。その涙を、かすみちゃんがハンカチで拭いていた。その光景はなんだか、以前より深まった二人の絆を感じさせた。
しずく「私がっ、先に……同好会はもうだめだって、諦めたのに……。でも、同好会は私にとって大切な場所で……本当は失いたくなんて、無かったっ!なのにっ!壊した張本人が同好会を復活させるだなんて、虫がよすぎると思わないんですか!?」
侑「……うん。思うよ。本当に、しずくちゃんの言う通りだと思う」
しずく「うっうっ、うぅうぁあっ、ぁああああああああああっ!」
かすみ「……侑先輩。そして皆さん、聞いて貰っていいですか?」
泣きじゃくるしずくちゃんを抱きしめながら、精悍な顔付きでかすみちゃんが口を開いた。
エマ「いいよ。なにかな?」
かすみ「しず子、ずっと気に病んでたんです。同好会を辞めてから、ずっとずっと。寝てる時もうなされてるみたいで、うわごとみたいに呟くんです。ごめんなさい、ごめんなさいって」
しずくちゃんが謝ることなんて、何一つありはしないのに。私が全て、悪いのに。
かすみ「私が同好会を終わらせる最後の引き金を引いてしまったんだって。自分たちだけの幸せを優先してしまったんだって。私にも、謝ってました。かすみさんを巻き込んでしまってごめんなさいって」
そうか……。誰かが抜けてしまったら、それが本当に同好会の終わりの始まりだって思ってしまったんだ。しずくちゃんはかすみちゃんを守るために、ただ一人を愛し続けるために、その苦渋の決断を下したんだ。
そう考えさせてしまった。その事実が、私の心を強く締め付けた。
せつ菜「侑さん。大丈夫ですよ」
侑「せつ菜ちゃん……」
そんな私の肩に、せつ菜ちゃんの手が優しく触れた。力強いわけでは無いのに、なぜか熱く燃え滾るような頼もしさが感じられた。
かすみ「……はいっ」
せつ菜「しずくさんも、そう泣かなくて大丈夫です。しずくさんの中では、同好会は一度死んでしまったのかもしれません。でも、同好会は何度だって復活します!今までだってずっと、そうだったじゃないですか!」
しずく「ぐすっ、うっ、うぅ……はいぃ……」
せつ菜「もう一度、同好会を復活させるって願ったんです!それに、私たちも同調しました!それなら後は決まってますよね!始まったのなら、貫くのみです!」
グっと、せつ菜ちゃんは拳を前に突き出した。
せつ菜「終わってません!始まったばかりです!もう一度最初から、頑張っていきましょう!!」
しずく「は、はいっ。すみません、せつ菜さん……。ありがとうございます……っ」
かすみ「よーしっ!また部長としてっ!かすみんも頑張っていきますよ~っ!!」
侑「……」
眩しかった。三人の光景があまりにも、眩しかった。
同好会をもう一度蘇らせることができるのは、私しかいないんだって、どこか心の底では思っていた。でも、とんだ思い上がりだった。みんなの心の中には、同好会に対する燻ぶりがあるんだ。それがある限り、完全に消滅することは無いんだって、そう思った。
強いなぁ、みんな……。私、やっぱり同好会が、大好きだなぁ……。
しずく「ずびっ、ぐすっ……。ゆ、侑先輩、こ、これからも、ぐすっ、よろしくお願いします……っ!」
侑「う、うんっ!よろしくねしずくちゃん!はい、ティッシュ!」
かすみ「かすみんのこともお願いします!」
侑「もちろん!よろしくねかすみちゃん!」
二人とも改めて、硬い握手を交わした。
そして、同好会のメンバーは残すところ、あと一人にまでなった。
ドアの向こう側から楽し気で愉快な声が聞こえてくる。そこに飛び込みたい気持ちはたくさんあった。でも、二の足を踏んでしまう。
ぐるぐると入口周辺を回ってはドアの取っ手に手を掛ける。でもなんだか入れなくて、さらにぐるぐると回る。
誰か、ドアを開けて気付いてくれないかなぁ……。なんて思うものの、彼方ちゃんはここまで抜き足差し足で来ている。気付かれるわけ無かった。
彼方「あぁ~……。助けて遥ちゃぁん……」
濡れた子犬のように小さく呟いた。でも、ここに遥ちゃんはいないし、彼方ちゃんが立ち向かわなければならない問題だ。
彼方「よ、よし……頑張れ~、彼方ちゃん。君はできる子だ。侑ちゃんにしっかり謝るんだ。今日はそのために来たんじゃないか。ちょっとリハーサルしようかな……」
深呼吸を始めた。吸って~……。
