善子「――九つ墓村?」第2話【大長編SS】
口から心臓が飛び出そうなほど驚き、悲鳴をあげ、背後を振り返る。
ルビィ「ピギッ!」
善子「なっ……ルビィじゃないの……」
そこには扉の前で怯えた様子のルビィがいた。驚いたのは自分のほうなのに。
ルビィ「びっくりしたぁ」
ルビィ「さっき座敷に行ったら、善子ちゃんがいないから探してたんだ」
善子「そ、そう」
ルビィ「ねぇ、そこで何してたの?」
翡翠のような瞳で善子をまっすぐ見つめて尋ねてきた。少女のような純粋無垢な目つきで。
善子「あ、あれよ……」
善子「物音がしたから、気になって見に行ったの。そしたらネズミがいたのよ」
とっさにごまかす。ルビィは、そうなんだ、とあっさり納得した。
ルビィ「顔を洗ったあと、朝ご飯を用意しているから母屋に来てね」
ルビィ「果南様を待たせてるから、ちょっと早めにね……」
善子「わかったわ」
どうやら果南とよしみは、夜中のうちに地下で何か用事を済ませたらしい。
夜中に行われる黒澤家の秘密の儀式――隠れキリシタンか、悪魔崇拝か?
妄想が膨らみ、ますます興味が湧いてきた。
先代当主黒澤ダイヤの初七日法要を明日に控えているからだ。
善子もなにか手伝おうと思い、ルビィに持ちかけたが固辞された。
ルビィ「善子ちゃんは当主だから、何もしなくていいんだよ」
確かに当主にはなったが、皆が忙しくしている中で座して待てといわれると何だか複雑な気持ちになる。
曜「おはようであります!」
いつもの明るい様子で訪ねてきた曜も、本家の法要の手伝いに駆り出されたということでまともにおしゃべりもできなかった。
果南「善子、今日は離れで過ごしておいで」
ついに善子は母屋からつまみ出された。
善子「……当主ってのも、あまりいいものでもないわね」
いつもの座敷の座卓について、東京から持ってきた天使大辞典を読み返して時間を潰す。
善子「ヨハネって使徒で天使じゃないのね……誰よ堕天使だって吹聴してるのは」
ページをめくり、何気なくつぶやいた。
納戸の仕掛けのことも気になるが、明るい時間帯に探検をしてしまうと、再びルビィに見つかるかもしれない。そのときはもう言い訳ができなくなる。
果南が当主の自分に秘密にしているということは、当然ルビィも知らないだろう。
結局、納戸の探検は家の者が寝静まった深夜に決行することにして、日中は大人しく座敷で過ごした。
母屋から懐中電灯を拝借し、玄関から靴を持ち出した。幸い、法要の準備で女中や出入りの者が行きかっている状況なので、善子の行動を注視する者は誰ひとりいなかった。
善子「さすがに寝間着では危ないわね……」
トランクケースから衣装を引っ張り出し、動きやすい服装に着替える。
善子「これでよし」
姿見に映る自分を見て、うなずく。
けがをしないように長袖シャツと、ぴったり肌に密着する九分丈のサブリナパンツ。靴はヒールではなくローファーを履いた。
座敷の明かりを消し、音を立てずしばらく過ごしてから、ゆっくり障子を開けて廊下へ出る。
物音が一切ない離れ。きっと法要の準備の疲れで、ルビィや果南、よしみも寝静まっているはず。
懐中電灯の明かりを頼りに納戸に入り、両手で箱を強く押した。
ガタン、という物音と共に奥へ滑り出す箱。そして現れたのは――
善子「やっぱりあった」
床下から吹き上げる風が前髪をなでる。そこには、人ひとりが入れる四角い穴と奥深くへいざなう石段があった。
善子「鬼が出るか悪魔がでるか、ね……」
覚悟を決めて石段に足を踏み入れた。地下から吹く冷たい風を受け、夏の暑さで火照った身体が一気に冷える。
床下より深くまで降りる。振り返って、真上を見上げた。
あの箱の裏に取っ手がついている。これで内側から閉じて穴をふさぐことができるようだ。
ルビィやよしみに見つからないよう、元通りに箱を戻しておいた。
善子「これで大丈夫ね」
さて、探検探検。懐中電灯片手に石段のさらに奥へ入っていく。
石段はだいぶ長く続いていたが、険しくはなかった。果南でも昇り降りができるだはずだ。
いちおうの用心として、女中のなかで最も信用できるよしみをお供にしているのだろう。
石段を下りきると、今度は奥へと続く横穴があった。
入る前に懐中電灯で照らしてみる。
善子「まるでドラゴンの口ね……」
穴の天井にはこの土地の地質のせいか、とがった円錐形の鍾乳石がぶら下がっていた。湿度が極端に高いのか、壁や地面が濡れていて光を当てるとテカテカと反射している。
善子「靴を履いててよかった」
判断が正しかったことを喜び、穴の奥へ進む。
しばらく歩き進めて気付いた。穴、もとい洞窟の奥から湿っぽいひんやりとした風を肌で感じたからだ。
この先に何があるのか、己の探求心に身を任せてみる。
針天井のような鍾乳石がある頭上と、足もとの水たまりに注意しながら懐中電灯が放つ光の環を頼りに進む。
善子「お、分かれ道」
だいぶ洞窟を歩いた先に、自然のいたずらで出来たのか洞窟が左右に分かれていた。
善子「ここは頭の団子に従って、右ね!」
いつもやってる習慣を信じて右の洞窟を選択し、歩いていく。少し上っては下り、再び分かれ道に遭遇すると右を選ぶ。
しばらく歩いていると、吹き込む風の音が強くなってきた。
どうやら外の世界と近いようだ、善子は直感する。
そのまま歩いていくと、草のツタが垂れ下がる洞窟の出口と思しき場所にたどり着く。
せっかくだから外に出てみよう、善子はのれんをくぐるようにツタをよけて洞窟を出た。
振り返ると、洞窟に垂れ下がるツタの上にしめ縄と紙垂がある。どうやらこれもミュウズ様の信仰となにか関係があるようだ。
どうやら道を間違えたみたい、善子はそう思った。
ここら一体には巨岩と木と草だけ。果南がお参りするような祠や偶像は見当たらない。
夜風で林の葉がこすれてざわめく音と、フクロウのようなものの鳴き声しかしない土地。
ここで果南の奇行の謎を解くことはできなさそうだ。
――帰ろっか。
すっかり手持ち無沙汰になった善子が、洞窟のツタに手をかけようとしたとき。
ガキン。
岩に何かを力いっぱい打ち付ける音が近くでした。
それは、何度か同じ音が一定の間隔を開けて規則的に聞こえてきた。明らかに自然の音ではない。
――誰かが、そこら辺の岩に何かをしている。
善子は背筋がぞくりとした。夜中にこんなことをしているのは、少なくとも動物ではない。
いま、善子の脳内では音の正体を突き止めるか、そのまま洞窟に入るかのせめぎ合いが繰り広げられていた。
その結果――懐中電灯を消し、音のする方向へ静かに近づくことにした。
徐々に音が大きくなってくると同時に、ぼんやりと明かりが見えてきた。そこには、ひとりの人間が巨岩に何かを振るっていた。
ランタンの光で浮かび上がってくる人間は、カーキ色の復員服を着た人物。両手にはツルハシを持って、岩にひたすら打ち付けている。
善子は腰を落とし、大きな草に紛れて何者か顔を確認できる位置まで近寄った。
そのとき人物はツルハシを置き、顔をあげて一息つく。
ランタンの明かりでその顔が浮かび上がってきた。
善子はハッと息を飲む。
黒髪を左にまとめ、たれ目で、胸と尻の大きな女。
――鹿角聖良だった。
いったい人目を避けて何をやってるのか。善子は戦慄した。
聖良「……ここはダメですね」
そうつぶやいて水筒の水を飲んでいる。
自分の脇にある大きな背嚢――英語でいうバックパックに近づき、水筒をしまうと何か手帳のようなものを取り出した。
聖良「――鬼の口の周辺、何も発見できず、と。理亞、もう少しですから……」
ランタンの明かりを頼りに口に出しながらペンを走らせ、この場を引き払うのか道具の片付けを始める聖良。
鬼の口?いま鬼の口って言ったよね……。
茂みに隠れている善子はこの単語を聞き、驚いて目を見開く。
それは母が生前、絶対に忘れないよう自分に強く言い聞かせていた単語の羅列のひとつ。そして渡されたお守り袋の中身の一部だった。
幼少期は何が何だかわからず、大人になっても日々の忙しさにかまけてすっかり記憶の奥底へ沈めていた。
それがよりにもよって、聖良のおかげで思い出すとは。
――どうやら、離れに戻って調べなければいけない用ができたみたい。
気が気でなくなった善子は急いでその場を去ろうと動き出す。それがまずかった。
パキッ、と小枝を踏みつけて折れる音が鳴った。
音に気づいた聖良がツルハシを拾い上げ、腰につけていた懐中電灯を持ち、周囲を照らす。
草木の隙間から見える聖良の姿に、善子は背筋が凍る。
右手に懐中電灯、左手にツルハシ。
もし見つかったら――自分の脳天にツルハシの先端が振り下ろされる様を想像した。
全身がガタガタと震え、心臓が高鳴り、悲鳴をあげたい口を押さえ、息を必死に殺す。
音の出どころを探す光の環がしばらく左右に動いたのち、主人の足もとへ戻る。