侑「──あ、彼方さんっ!来てくれたんですね!」
彼方「うぇッ!?、げほッ、ごほッ……!ゆ、ゆうちゃッ、ご、ごッぇぇンッ!!」
侑「……?とりあえず、中に入ってください!みんな待ってますから」
ファーストコンタクトは、どうやら大失敗のようだった。
──
愛「あ、カナちゃん!待ってたよっ!これで全員集合だね!未来へ向かってゴーゴーってね!集合だけに!」
璃奈「なんだか……夢を見てるみたい。ぐすっ」
かすみ「夢じゃないよりな子。はいハンカチ」
璃奈「ありがとうかすみちゃん」
しずく「わ、私……もうこんな光景……ずっと、見られないって、もう……うっ、うぅ……」
かすみ「あぁもうっ!ほら、しず子もハンカチ!」
歩夢「いっぱい持ってるんだねかすみちゃん」
かすみ「まあ、恋人が泣き虫だったもので……」
しずく「ぐすっ、そんなっ、こと……ないもんっ。今だけっ、ずずっ、だもんっ」
果林「ふふ。可愛らしいわね」
エマ「果林ちゃんもお目目真っ赤だよ?ハンカチ使う?」
果林「……一応、貰っておくわ」
せつ菜「ほら、彼方さんもこっちへ来てくださいっ!」
彼方「う、うん……」
侑ちゃんに招かれ、せつ菜ちゃんから手を引かれ中へと入った。久々に来た部室は、もう覚えていないくらい賑やかだった。でも、前とは少し違う。困難を乗り切った後の絆の強さみたいなものを感じた。
そして、彼方ちゃんはその中にはいなかった。当然と言えば当然だ。きっとみんな、自分の心の膿みたいなものを吐き出しきったんだ。だからしずくちゃんなんて号泣していても、明るく笑っている。
彼方ちゃんは……まだみんなに言っていない。侑ちゃんを刺したって。侑ちゃんを殺しに行ったって。洒落にならない罪深さだ。
今頃彼方ちゃんは、塀の向こうにいてもおかしくない。いやむしろ、こんな日の当たるところにいる方がおかしいのだ。
だから、こんなにも賑やかで楽し気な雰囲気の部室なのに、居心地が悪かった。
犯罪者が、こんなところにいちゃいけないよ……。
せつ菜ちゃんに覗き込まれた。曇り一つない、真っ直ぐで清廉な瞳だった。あまりに眩しく、つい目を背けてしまう。
エマ「もしかして……彼方ちゃんは同好会に戻ってきてくれないの?」
かすみ「あはは。エマ先輩、何言ってるんですか。そんなわけないじゃ……え、嘘」
唇を噛んだ。彼方ちゃんも最初はそのつもりだった。もう一度やり直すんだって。罪を告白して、それでも受け入れて貰えれば、一からやり直すんだって。
でも、だめだった。みんなの明るい顔を見たらだめだった。こんなぽかぽかで明るい場所に、彼方ちゃんみたいな人はいちゃいけない。
彼方ちゃんが住むには、この場所は澄み過ぎてるよ……。
彼方「ごめんね、みんな……。彼方ちゃん、同好会には戻れないよ」
しずく「え……。な、なんでっ!彼方さんもずっと、私やかすみさんと侑先輩と一緒に、喧嘩の仲裁に入ってくれましたよね!?それくらい、同好会のことを想っていたんじゃないんですか!?」
その言葉は、胸に刺さった。同好会のことは大好きだった。ここが彼方ちゃんにとって、ようやく見つけた居場所だったから。でもその原因の侑ちゃんのことは見逃してしまった。問題は分かっても、どうしても手が出なかったのだ。
偏に、彼方ちゃんに勇気が無かったから。それで同好会は台無しになっちゃった。かすみちゃんとしずくちゃんが抜けて、本当に終わりになっちゃった。
彼方ちゃんが行動しなかったから、同好会はこうなったんだ。浮気してる侑ちゃんが悪いって分かってたのに、部外者が踏み込んじゃいけないって勝手に境界線を引いていた。
彼方ちゃんならできた。彼方ちゃんなら未然に防げた。でも、やらなかった。自らの力不足が原因で同好会は離れちゃったのに、その鬱憤を侑ちゃんにぶつけた。
だから彼方ちゃんは、救い難い。
彼方「ごめんね、しずくちゃん。彼方ちゃんはね、ここにいちゃいけないんだ。だって、犯罪者だから」
侑「彼方さん……」
侑ちゃんの顔を見た。五体満足で動いており、元気そうだ。
彼方ちゃんの手には、未だに包丁で腹部を貫いた感触が残ってる。忘れたくても忘れられない、大好きな侑ちゃんを貫いた感触。一生忘れることが無い、心に刻まれたスティグマだ。
彼方ちゃんは、許しを欲していた。同好会に入ることはできなくとも、誰かに許して欲しかった。だから、その告白をすることにした。