聖良「……狸か何かがいたみたいですね」
そうつぶやくと、背嚢を背負ってその場を立ち去っていった。独り言さえも丁寧語な彼女に何やら不気味なものを感じた。
善子「洞窟の周辺で何かを探してたみたいね……」
ツルハシによって砕かれた岩石たちを見てつぶやく。前に曜が言っていた、聖良が毎晩外を出歩いている理由がわかった。
田舎は噂が立つのが早い。だから深夜に人目を忍んで行動しているのだろう。
善子「……早く戻らないと」
なんだかまた聖良が現れそうな気がしたので、そそくさと離れる。こんなところでツルハシにぶっ刺さされる最期を遂げるのはごめんだ。
再び洞窟の入り口まで戻ったとき、改めてあたりを懐中電灯で照らしてみる。
洞窟の上には、角のようにそびえ立つ尖った大きな石灰石があった。
なるほど、鬼の口だ。善子はそれがここの地名だということを理解した。
そしてますますこの洞窟への探求心が湧いてきた。母の遺した言葉の正体がようやく姿を現そうとしている。
心躍らせながら洞窟に入り、来た道を戻って離れの納戸に着く。
調べ物は明日のお楽しみに取っておいて、寝間着に着替えると早々に布団に入って眠る。
こうして、善子の最初の地下探検は終わった。
ルビィ「おはよう、善子ちゃん」
翌朝、洗面所を出たときにすれ違ったルビィに挨拶をする。何食わぬ顔で声をかけてみたが、いつもの調子だった。
ルビィ「昼過ぎからお姉ちゃんの法要だから、よろしくね」
善子「わかった。昼食のあと、着付けを手伝ってくれない?」
ルビィ「うん、わかったぁ」
そのあと果南やルビィたちと母屋で朝食。午前は法要の準備で、当主の自分はまた大人しく離れで過ごすことになりそうだ。
――昼食まで誰にも邪魔されない時間ができた。
善子は足取り軽く、離れに戻っていった。
座敷の障子をぴったりと閉じて、東京から持ってきた例のトランクケースを開けた。
衣類や西洋のまじない道具が詰まった中身に手を突っ込み、まさぐったのち底から小箱を引っ張り出す。
それはフルール・ド・リスの模様があるアンティークの箱。箱のふたを開け、中に保管してあるお守り袋を取り出した。
生前の母から、絶対に無くさないようにという言いつけを守り続けたお守り袋は、ずいぶんくたびれていた。
厳重にとじてある口をゆっくり開け、中から木製のお札と紙片を取り出す。
そのうちの紙片を手に取り、ゆっくりと広げた。
善子「やっとこの謎がわかったわ、この洞窟の地形図だったのね!」
広げた紙に書き込まれていたものを見て、感嘆の声をあげた。
その折れ目がくっきりついた紙には、砂場で蛇が踊ったようにくねくねと道のようなものが複雑に書き込まれ、所々に地名のような名称がある。
その名称たちは、母がお守り袋と共に忘れるなと何度も言いつけていた、謎めいた歌と合致していた。
幼少期、眠りにつく自分に子守唄のように歌ってたことを思い出して、口ずさむ。
善子「――白玉の池、白衣観音」
口ずさみながら指で名称を追う。歌い終え、目をらんらんと輝かせた。
母が亡くなったあと、この紙片と歌を頼りに謎を解こうと挑戦したが、まったくダメだった。
その答えが、九つ墓村の洞窟にあったなんて。
ちなみに、聖良を目撃した鬼の口は洞窟の出入り口に相当する場所のようだ。紙片によると、この洞窟はかなり複雑で出入口となる穴も他に多数あるみたいだ。
善子「そういう……ことだったのね!」
感慨深げに紙片を見ていたが、歌と並べてある部分が欠けているのに気づく。
それは、最後に母が一番忘れるなといったフレーズ。
善子「――ウトウヤスタカ、がないじゃない」
紙片を逆さにしても、明かりに透かしても、その名称だけがない。
そもそも、これは地名なのだろうか。もしかして人名ではないのか――人名なら、母のことを知っている重要人物なのかもしれない。
法要のあと、ルビィにそれとなく尋ねてみよう。
そう決めた善子が壁掛け時計に目をやると、もう昼時になっていた。
もうすぐルビィかよしみが来る頃だ。
急いで紙片をたたみ、御守り袋に突っ込むと箱にしまって、トランクケースの奥深くに隠した。
訪問客は数十名にのぼった。沼津はおろか、静岡の近隣県からきたという客もいた。
法要は午後三時ごろから始まり、読経に焼香をして終わったのは五時ごろ。そこからお茶と会食の時間。
それがひときわ盛大に行われた。
果樹園の小作人や網元に世話になってる漁師、この家の奉公人たちは、台所そばの土間のへりに集まって無礼講の宴。
親戚や黒澤家と親しい者たちは、母屋の十二畳ふた間の大広間でお斎――いわゆる会席料理の膳がふるまわれる。
これらはみな黒澤家の女たち、果南とルビィが中心となって料理から盛り付けの一切を指図する。
台所では二十人の客に出す会席膳をつくるため、女中たちがせわしなく台所と広間を行きかっていた。
ルビィ「出来上がったら、すぐにお座敷に持って行って」
よしみ「はい」
見た目こそ幼く気弱なルビィだが、人の出入りが激しいなか落ち着いて正確に指示を出す。
よしみをはじめ多くの女中がてきぱきとこなすなか、ある金髪の女が台所に姿を見せた。
――黒いアフタヌーンドレスを着た小原鞠莉だった。
ルビィ「……あ、鞠莉しゃん。どうしました?」
手を休め、鞠莉のほうへ近寄る。すると頼み込むような口調でこう言った。
鞠莉「この家で最もシャイニーなミカンのシロップ漬け、味見してもいい?」
ルビィ「ぅゅ……」
鞠莉「ね、お願い!」
手伝いに来たのではなくつまみ食いに現れた鞠莉に面食らうルビィ。
しかし、料理が絶望的に下手くそなので手伝いは無理だとわかっていたため、頼みを聞き入れた。
ルビィ「そこに作り置きがあるので……よかったら」
鞠莉「ありがとうルビィ!この家のは日本のどこよりもおいしいの」
目を輝かせて感謝すると、さっそく作り置きからよそってつまみ食いをしていた。
その様子に苦笑するルビィ。ちょうどそこに広間から曜やってきた。
曜「ルビィ様、なにかお手伝いしましょうか?」
ルビィ「あ、じゃあみんなと配膳と盛り付けの手伝いをお願い」
曜「了解であります」
こうしてほとんどの会席膳を用意していった。
ルビィ「あ、曜ちゃん。善子ちゃんをここに呼んでくれるかな?」
ルビィ「お客様にお膳を運んでほしいんだぁ」
残ったふたつの膳を指でさしたとき、女中に呼ばれたのですぐに背を向けた。
よしみ「ルビィ様、これはどちらに……」
ルビィ「ああ、それはあっちだよぉ」
曜「了解であります!」
忙しそうなルビィに笑顔で承諾し、善子を探しに台所を出ていった。
一方、善子は広間を出た縁側に腰かけて自分の足を労わっていた。昨晩の洞窟探検と今日の法要で長い正座をしたことで一段と厳しく痺れている。
さらに着慣れない黒い紋付の着物を着ているせいか、なんだか息苦しさもあった。
――だって、呉服を着れる生活したことないんだもの。月給一万円よ、私。
そう自分に言い訳をし、足袋を履いた足をもんでいた。
曜「善子ちゃん……あ、しびれちゃったの?」
善子「まあね……」
そこへ呼びにきた曜が声をかけてきた。見上げると、黒のスーツを着ている。
ああ、私も洋装が良かったな、と思った。果南がきっと許さないだろうが。
曜「……都会のひとは大変だよね。ま、私も正座は苦手だけど」
曜「善子ちゃん、ルビィ様が呼んでいたよ。お膳を運んで欲しいって」
善子「わかったわ」
すくっと立ち上がり、廊下を進もうとする。
曜「こっちがいいよ、玄関からのほうが台所に近いから」
善子「ありがとう」
曜に先導してもらい廊下から玄関を横切ろうとすると。
善子「あれ、玄関に誰か……」
足を止めて目を向けると、スーツ姿の女性が今まさに帰ろうとしていた。
誤字がありました。
昨晩の洞窟探検と今日の法要で長い正座をしたことで一段と激しく痺れている。
です。
その人物に元気よく声をかける。彼女はゆっくり振り向き。
むつ「はいはい……これは下屋のお嬢様、それに善子様……」
校長は人あたりの良い笑みを浮かべ、杖を支えに曲がった腰を少し伸ばして一礼した。白くなった髪の毛を後ろにまとめた額の大きい彼女から、長い教員歴を感じる。
この家の当主として、慣れない敬語を使って見送りに立つ。
善子「もうお帰りですか?いま、お食事をご用意しておりますのに――」
むつ「いえ、そうしていると遅くなります。私はもう年寄りですので……今日はこれで失礼させていただきます」
曜「善子ちゃん、あとでお食事を届けさせたらどうかな?」
後ろで助言をもらった。
善子「あっ、そうしましょう。うちの使いの者にすぐ届けさせますので……」
むつ「ありがとうございます」
校長のむつは小さく頭をさげたのち、あたりを見回すと、善子の前に一歩踏み出してこう小さくささやいた。