彼方「彼方ちゃん、実は犯罪者なの。本当なら今頃、牢屋の中にいてもおかしくないんだ」
しずく「え……なに言ってるんですか?」
愛「そうだよ。突然どうしたのさ」
みんな困惑した表情を浮かべていた。いや、侑ちゃんだけは、真剣な表情でこちらを見つめている。どうやら見守ってくれているらしい。あれ……歩夢ちゃんは普通の顔だな。特に驚いてる感じでも無い。まあ、いいか……。
彼方「侑ちゃんがちょっと前まで病院にいたのは知ってるでしょ?実はね、包丁で侑ちゃんを刺したのは彼方ちゃんなんだ」
エマ「……え、彼方ちゃんが?」
璃奈「嘘……。そんな……」
彼方「嘘じゃないよ。同好会から二人が抜けて、その八つ当たりで侑ちゃんのことを刺したんだ」
みんな、言葉を失っている様子だった。未だ信じられないのか、半信半疑という表情が大半だった。
そう。大元、元凶を取り除けば、問題は解決できたかもしれないのだ。でも、できなかった。
彼方「彼方ちゃんには無かったよ。一人だけを吊るなんて勇気は……。あはは、ごめんね。これじゃあ同情を引いてるみたいだね……。吊る勇気は無くとも、刺し殺す勇気はあるだなんて……ほんと、救えないよね」
部屋には重苦しい空気が流れた。当然かもしれない。
彼方「ごめんね、みんな。結局、同好会をぐちゃぐちゃにしちゃったのは、彼方ちゃんだったよ……」
そう言って目を伏せた。このまま家に帰って孤独になりたかった。でも、それはできなかった。
誰かから罵倒されて欲しかったのかもしれない。罰して貰えれば、幾分か許された気持ちになれる。
そして、次に口を開いたのは歩夢ちゃんだった。
歩夢「彼方さん、それを言うなら私にも罪はあります」
彼方「……え?」
歩夢ちゃんは余裕とも、動揺とも取れない、普通の口調でそう言った。恐ろしいほどに冷静だった。
歩夢「実はですね、侑ちゃんの付けている時計には盗聴機能があるんです。ですから、彼方さんとのやり取りをリアルタイムで聞いていました」
侑「えっ、盗聴!?これに!?」
歩夢「うん。それと位置情報も取得できるんだ」
その言葉に、みんなの視線が侑ちゃんの手首についている時計へと向かった。
歩夢「だから、私には彼方さんの凶行を止められたんです。でも、止めなかった」
彼方「な、なんで……侑ちゃんが死んじゃうかもしれなかったんだよっ!?」
自然と声が荒れた。刺した本人が傍観者に吠えているなんて、少し奇妙な光景に思えた。
歩夢「浮気をする侑ちゃんにはいいお薬になると思ったんです。実際、もうこの一件で完全に懲りたみたいですし、良かったです」
彼方「──」
歩夢ちゃんはにこやかに笑った。にこやかに、恋人への殺傷を見送ったと言っている。まるで、理解不能だった。
侑「ちなみに、私が死んだらどうするつもりだったの?」
歩夢「面白いこと言うね。私が侑ちゃんの治療で失敗するわけないじゃん。それに、リハーサルもバッチリだったからね」
侑「あ~、自分でお腹をぶっ刺してって奴ね。ほんと、歩夢って時々ぶっ飛んでるよね」
歩夢「ふふっ。愛さえあれば何でもできるんだよ」
呆然自失としていると、聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。
彼方「……リハーサル、って、何?」
歩夢「あぁ、私、一か月ほど学園をお休みした時期あったじゃないですか。あの時、自分のお腹を刺して完璧に治療できるかって、リハーサルしてたんですよ。一発で成功させなきゃ死んじゃうのでスリル満点でした」
侑・歩夢以外「……えぇ」
二人以外、ドン引きしていた。
侑「いや~、これを最初に聞いた時は歩夢を殴ろうと思ったけど、歩夢もお腹を痛めて愛してくれたから許しちゃったよね」
歩夢「侑ちゃんなら分かってくれるって信じてたよっ!」
侑「あはは。愛の重さで無理やり頷いたようなもんだけどね!」
歩夢「でも嫌いじゃないんでしょ?」
侑「うん。大好き」
彼方「……」
なんだか、バカバカしく思えてきた。彼方ちゃんが侑ちゃんのお腹を刺したのは消えないし、大好きな後輩に殺意を向けたことも変わらない。
でも、もう全てがくだらなく思えてきた。だって、侑ちゃんの浮気から端を発した事件は全て、この二人のイチャイチャに収束するんだもん。呆れもする。