むつ「善子様、一度私のとこへお出かけください。あなたにお話があります――」
むつ「――あなたの身の上について、たいへん重要なことを知ってます」
驚いた善子が何も言えずにいると、さらに話を続けた。
むつ「……このことは、私のほかに寺の住職様しか存じないことです。では、明日にでも……お待ちしております」
校長はスッと善子から離れると、まじまじと見つめたのち、わざとらしく大きく頭を下げると玄関を出て行った。
善子「……」
家路につく校長の背中を、善子はしばらくボーッと見ているだけだった。
どうやら自分に内密な話をしてくれるらしいが、いったい何だろう。結局わからないまま、ハッと気が付いたときには彼女の姿は見えなくなっていた。
曜「善子ちゃん、校長先生は何て?」
いつの間にかうしろに曜がいた。青い瞳をこちらへ向け、そう尋ねた。
善子「あ、うん……なんか、お話があるから明日、家に来てほしいんだって」
曜「そうなんだ、先生の家は海沿いだよ。でも、善子ちゃんに何の話があるんだろうね?」
善子「さぁ……」
しばらく首をかしげていたが、ルビィを待たせていることを思い出し、すぐに台所へ向かった。
校長が先に帰ったことと、あとで食事を届けるよう頼んでおく。
ルビィ「先生、帰ったんだぁ……そっか、じゃあ誰かにお願いしておくね」
女中に台所で用意するよう指示を出した。
ルビィ「じゃあ善子ちゃん、このお膳をお客様にお出ししてくれる?」
善子「わかった」
ふたつ並んだ会席膳に目をやる。
善子「えっと、どっち?」
ルビィ「どっちでもいいよ、同じだから」
迷っている善子にいう。
とりあえず、いま目についたお膳を持った。ルビィを連れて、皆が待つ広間へ入った。
広間には右に客人、左に家人が対面するよう一列に座っていた。
左には黒澤家当主の自分を筆頭に、果南、ルビィ、聖良、鞠莉、渡辺家当主に曜という席順。
一方で右には村長以下、村の主だった人物たち。その中に、高海千歌がいた。
なんでも高海家の女将の代理で、だそうで。
善子が会席膳を持って広間に入ったとき、目が合って笑顔をみせた彼女。
ちょうど用意されていなかったので、何気なく千歌の前において、頭を下げた。
そしてルビィと共に席について、お斎のご挨拶をする。
善子「それでは。何もありませんが、どうぞご遠慮なく――」
酒と飯のお代わりに女中たちがせわしなく動き回る。
善子「おひとついかがです?」
千歌「あ、善子ちゃん。じゃあ、お願いしよっかな」
お酌とご挨拶にまわってきた善子に、元気よく応じて杯を持った千歌。曜に似て気さくな性格が口調に表れていた。
傍らにあった徳利を手に取り、杯に八分目まで注ぐ。
注ぎ終えるや、千歌はすぐに飲み干した。食べっぷりもそうだが、飲み方も豪快である。
老舗旅館の淑女というより、女傑のような風格があった。
千歌「あっ、そうだ。善子ちゃんはミカンのシロップ漬け食べたー?黒澤家の名物なんだよ」
会席膳に箸休めとして出されている小鉢のことをいった。
善子「いえ、まだ……」
千歌「山のミカンはそのままでも美味しいけど、シロップ漬けにするともっと美味しくなるんだ。酸味がやわらかくなって……とにかく食べてみてね!」
そういって、小鉢からミカンをつまんでひとかけらを口に入れた。
千歌「なんか苦いのだ……」
千歌「……あっ!何でもないよ!ご返杯するね」
善子を前にしていることに気づき、微笑を浮かべて徳利を手に取る。それに応じ、杯を前に出す。
が、なかなか酒を注いでくれなかった。
それどころか、徳利を持つ千歌の腕が小刻みに震えて、差し出した杯にあたってカチカチと音が連続して鳴っていた。
気になった善子は手元に向けていた視線を千歌の顔へと移した。
善子「……あの、どうしました?」
善子「なんか顔色が……」
そう呼びかけるも千歌は無言だった。だが、徐々に目を見開き、青白い顔が一気に赤くなった。
千歌「うっ、グッ……ガァ……」
うめき声を絞り出し、徳利を取り落とす。片手で畳に手をつき、右手で胸をはげしくかきむしる。
曜「千歌ちゃん!どうしたのッ!」
その叫びに、会食中の広間の空気が一気に凍り付いた。
聖良「私が水を!」
とっさに立ち上がり、数名と共に広間を飛び出して台所へ。ほかの者たちは恐れおののいて、硬直するか席を立ち上がってうろたえていた。
曜「千歌ちゃん、千歌ちゃん!しっかりして!」
駆け寄った曜が千歌の背中をさすって呼びかける。ちょうど聖良が水を持ってきたころには。
千歌「グゥ……ガァアア!」
畳を引き裂くかのように激しくひっかき、身の毛がよだつ恐ろしい断末魔をあげて、突っ伏した。
そして何度か大きく痙攣したのち、ピクリとも動かなくなった。
きゃあ、と誰かが大きな悲鳴をあげ、恐ろしさのあまり広間を飛び出す者も出た。
善子も腰が抜けて、その場にへたり込んでしまっている。
鞠莉「曜、カバンを持ってきて!」
その声を聞き、曜は必死の形相で広間を出て行った。
鞄を受け取った鞠莉が、注射を何本か千歌に打ったが。
鞠莉「……だめ、だめよ。もう……」
千歌の死を宣告する。とたんに、声にならない声をあげた曜が亡骸にすがりつこうとするが、父親が制止した。
善子「あ……あぁ……」
――自分とかかわった人間が目の前で殺された、しかも三度目。
深い深い闇の底へ落ちていくような感覚がし、目の前が真っ暗になった。
けたたましくサイレンを鳴らし、砂ぼこりを巻き上げて走る米軍払い下げのジープに乗る絵里は、助手席で叫ぶ。
それに同乗する海未は後部座席で揺られながら、沈黙していた。
すでに日が落ち、九つ墓村には夜のとばりが下り始めている。
絵里と海未、駐在所に詰めていた警官と刑事たちが乗る二台のジープは黒澤家の門に到着。
降りたころには、すでに暗くなっていた。
絵里と警官たちが続々と入っていく中、門の前で海未は立ち止まって巨大な屋敷を見上げる。
この家は何かどす黒い影に包まれているような、なんともいえない不気味さを感じた。
海未「……」
正面に向き直り、玄関へ歩を進めた。祟りなどという迷信、あってたまるものか。
絵里の厳命で広間は事件当時のまま保存され、一時間後に沼津から警官と鑑識官が到着して検証と捜査が始まった。
絵里「やはり毒物は青酸カリね――」
絵里「――小鉢のミカンのシロップ漬けに致死量相当の量」
絵里「あの膳に、ね」
鑑識官から報告を受けた絵里はちらりと、千歌が座っていたほうへ目をやる。
一列の会席膳なかで最も散らかっているものがひとつあった。一部の食器は下にこぼれ落ち、畳に中身をぶちまけてシミをつくっていた。
乱闘でもあったかのような荒れように、相当苦しんだろうなと絵里は同情する。
絵里「今度は十千万の女中……今までの被害者たちといったい何の関係があるのよ。気違いの仕業としか思えないわ」
絵里「ねえ、海未――」
絵里「ちょっと、何やってるのよ」
見識を訪ねようと、海未を見た。すると、彼女は身をかがめて膳のひとつひとつに注目しては、何かを手帳に書き留めていた。
海未「気になるところがありまして――」
海未「――いいでしょう。絵里、みなさんを呼んでください」
絵里「なにをするつもりなの?」
海未「ある疑問を解消するための、検証です」
そういって、絵里にふたつの質問をするよう頼む。
最後の質問に対して、絵里は不審な顔をしたが、なんとか説得した。
絵里「これで全員ね?」
確認をとったあと、皆にこう尋ねた。
絵里「――千歌のところに膳を届けたのは、誰ですか?」
一瞬の静寂。そののち、憔悴しきった顔の善子が手をあげた。
善子「……私よ」
絵里「またあなたなのね……」
怪訝な顔でいう。が、すぐに質問を続けた。
絵里「私たちが調べた結果、小鉢のシロップ漬けに毒物が見つかりました」
絵里「この中で、小鉢に手を付けていない膳がひとつ、あったのです」
絵里「なんでもシロップ漬けは黒澤家の名物だとか。この料理は周辺でも評判のものらしいですが一切、食べていない――」
絵里「――その膳に座っていたのは、誰ですか?」
鋭い目つきを向けた群衆のなかで、名乗り出る者がいた。
善子「私よ。昔からミカンが嫌いだから……」
絵里「またあなた……」
いよいよ顔が険しくなった。そして、ふたりの刑事にこういった。
絵里「津島善子を任意同行してちょうだい」
すぐに刑事が両腕をがっちり掴む。驚いた善子は身をよじらせ、叫ぶ。
善子「んなっ……私じゃない!」
絵里「詳しいことは駐在所で聞くわ」
善子「放してよ!私は何もしてない――」
海未「――絵里、待ってください」
そこでようやく探偵が口をはさんだ。
海未「この家の誰もが手を付ける料理でかつ、毒物の風味を隠せるものを選び、確実に毒殺できるよう仕向けた計算高い犯人が、自ら疑いの目を向けられるようなことを放置するでしょうか?」