かすみ「彼方先輩」
じとっとした目で二人を見ていると、不意にかすみちゃんから話しかけられた。
かすみ「彼方先輩が侑先輩を刺しちゃったことは、もうどうしようもないです。でも、こうして侑先輩は生きていて、もう一度同好会を復活させよう!ってみんなが一致団結してるんです。それでよくないですか?」
彼方「……それで、いいのかなぁ」
かすみ「いいんですよ。それを踏まえて、かすみんは部長として彼方先輩に命じます」
そう言うと、かすみちゃんは芝居がかった動きをした後、ビシッと指を私に向けた。
かすみ「同好会は、近江彼方を求めています!ですので、スクールアイドル同好会の一員になることを命じます!」
彼方「か、かすみちゃん……」
真剣な表情で言った後、かすみちゃんはくしゃっと笑った。その後、彼方ちゃんの手は握られ、かすみちゃんの方へと引っ張られた。
かすみ「これで、スクールアイドル同好会、完全復活ですよっ!」
彼方「うん……うんっ!彼方ちゃんも一緒に、スクールアイドルやりたい!」
それを口にした瞬間、体から憑き物が落ちた気がした。彼方ちゃん、こんなにも同好会が大好きだったんだなぁ……。
すると、侑ちゃんがこちらへと駆け寄ってきた。
侑「彼方さん、今まで色々とごめんなさい」
そうして侑ちゃんは土下座をした。彼方ちゃんも、謝りたいことはある。
彼方「こっちこそ、刺しちゃってごめんね。もうしないから」
歩夢「私が近くにいれば大丈夫ですよーっ!」
侑「歩夢は黙ってて!!」
彼方「あはっ、あはははははははっ」
笑いが心の底から溢れた。こんなにも笑ったのはいつぶりだろうか。嗚呼、やっぱりここは……居心地がいいね……。
侑ちゃんを土下座から立たせ、改めて向き直る。
侑「これからも、よろしくお願いします!彼方さん!」
手を差し出される。その手を取り、笑顔で言った。
彼方「うんっ!これからもよろしくね!侑ちゃん!」
こうして私たちは、再び手を繋いだ。
私たちは罪を犯す。過ちを犯す。でも、過ちをそのままにはしなかった。落としどころを見つけ、互いに許し合う。
同好会という居場所を大切に思う限り、何度だって手は繋ぎ直せる。そう思った。
おわり
栞子:
ランジュと付き合っている設定。自慰行為をしたことが無いが、内に秘める性欲とマゾ適性はピカイチ。だが、ランジュが奥手で手を出してくれないので、そこを侑に突かれる。侑によって自らの変態性を自覚させられ、マゾの適性が完全に開花する。
没理由:
りなりーと果林、侑が変態なのにもう一人追加したら読み味が似て単調になっちゃうから。というか、果林がマゾ設定なのでほぼ同じになる。
ランジュ:
栞子と付き合っている設定。性欲は強いけど人との距離感を上手く掴めないため、恋人の栞子に対しても奥手だった。そのため、なかなか関係が進まない。侑はその奥手な部分を突き、話術で巧みにエ●チな方へと事を運んでいく。
没理由:
奥手な心理描写は書きたかった。でも、九人にストーリー上の役割を与え、三人にさらにって考えると無理だった。ただでさえ愛さんが割を食っているのに……。
ミア:
14歳と言えば中学二年生。中学二年生と言えば思春期。それなら部屋に大量のエ●本があるに違いないので、それを侑に見つかる。最初は性への興味を否定するミアだったが、「音楽ではずいぶんお世話になってるし、こっちで恩返ししたいな」と言われ、「お、恩返しということなら仕方がないな!」と真っ赤な顔で返す。それからはとんとん拍子。
没理由:
ランジュの没理由と同様。それと、ただのゆうミアで書いた方が良さそう。
彼方:
同好会のカップル成立ブームにより、「彼方ちゃんも恋人さん欲しいなぁ……」と思うようになる。ある日、部室でいつものように寝ていると、侑がやって来る。そして寝ている彼方を確認した後、後ろから抱き着き「……彼方さん、好き、大好きです」と囁く。狸寝入りをしている彼方は(え~~~~っ!)と激しく動揺して侑を改めて意識するようになる。それからはなし崩しに彼方が落ちる。
没理由:
ストーリー上、刺す役割だったから。役割に殺された案。
読んでいただきありがとうございました。
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