絵里「……単にミカン嫌いだからじゃないの?」
海未「でしたら、箸で盛り付けを崩すなどの細工をするはずです。疑われたくないので――しかし、善子の小鉢はそのような形跡が全くないのです」
絵里「確かに……」
海未「いま決めつけるのは早計です。調査を続けましょう」
絵里「そうね。いったん放してやって」
海未から助け舟をもらい、善子は拘束を解かれた。
しかし、疑いは晴れた訳ではない。毒を仕込んだ膳が偶然、自分に回ってきたために手を付けなかったという面も考えられるからだ。
絵里「――全員の取り調べをするわよ。善子、あなたにはじっくり聞きたいことがたくさんあるから、私がやるわ」
ふりかかった不幸はまだ続くようだ。
以前のふたつの事件では、犯人の所在が不明だったが、今回の件は違う。
――この冷酷で尋常じゃない毒殺犯は、この屋敷の中にいる。
梨子、ダイヤ、そしてたったいま千歌を殺害した犯人は善子のすぐそばにいたのだ。それを考えると、恐ろしくて身震いする。
捜査で分かったことだが、出された料理は法要の読経の時間に作り始めたそう。
その最中、台所にはいろいろな人間が水を飲みに来たり、コップや急須を取りに来たりと人の出入りが激しかったらしい。
ゆえに、調理しているルビィや女中たちはそのとき誰が何をしていたかということは詳しく分からなかった。
つまり、この屋敷にいる人間は誰でも毒を仕込むことが出来たことになる。
そのせいか、取り調べは激しく、深夜にまで及んだ。
特に絵里は善子にずっと目をつけているからか、次々と人を毒殺していく犯人であるという固定観念を持ち、何度も自白するよう詰め寄った。
強い気迫で迫ったあとは、猫なで声で諭す――それを繰り返す絵里の前に、善子は疲労と眠気で徐々に判断力が失われていった。
自分はあの男の血が流れている。自分自身の知らぬ間に、無意識に狂気の部分が発現し、千歌の膳に毒を入れたのではないか。
こんな妄想を抱き始め、思わずありもしない罪を自白しそうになった。
そのとき助けてもらったのは他でもない海未だった。
海未「絵里、私が思うに……この事件は誰が犯人であるかに問わず、今日この場で解決できるとは思えないのです。なぜなら、動機が全く見えてこない……」
海未「梨子の件、ダイヤの件でも、動機が有るように見えても、つなげてみたら無いようなものです」
海未「そして今度の千歌の件、これはかなり難しい……。前のふたりとは関わりを全く持っていないんです」
海未「誰にいきわたるかわからない会席膳に毒を盛り、偶然それを手に取った善子がたまたま千歌に置いた結果、こうなった。はっきり言って無意味な殺人を犯人はやったんです」
海未「犯人は何をたくらんでいるのか、標的を選ぶ基準は何なのか――それがわかるまで急がずに構えておく必要があると思いますよ」
そのときの海未は東京で抱いた印象とは全く違ってみえた。
絵里はため息をつき、腕時計を見て。
絵里「そうね……」
絵里「二十四年前の事件は大きいが単純な事件だったわ。でも、今回の事件は小さいながらも複雑に絡み合って、前の事件以上に難解ね――」
絵里「――親子二代にわたって、本当に厄介なことだわ」
善子に向けて悪態をつくと、警官たちに撤収するよう指示を出した。
去り際に海未が労わりの言葉をかけてくれたが、疲労のあまり生返事で返すだけだった。
こうして黒澤家から警官たちは去っていき、同時に足止めを食らっていた客たちも帰っていった。
その中でも、大変憔悴していた者がふたりいた。
ひとりは渡辺曜。目の前で意中の幼なじみを失い、生気のない目で当主の父親に抱えられながら玄関を出て行った。
もうひとりは小原鞠莉。この事件の直前、台所で問題のシロップ漬けをつまみ食いしていた証言が出たため、薬学知識のある彼女も絵里から嫌疑をかけられ、苦しい立場に追いやられたそうだ。
それ以外の客は、逃げるようにコソコソと帰っていき、この広い屋敷は誰ひとりいないかのようになった。
そんなわびしい母屋の広間で、善子はただひとり、何もすることもなく畳に座り込んでいる。
ただぼんやりと座ったまま、あたりを見回す。すでに膳は片づけられ、奥の台所で洗う音がするも、人の話し声などは一切なかった。
きっと自分を気にして、よしみら女中たちは事件のことを小声でヒソヒソと話しているのだろう。中には口に出さずとも、自分を毒殺犯として疑っている者もいるはずだ。
善子「やっぱり、私は孤独なのね……」
慣れているつもりだったが、こうも誰ひとりとして自分を心から気遣ってくれる人間がいないというのは、こうも辛すぎるのか。
切なく悲しい思いが善子の心に満ち満ちてきて、じんわりと目尻に熱いものがこみあげてきたそのとき。
そっと肩に手をやった者がいた――ルビィだった。
ルビィ「……善子ちゃんはもうひとりじゃないよ」
ルビィ「誰がなんといってもルビィは善子ちゃんの味方だよ。だって、お姉ちゃんなんだもん」
ルビィ「だってルビィは信じてるよ……ううん、知ってるの。善子ちゃんはそんな恐ろしい人間じゃないって」
やさしく抱きすくめられ、慈愛に満ちた言葉をかけられ、ついに緊張の糸がきれた善子はルビィの小さな身体にすがりついた。
善子「私がこの村に来たのがいけなかったの?もし、そうならすぐにでも東京に帰るわ……!」
ずっとせき止めていた思いがあふれてきて、言葉にして出す。
ルビィ「ダメだよそんなこと言っちゃぁ……東京に帰るなんて。だって善子ちゃんの家はここなんだもん、いつまでもいていいんだよ」
善子「でもルビィ。私がここに来たから、あんな恐ろしいことが連続して起きるんだったら、もうここには居られない!私とあの出来事、いったい何の関係があるっていうのよ」
ルビィ「善子ちゃん」
声を震わせてこういった。
ルビィ「そんなこと考えないで。善子ちゃんとあの事件とは一切、関係ないんだよ?」
ルビィ「お姉ちゃんのことで分かってるでしょ――善子ちゃんがいつお姉ちゃんの薬箱の中に毒を入れられたの?ここに着いたばかりなのに……」
善子「でも……でもッ……!警察はそんなこと考えてくれないの……」
ルビィ「みんな気が立ってるんだよ、二十四年前のことを思い出して。落ち着いてきたら、誤解だってわかってもらえるはずだよ」
ルビィ「だから、悲観したりヤケを起こしたりしないで……ね?」
善子「ルビィ……!」
優しい姉に何か言おうとしたが、言葉につまった。それを察したのか、包み込むように善子の手を握ってくれた。
ようやく心の平穏を取り戻した善子はルビィに感謝の言葉を述べ、離れに行って床についた。
こうして、恐ろしい思いをした夜は更けていった。
昨晩の恐ろしい体験、疲れ切ってもなお続いた警察の取り調べ、これらを思い浮かべると起き上がることさえ億劫になっていた。
ああ、今日もまた絵里と警官たちがやってくる。そう思うと、ますます起き上がることができない。
しかし、起きなくては。今日は秘密の話があるという校長先生のもとへ行かなければいけないから。
もしかしたらその大事な話――事件解決の糸口になるかもしれない。現状を打破する希望のように感じた。
とにかく起きて、行かなければ……。
自身に気合を入れ、上体を起こす。
警官たちが来ると、今日一日は家を出られないだろう。善子は朝食をとったらすぐに出かけることを決めた。
ルビィ「おはよう善子ちゃん。気分はもう大丈夫?」
善子「おはよう、もう大丈夫だから」
笑顔で返すと、よかったぁ、とルビィは嬉しそうにいった。
ルビィ「今日は朝早くから果南様がよしみと海へお出かけしてるから、ふたりで食べよぉ」
善子「わかったわ」
元から村の人間で、ルビィが生まれる前から小学校の教員で母の先輩だった。素性も明らかで性格は温厚、村人たちからも慕われてるということであった。
さらに、ここら一帯の洞窟を以前調査していたことも判明した。
これは善子にとって安心できる情報だった。この家の者以外、村人のことは花丸しか知らず、排他的で攻撃性が強いと思い込んでいたからだ。
――洞窟のウトウヤスタカとは何か、その答えをむつは持っているかもしれない。
自分がむつに招待されたことをルビィに話す。
ルビィ「ふうん、校長先生が何の用なんだろうね……」
善子「わからないわ。でも、自分のことだから行くつもりよ。それに、絢瀬と警官が来たら出られなくなっちゃうし」
ルビィ「……気を付けてね」
不安げにいった。その声色から、自分を外に出したくないようだ。しかし、引っ込み思案なルビィは無理に引きとめるようなことはしなかった。
善子は期待に胸を膨らませ、九時ごろ家を出た。
ルビィや曜から聞いたむつの家は、山あいの上屋からずっと下った海沿いにある。その距離は遠からず近からずという感じだった。
善子はなるべく村人に会いたくないので、山のふもとづたいにわざと遠回りをすることにした。
動きやすい半袖シャツと身軽なパンツを履いて、善子は砂利道を歩いていく。
そばの雑木林からは鳥とセミの鳴き声がにぎやかに聞こえ、木々が風にそよぐ音が心地よい。村の畑には鈴なりのナスや獅子唐が実っていた。
善子「こうしてみると、本当にのどかな村ね……」
あんな事件さえなければ、静養に訪れてもいい場所だと思った。
歩くことおよそ三十分。海沿いの集落のなかで、よく目立つ大きな屋敷が見えてきた。これが下屋、曜の家である。
どうやら今歩いている道は、集落へ入って下屋の裏口の前を通っていくようだ。
善子「もしかしたら、曜に会えるかもね」
なんて思ったが、昨日の一件で相当悲しんでいるはずだ。どう慰めの言葉をかけていいかわからないので、会いに行くのはやめておこう。
そんなことを考えながら下屋の壁沿いに歩いているとき――
「おいッ!どこへ行くずら!」
不意に何者かが金切り声をあげた。
大食いの尼だ。
なにやら大きな風呂敷包みを背負っていたが、善子の姿を見るや勝ち誇ったかのように背筋を伸ばし、こう叫んだ。
花丸「帰れ、帰れ、帰るずら!お前は上屋から一歩も外に出るんじゃない!」
花丸「お前の行く先には必ず血の雨が降る!今度は誰を殺しにいくんだ!」
いつものように口角をあげて叫び続け、行く手をふさぐかのように善子の前に立ちはだかった。
怒りがふつふつと湧いてくる。
善子「……どいて」
自分でも驚くくらい低い声で言い、花丸をにらみつけながら脇をすりぬけようとした。
しかし花丸は両手をバッと広げて立ちふさがる。善子が右へ行けば右に、左に行けば左と、背中の風呂敷包みを揺らしながらクソガキめいた通せんぼをする。
花丸「通さん、通さんぞ!一歩も通さないずら!さっさと荷物をまとめて村から出ていけ!」
もう我慢の限界だった。善子は力づくで押し通ることにした。
対する花丸は、がっちりと善子の左腕にしがみつく。タコのように絡みつく感覚を不快に思った善子は渾身の力をもって、振りほどいた。
花丸「ギャッ!」
力いっぱい振りほどいた勢いで、大きく体勢を崩した花丸はそのまま下屋の白壁に叩きつけられ、尻もちをついた。
そのはずみで風呂敷包みも地べたに落ち、中から野菜や米、のっぽパンがバラバラと落ちた。
花丸は一瞬、驚いていたが唇をわなわな震わせ、大声で泣き出した。
花丸「あああ!人殺し!誰か、誰か来てぇ!」
その声を聞きつけ、下屋の奉公人や周囲の家から漁民の男たちが飛び出してきた。
男たちは善子を見ると驚いた顔をしたが、すぐに眉をひそめる。それを見て、善子にとってかなりまずい状況だということがわかった。
花丸「そいつは人殺しずら!はやく駐在に突き出してくれ……ああ痛い、痛い!」
花丸がわめき散らすなか、男たちは無言で善子を取り囲む。こっちが何かしら動けば、いっきに飛びかかろうとする勢いだ。
善子「……」
切羽詰まった状況を前に、脇の下から嫌な汗がたらたらと流れた。ろくに理性もない連中に事情を説明しても、無意味であるということは彼らの顔つきからとうに察した。
じりじりと、男たちは善子との距離を詰めてくる。
万事休すであった。
「なにやってるのッ!」
そんなとき、下屋の裏口から力強い声と共に出てきた人物がいた。
曜だった。
取り囲んでいた男たちを簡単に押しのけ、曜は善子の前に立つ。
曜「善子ちゃんを一体どうするつもりッ!」
今まで見たことのない凄まじい気迫で男たちに問いただす。
気圧された男のひとりがモゴモゴと何かを言ったが、曜にはまったく聞こえなかったようで。善子のほうへ振り返ると。
曜「善子ちゃん、何があったの……?」
手短に事情を話すと、曜は呆れと怒りが入り混じった声で。
曜「ハァ……そんなことだろうと思ったよ。普段はあんなにバカにしている尼のいうことを信じて、寄ってたかって卑怯じゃない」
曜「ほら、事情がわかったなら、さっさと帰って!」
そういったが、何人かの漁師が食い下がってきた。すると曜は眉間にしわを寄せて。
曜「……だったら、私を相手にする?」
男らの前に一歩踏み出し。右足を後方へ下げ、脇を締めて、拳をつくって戦闘体勢をとった。元軍人で常に身体を鍛えていた曜は女とはいえ、相手にするとただでは済まないはずだ。
とたんに怖気づいた男たちは、首を縮めてスゴスゴと退散していった。
味方を失った花丸も、泣きながら飛び散った食べ物をかき集めて、その場を逃げ出した。
ふっ、と肩の力を緩めると善子にいう。曜の恰好はテニス選手が着るような身軽な姿だった。
完全にいなくなったのを確認したのち、体勢を元に戻す。彼女の背中がこんなに頼もしかったとは。
善子「……ありがとう。助かったわ」
曜「礼には及ばないよ」
曜「それで、こんなところまでどうしたの?」
心配そうな顔で尋ねてきたので、校長の件を話した。
曜は思い出したようで、少し考え込んだあと。
曜「ねえ、よかったら校長先生のところまで送っていくよ。また村人に絡まれたりしたら大変だからねー」
善子「本当?大丈夫なの、その……千歌が……」
遠慮がちにいう。昨日の様子から、ずっと屋敷でふさぎ込んでいるのではないかと思っていたからだ。
ちょっと驚いた顔をした曜だが、小さく笑みを浮かべたあと静かにこういった。
曜「……犯人は許せない。でも、ずっと引きこもってたら千歌ちゃんが悲しむから。」
曜「自分は元気が取り柄だから、こう海沿いを走って、いろんなこと吹き飛ばして……千歌ちゃんに元気だって見せたかったんだぁー」
曜「そしたら善子ちゃんがいたの」
曜「だから気にしないで。ほら、一緒にいこう!」
善子「そう……じゃあ、お願いするわ」
曜「お安い御用であります!」
あんな経験をしたので、曜が一緒に来てくれるのはとても頼もしかった。
寄せては来る波の音と、少しツンとくる潮の匂いが海に来たという実感を善子に与える。
善子「落ち着くわね……」
曜「でしょー」
さっきの乱闘寸前の緊張状態からようやく平穏を取り戻した善子。ふと、花丸につかまれた左腕に目をやる。
善子「あ……」
小さな声をあげ、ひどく落胆した。上屋を出るとき腕につけていたブレスレットがないことに今、気づいたのだ。
――きっと花丸に奪い取られたか、あの場所に落としてきたんだろう。
あれは義父が買ってきた自分へのプレゼント。大事にすると誓い、戦中の金属供出にもこれだけは出さなかった。
取り返せるものなら取り返したいが――傷心の曜に余計な問題を抱えさせるわけにはいかず、あの村人たちや花丸と対峙することを思い浮かべると、足がすくむ。
結局、あきらめることにした。心の中で義父に謝罪する。
善子「……」
つけていた左手首を片手でさすり、ため息をついた。その様子に曜が気づく。
曜「どうしたの?」
善子「えっ、な、何でもない……」
曜「……本当に?」
善子「ええ。何でもないわ」
曜「そっか」
何とかごまかせたようで安心した。
それからしばらく一緒に歩いていると、むつの家が見えてきた。
善子「わかったわ」
むつの家は海岸から少し歩いたところにある、藁葺きの小さな家。障子の玄関で、左には開いた雨戸の縁にせり出した縁側があった。
玄関の障子や周囲のきれいな様子から、毎日掃除を欠かせないのだろう。そういう性格なのかもしれない。
善子「校長先生、いますか?黒澤の善子ですー」
善子「お話を聞きに来ました!」
生垣の門をこえて呼びかけるが、返事がない。
善子「……あれ?」
しかも、その家には妙な点があった――すでに外が明るくなっているのに部屋の電気が点いていたのだ。
善子は不思議に思う。すでに太陽はのぼっている時刻で、山奥とは違い海沿いの開けた土地にある家だから暗い感じはしない。
――まだ寝ているのか、朝食の最中かな。
善子「先生、お邪魔します……」
そう思った善子は控えめに声をかけながら、玄関の障子を開ける。
善子「先生、善子です。いませんか――」
土間に立って、家の奥を覗き見た。そこに広がる光景を見たとき、背筋がゾッとして唇がわなわな震えた。
善子「――ヒィッ!」
腰が抜け、その場にへたり込む。その拍子に背を玄関の引き戸に激しくぶつけた。
うつぶせで畳に倒れ込み、顔の半分をこちらに向けている。彼女は生気のない目を見開き、口を大きく開けて苦悶の表情をつくっていた。
そのすぐ脇には、ひっくり返った椀や皿が散らばっていた。この膳は昨日、法要で出した黒澤家の膳だというのはすぐわかった。
恐らく昨晩、届けられた会席膳を口にしてすぐ毒にやられたのだろう。だから電気が点いたままだったのだ。
そして、彼女の周囲には黒いシミが点々と畳についていた。まるで何かがうろついたような痕跡があちこちにある。
この毒殺犯は見境なく人を殺していくのか。善子は膝がガクガクと震え戦慄した。
――お前の行く先に必ず血の雨が降る!
今更ながら花丸の口走った言葉が轟くように脳裏に響いていた。
曜「善子ちゃん、どうしたの!さっき大きな音が……」
善子「あ、あ……先生が……」
曜がさっき音を聞いて玄関に駆け付けてきた。手を借りて引き起こしてもらった善子は言葉を詰まらせたまま、指で奥を指し示す。
曜「先生……!」
善子の指を目で追った曜は、驚愕から戦慄へと表情を変える。もう生きていないとすぐに察したようだ。
曜「……ここから東に四軒先を行ったところに駐在所があるから、早く呼んできて」
善子「わ、わかったわ!」
急いで玄関を飛び出し、駐在所へ向かう。
このとき、むつの近くにあった奇妙な紙片の存在を、善子はまったく気付いていなかった。
善子「……」
現場に立ち、遺体を目にした絵里はいかにも怪訝そうな顔で善子にいった。
駐在に駆け込んだ善子の報を受け、絵里が警官たちを引き連れて海沿いのむつの家に急行した。
海未「ま、また事件だそうですね」
十千万から自転車を借りて海未も駆けつけた。
そして――
鞠莉「遅くなってしまったわ……隣の街にまで診察に出ていたもんだから」
検視として絵里に要請された小原鞠莉がきた。彼女の恰好は初対面や法要の時とは違い、ちゃんと白衣を着ている。
鞠莉「ほらやっぱりぃ……またあの事件の続きですか?」
絵里「わからないわ。さあ、初めてちょうだい」
鞠莉「はい……」
心なしか声に元気がない。キョロキョロとしていて、何だかおびえているように感じた。
ダイヤの毒殺を見抜けなかったという点と、千歌が悶絶死する前にシロップ漬けをつまみ食いしたことで絵里から容疑者として取り調べを受けた点――それを入れても、鞠莉の様子には何だか違和感を覚えた善子だった。
早速、むつの検視を始める。
海未「やはり、毒ですか?」
鞠莉「そうみたい。解剖しないとわからないけど、おそらく同じものだと思う……」
絵里「死亡時刻は?」
鞠莉「詳しくは……だいたい十四から十五時間という感じよ」
絵里「そうすると、昨日の夕方、日の入りのあとに膳のものを食べて死んだ、ということになるわね……」
腕時計を見た絵里は天井の照明に目をやる。昼頃まで座敷の電気がつけっぱなしだった理由がわかった。
絵里「つまり夜に届けられた膳に、すでに毒が入っていた。そして広間の騒ぎを知らない校長はそのまま食べて、死んだのね」
鞠莉「……」
絵里「千歌の次は校長……矢継ぎ早に人を毒殺していく。異常よ、本当に」
頭を抱えて愚痴をこぼしたあと、善子を見た。その目つきは相変わらずで、いやな気分になった。
海未「なるほど、なるほど」
一方、海未はあたりを慎重に見回して手がかりを探す。足元にある黒いシミに注目して、顔を近づけて目線を追う。
海未「……おや、これは?」
その追跡の最中に、声をあげた海未。
散らかった膳の近くに置かれた、折りたたまれた紙片が目に入った。
誤字がありました。
一方、海未はあたりを慎重に見回して手がかりを探す。足元にある黒いシミに注目して、顔を近づけて目線で追う。
です
紙片を拾い上げ、広げたとたんに興奮して叫ぶ。その場にいた全員が一斉に海未のほうを見た。
絵里「大声をあげて、いったいどうしたの?」
海未「あっ、これは失礼しました……」
海未「ですが、見てください!この紙に書かれた内容を……!」
興奮冷めやらぬという様子で絵里に紙を見せる。
絵里「……なによこの妙な名前の羅列?」
目を通した絵里は眉根にしわを寄せる。
海未「これはきっと、犯人が残した――」
海未「――犯行声明、ですよ」
その一枚の紙片は、ポケットに入る大きさの手帳を破いたような紙だった。そして、女が万年筆で描いたような横書きの文字が書き込まれている。
内容はこうであった。
黒澤本家 ダイヤ
ルビィ
果南
分家 鹿角聖良
渡辺家当主
弁護士 梨子
十千万 女将
――以上であった。なお、この紙片はすぐ下が破り取られており、以下に何が書かれてあったかは不明であった。
そして、この名前の羅列のなかでダイヤ、梨子、女将の名前の上に赤インクで棒が一直線にひかれていた。
絶句する絵里。この紙片から、これまでバラバラだった事件の動機をひとつに結び付ける答えが見えてきた。
絵里「一か月前に起きたミュウズの祠への落雷。これは祟りの前ぶれだと花丸が村中に吹聴していた――それを聞いた犯人はその祟りを鎮めるために連続殺人を起こした」
絵里「二十四年前の惨劇を鮮明に覚えていて、その再来を恐れた者による犯行。この紙は、犯人の殺人計画書ということかしら……?」
海未「ありえますね」
絵里「そんな、そんな気違いめいた動機なんて……認められないわ」
何度も首を振る。村の迷信に突き動かされた犯行なんて、この技術革新の20世紀において到底、理解しがたい。
海未「そう考えると合点がいきます。ですが――」
海未「――昨日の件、この紙によって計画的に引き起こされたとすると妙なんです」
絵里「最後の部分ね。法要に現れたのは女将の高海志満ではなくて、女中の千歌だった」
海未「そうです、そうです。だから妙なんです……」
絵里「でも、千歌は十千万旅館を営む高海家の一族よ?いちおうの体裁を取り繕うことができるわ」
最も人の出入りが激しい法要が絶好の好機。危険を冒す側としては、急な変更も柔軟に対応してくるだろう。
海未「仮にそうだとすると。善子が毒入り膳を選び、千歌の前に出すことが確実でなければなりません……」
絵里「確かに……」
それに、と海未が付け足す。
海未「なぜ下が破り取られているのでしょう……?」
海未の持っていた紙片をつまみあげ、目の前に近づけていう。
絵里「祟り伝説と結びつけた動機なら、標的の人数はあと二人必要よ。花丸は九つの生贄を捧げよ、と村中で言いふらしているわけだから」
海未「十中八九、わざとでしょう。それにこのメモの項目、あるべきなのに抜けている名前がひとつ。それはおそらく下にあったはず――」
海未「――学校長、むつ。そして、医者、小原鞠莉と」
海未は運び出される校長の遺体と、その場で立ちすくんでいる鞠莉を交互に見た。
鞠莉は黒澤家の分家で、本来なら鹿角や渡辺と並ぶ位置のはず。それなのに除外されているとなると、あえて別に書いたと推測される。
何か犯人の意図があるのではないか。
我々に狂気じみた動機を示して、欲求を満たしたいのか。あるいは――
絵里「やっぱり犯人は、祟りを妄信する者の犯行ということかしら」
海未「そうかもしれませんが、そうじゃないかもしれません」
絵里「?」
海未「それにしては巧妙な手口なんですよ。実に賢い犯人です――祟り伝説に取りつかれた者の犯行だと、私は思えませんね」
海未「木を隠すなら、森の中。犯行動機を隠すなら、動機の中ですから」
千歌の事件が大きな違和感として海未の脳裏にとどまっていた。が、その隠された動機というものの正体が見えてこない。
海未は頭に手をやって考え込んだまま、黙りこくってしまった。
絵里「とにかく、このメモは誰が書いたか調べる必要があるわね」
そういうと、ようやくふたりは善子と曜のほうへ目を向けた。
曜「なんでしょうか……」
絵里「この文字、誰の筆跡か心当たりがあるかしら?」
紙片を見せる。それには手帳らしく日付が印刷されていた。犯人はこれをそのまま破り取ったのだ。
曜「さあ……でもなんか走り書きしたみたいで、女性の字だね」
絵里「村にこんな字を書く者は?万年筆を持っている人間はそういないはずよ」
曜「わかりません……」
絵里「そう。じゃあ、あなたは?」
善子「わからないわよ。この村に来たばかりだし」
海未「そうですか。では、ほかのひとに見せてみましょう」
ちょうどいいところに、と鞠莉を見る。立っていた彼女に絵里と共に向かう。
海未「先生、この筆跡に見覚えありませんか?」
鞠莉に紙片を見せた瞬間、電流が流れたようにビクンと反応した。黄色い瞳の目を大きく見開き、唇が小刻みに震えている。
海未「おや、誰かご存知のようですね。この筆跡……」
その言葉で弾かれたように顔をあげた鞠莉は、明らかに動揺していた。
張り上げた声に一同が驚いていることに気付いた鞠莉は、ハッと我に返る。
鞠莉「あっ……あんまり奇怪なものが書いてあったから。オーバーリアクションしちゃったの!」
鞠莉「……誰がそんなもの書いたのかしら。とにかくこんな異常な……私は知らない、知らないわ」
曜の不思議そうな目に見つめられたまま、動揺のあまり声が震えていた。
鞠莉「知らないの、とにかく知らないんだから!」
何度もそう言い、あっけにとられた海未と絵里を残して玄関を飛び出す。そしてそのまま、足早に去っていった。
絵里「ずいぶん神経質ね。誰もあなたがやったとはいってないのに。昨日の取り調べがよほどこたえたのかしら……」
海未「……」
出て行った鞠莉の方向を見つめ、なにか思案にふけっていた海未だが、顔をあげると次の手掛かりの調査を始めた。
じっくり畳に目をやった海未が絵里にいう。その黒い泥のシミは台所からむつが倒れていた座敷、そして外に出る縁側までベタベタと続いている。
絵里「これ、草鞋の跡よ。誰かが台所から外へうろついたようね」
善子も畳の間にあがってようやくその正体に気づいた。大きさは子供のような小さな足跡だった。
曜「変だよ、校長先生はきれい好きだから……こんなのあったらすぐ雑巾がけをするはずだけどなー」
海未「と、いうことは校長が亡くなったあとにやってきたんですね」
絵里「何者なのかしら、犯人……?」
首をひねる絵里。その様子に気づいた村の駐在警官が、絵里にその正体を教えてくれた。
絵里「――えっ、大食いの尼?ふうん、わかったわ」
海未「くわしく説明してください」
駐在から聞いたことを絵里が代弁した。
海未「なぜ騒がなかったのでしょう?」
絵里「盗みのために侵入したからよ。村人の家に入り込んで、野菜、米や芋、味噌といった食料を中心に盗んでいくクセがあるみたい。特にのっぽパンが好物らしいわ」
善子「まるで珍獣ね……」
絵里「村人もその程度だから見て見ぬふりをしてるけど、ときどき洗濯物や雑貨を盗んで問題を起こして、そのたびに校長が哀れんで穏便に済ませてくれたみたい」
海未「それで、この家からは何が盗み出されています?」
再び駐在に尋ねる。
絵里「――あの尼、校長が死んでいるのをいいことに、食料や雑貨を相当持ち出したみたいよ」
善子「どおりで……」
思わずつぶやく、下屋の裏口で花丸に遭遇したとき大きな風呂敷包みを背負っていた。あれは盗みの帰りで、だから自分に対してあんなことを口走ったのか。
海未「ん、なにかありましたか?」
善子「ええ。校長に呼び出されて、ここに行く途中に尼に会ったの」
下屋の裏口で起きたことを話す。すると、海未は驚いた様子で。
海未「では、善子がここに来る直前だったということですね!」
善子「え、ええ……」
どうしてそこまで探偵が食い気味だったのか、このときの善子はわからなかった。
絵里「……さて、どうして善子がここにいるのか。ちょっと話を聞かせてもらおうかしら」
善子は再び取り調べを受けるはめになった。
善子「わたしよ……会食の前に帰ろうとしていたから、ルビィに広間の会席膳とは別で用意するように頼んだの」
へえ、と絵里は片眉をひょいと上げていう。海未も興味深そうな目つきで見た。
絵里「よく気づいたわね……都会人のあなたが、そういう気遣いに長けているなんて」
ああ、また嫌疑をかけられた。善子はすぐ察した。
善子「私じゃないわ、曜が気づいてくれたの。私は、その……そういうのが苦手だから、助かったわ」
海未「そうなんですか?」
絵里の横で海未が身を乗り出してきた。
曜「そうだよ!善子ちゃんは慣れてないから、教えてあげたんだ」
善子「そのあと、台所に行ってルビィに頼んだら、よしみと女中が用意してたわ」
海未「台所で指示したあと、どうしました?」
善子「ルビィが、もうすぐお斎の時間だから膳を運んでほしいといって、すぐにあの会席膳を持って広間にいったわ……」
海未「つまり、出来上がった校長先生の膳は台所にあった。そのあとすぐにお斎が始まったなら、広間にいた人間はこの膳に近づくことはできませんね……」
善子「……ううん、そうとも限らないわ」
海未「と、いうと?」
少し考えたあと、善子は口を開く。
昨日は千歌の壮絶な最期を間近で見たあまり、気が動転していて忘れていたが、冷静になっている今はしっかり口に出せる。
――あの人物が怪しい、と。
海未「十千万の千歌が毒殺されたときですね」
善子「ええ。苦しんだ直後に水を求めてた……そのときに何名か広間を出ていったの」
善子「そして、あの断末魔と痙攣で動かなくなったときも、叫び声をあげて出て行った人間がいたわ」
無理もない。あのとき腰が抜けていなかったら、善子自身も飛び出していただろう。それほどショックな光景だった。
海未「そのとき広間を出た人間に心当たりはありますか?」
善子「さあ、全員までは。でも、ひとりだけ覚えているわ――」
善子「――鹿角聖良よ」
一斉に全員の注目を浴びた。
そこで海未が深く尋ねてきたので、聖良が水を持っていくために広間を出たことを思い出せる限り詳細に語った。
海未「ところで、善子は逃げ出さなかったんですか?」
善子「そうしたかったけど、無理よ。だって、苦しんでいる千歌の前で腰を抜かして動けなかったもの」
曜「そうだよ、証人なら私がいるよ!」
海未「あと青酸カリの出どころの詳しい調査も……あっ!」
絵里「……」
呆れた表情で腕組みをしていることに、今さら気づく。ついつい、探偵としての悪い癖が出てしまった。
海未「これは失礼、つい出しゃばってしまいした」
ばつが悪そうな笑みを浮かべて絵里に譲る。そのとき、まったく相変わらずなんだから、とぼやきが飛んできた。
絵里「死因となった会席膳のことはあとで捜査するとして。どうしてあなたは校長のところに来たのか、聞かせてもらうわよ」
なぜ善子が死体の第一発見者、いや二番目になったのか。その訳を絵里と海未に話した。
――自分の身の上を知っているということ、そして聞きたかった洞窟と関係があるウトウヤスタカというものについて。
後者はいちおう、本当のことは伏せて噂で聞いたということにしておいた。
善子「ないわ、だから聞きにここまで来たの。そしたら、これよ……」
ぶっきらぼうに言う。大事なブレスレットまで失ったのに、結果は手ぶらはおろか再び殺人の容疑者としてやり玉にあげられたからだ。
絵里「どうも妙ね、みんなあなたと関わりを持つと大事な場面で死んでいく。善子はどうやら殺人と縁があるみたいね」
善子「んなっ……」
なりたくてなったものじゃない、と声を大にして否定したかったが、やめた。
花丸の妄言が、ますます現実味を帯びてきたからだ。
オカルトなんて娯楽としかとらえていない善子に、得体の知れない何かが忍び寄っているような気がしていた。
思わず背筋がぞくりとして黙っていると、海未が話題を変えるように口を開く。
海未「ウトウヤスタカ……これは人名でしょうか?曜、あなたはご存知ですか」
曜「そんな名字のひと、下屋の周辺には住んでないなー」
海未と共に首をひねる。地元の人間でもわからないらしい。
海未「……その名称か人名、気になりますね。私のほうでも調査しましょう」
そういうと、帽子を被って外に飛び出していった。
絵里「ちょっと海未……!」
すでに姿を見失ってしまい、ため息をつく絵里。
そのあと善子は様々な事情聴取を受けたあと、やっと夕方になって解放された。
家に帰ると、門の前にルビィが立っていた。いてもたってもいられなくて外に出て待っていたのか、心配そうに善子の顔を見つめていた。
善子「大丈夫よ、ありがとう」
自分でも驚くほどあっさりと答えた。目の前で四人も死んだというのに、もう慣れてしまったような口ぶりに対し、自己嫌悪がわいてくる。
夕食の前にルビィと少し話をした。
ちょうど善子が絵里のところにいるとき、別の刑事たちが屋敷にやってきてルビィとよしみたち女中も取り調べを受けたそうだ。
善子「どんなことを聞いてきたの?」
ルビィに尋ねると、詳細を話してくれた。絵里の指示を受け、刑事たちは校長のむつに届けた会席膳のことについて聞いてきたとのこと。
まずあの膳は、善子とルビィがふたつの膳を届けにいったあとに作られた。そして台所を出たのは広間で騒ぎが起きてすぐのことだったらしい。
例の膳を運んだ奉公人のいつきの話によると、よしみから頼まれて台所にいくと、用意された膳がひとつだけあった。
そのとき台所には誰もおらず、近くでドタドタと誰かの足音と広間のほうから騒ぎ声が聞こえたらしい。いつきは酒を振る舞ってどんちゃん騒ぎでもしているのだろうと気にも留めず、そのまま屋敷を出たそうだ。
千歌が苦しみだして鞠莉が死亡確認するまでの間、聖良を含め何名かが広間を飛び出したことを考えると、犯人は絶妙なタイミングでいつきに見られることなく、毒を入れられたのだ。
あの騒ぎが毒だといつきが気づいていれば、校長に伝えて彼女も怪しんで食べなかっただろう……。
そう思うと、むつは実に不運だったと善子は哀れに思った。
母屋で果南を入れて三人で食事をしていたとき、ルビィがそのことを話題にしたが、果南は何の反応も示さずただ聞き耳を立てるだけだった。
果南がこの日、朝から出かけていたのは身体の調子が良いので海を見に行った、とのこと。
海沿いで殺人事件があったのに、ずいぶんノンキなものだ。善子は呆れてしまった。
善子「……ごちそうさま」
取り調べで疲れていたが、同時に離れのほうへ早く引き上げようと考えていた。
昨日は法要と千歌の騒動でまったく出来なかった、納戸の地下にある洞窟の探検を再開しようと心に決めていたからだ。
校長からの手掛かりが消えた以上、自分でやるしかない。
この家にいてもやることがない善子にとって今一番、使命感を持って取り組めるものだった。
入浴を済ませて離れに戻ると、雨戸は閉じてあり布団が敷かれていた。
その寝床に目もくれず、善子は探検の準備をする。
今回は母からもらった御守り袋の中身――この洞窟の地図を持っていくことにした。
善子「よし、いこっか」
明かりを消して、納戸へ向かう。
すぐにゴォッを風が吹きこむ音がし、真っ黒で四角い地底世界への入り口が現れた。
懐中電灯片手に穴の中へ。ちょうど頭が床下に入ったので、取っ手をつかんでしめようとした途端――
善子「あたっ……!」
自慢のお団子が箱にぶつかった。反射的に頭を引っ込め、すぐに手で無事を確認してそのまま地下へ。
善子「まったく、今日はついてないわ……」
そうぼやきながら、石段を下りて洞窟を進む。
分かれ道で地図を広げ、おととい聖良と遭遇した鬼の口とは別方向を目指すことにした。
善子「何となくわかるような、わからないような……」
地図とはいっても、名称と入り組んだ洞窟を書き込んだだけの代物。あくまでも大まかな見取り図という感じである。
善子「今度は左ね」
進路を決め、新たな方向へ進んでいった。
このあたりは石灰成分を含んだ地下水が、数百年の月日を経て洞窟にしみだして石灰岩のうすい層を形成していた。
ゆえに洞内は風呂場のように空間が密封されており、音が反響するのである。
一度、善子は手を叩いてみた。
善子「まるでこだまみたいね」
あちこちで響いていく様子に納得する。
――今回目指すのは、蓮華座と針千本。名前からして大体どういうものか想像がつくが、この目で見てみたい。
絶対に忘れないように、と母が歌で遺した場所。なにかあるはず。
暗く狭い空間のなか、期待と不安を抱えながら歩き続けた。
地図を開いてみた。
善子「左はそのままいくと、ここの中央の穴に出る……つまり元の位置に帰ってくるのね」
善子「じゃあ、こっち」
右を選ぶ。地図が無ければ、ここでグルグルと迷っていただろう。
――果南はどうして迷わないのだろう。この洞窟を知り尽くしているのか。
その先に一体何があるのか。ますます探求心が刺激される。
どんどん地底の奥深くへ進む感覚を味わいながら長い地下道を進んでいくと、再び開けた空間に出た。
善子「細い道の次は空間、そしてまた細い道……本当、洞窟って変な場所」
まるで巨大生物の腸内をうろついているようだ。善子は同じ景色の連続にぼやく。
ここはどんなものがあるのだろう、懐中電灯でゆっくり照らして空間を調べていくと。
善子「……だっ、誰よッ!」
驚いて叫ぶ。
懐中電灯が一瞬、照らしたその先――平たい大きな岩石の上に、人の影が見えたからだ。
だが、距離が離れているせいか薄っすらとしか見えず、その輪郭もあいまいで男か女か不明であった。
善子「そこにいるのは誰よ!」
強い口調で呼びかけてみるが、それは動く気配がない。
待ち構えているのか、それとも……。
普段の善子なら怖くて動けなかったろう。なぜかその時は、正体をつきとめてやろうという勇敢さが勝っていた。
善子「あっそう、それならこっちから行くわよ……!」
そいつを見失わないよう懐中電灯で照らしながら、歩みを早めて一気に詰め寄る。
ついにそいつの足もと――台座のような岩まで迫った。
そこまで近づいても、その人影は無言のまま動かない。そして、ようやくその姿がはっきりと見えた。
善子「……何よ、ただの甲冑じゃない。脅かさないでよ」
安堵して悪態をつく。
岩の上にあるその甲冑は、戦国時代の武将がつけるもので、四角い箱の上に腰かけていた。
まるで本陣で鎮座する戦国大名みたいに堂々としている。
善子「こんなところに置いているから、ボロボロね……」
長い年月が経っているのか、鎧のあちこちが風化し、金属部分にいたってはすっかり錆びに覆われている。
善子「きっと果南のいたずらね。鎧の置物で人を驚かせようって魂胆でしょ」
肩をすくめた。
そこらの岩壁から石灰を含んだ水がしみだしているのだろう、それが上から下へ同じ場所を長い年月も流れ続けたため、岩に白い模様を形成していた。
まるで花びら――蓮の花ような模様が刻まれた大きな岩である。
善子「蓮華座とはこの場所ね。あるのは仏様じゃなくて悪趣味な鎧武者だけど……」
苦笑いを鎧武者に向けた。そのとき、ふと気になった。
しかし、この置物――長い年月も経っているのにしっかりと固定されている。中が空洞ならそうはいかないはずだ。
善子「中に人形でも入っているのかな……」
興味本位でその鎧武者の胸当てに光の環を向け、徐々に上に向けていく。
首元から、最後に兜との間――顔の部分を照らす。
顔を見たとき、大変驚いた善子は平たい口から勢いよく息を吸う。ヒイッという音が鳴った。
善子「アッ……あぁ……!」
冷水を浴びたように背筋が凍え、足がガクガクと震えて収まりがつかなかった。
中に入っているのは人形ではなかった。
むしろ人肌のような瑞々しさもあり、光に照らされてスベスベして光沢がある。まるで石鹸のようだった。
黒い瞳は白く濁り、乾いた唇はキッと真一文字に結んでいた。
顔つきからは四十か五十代の男性であると推測できる。
――そう、中身は死体である。それは鎧を着た死体だったのだ。
思わず死体と目が合った善子の顔から一気に血の気が引く。震えが止まらずカチカチと歯が音を立てる。
ようやく緊張が解け、反射的に行動を起こす。
善子「ぎにゃああああああ!」
力いっぱい叫び、弾かれるようにこの場から逃げ出す。
善子の悲鳴は洞窟中に響き渡る。きっと、洞窟の外からでも聞こえたに違いない。
全力で走る。死に物狂いで来た道を引き返し、この恐ろしい洞窟から一刻も早く逃避を試みた。
一直線の地下道をまともに照らさず、走り続けたそのとき。
ドンッと何かやわらかい物体にぶつかった。
「イッ……!」
それは善子の身体に弾かれ、声をあげて地面に大きく尻もちをつく。
ぶつかったのは物ではない、生き物だ。
善子「ぎゃああああ!」
「ピギャアアアア!」
互いの叫び声が洞窟に大きく反響した。
その生物いや、人物は弱弱しい声で暗闇へ呼びかける。気づいた善子は懐中電灯で相手を照らした。
善子「ルビィ……?」
光のその先には見慣れた人物。
桃色のキャミソールワンピースを着たルビィだった。尻もちをついた彼女は、猛獣に追い込まれた小動物みたいにガタガタと震え、怯えきった様子でそこにいた。
善子「そこにいるのはルビィね。私よ、善子よ」
ルビィ「よ、善子ちゃぁなの?よかったぁ……」
震えが止まり、安心しきった様子のルビィ。それに対し、善子は思わず顔を背ける。
善子「……ねえ、早く立ってよ」
ルビィへ手を差し伸べ、顔を赤らめて恥ずかしそうにいった。尻もちをついたルビィの姿勢は、目のやり場に困るものだったからだ。
やむを得ない状況とはいえ、目の前で若い女性が股ぐらを大きく開けている光景は、善子には刺激が強すぎた。
ルビィ「あ、ありがとう……」
それを知らず、手を借りた礼を言う。その無邪気な笑みが善子の罪悪感をかき立てる。
ルビィ「――それはルビィが聞きたいよぉ」
翡翠の瞳を細め、怪しむような眼差しを向けた。
善子「それについては後で話すわ。で、ルビィはここで何をしていたの」
ルビィ「ぅゅ……?」
善子「離れの下にこんな洞窟があったなんて、ルビィはそれを知っていたの?」
ルビィ「ううん、知らない。こんなところ、初めて来たよ……」
両手を胸元に持ってきて、怯えた様子であたりを見回していた。
ルビィ「でも、昔聞いたことあるんだ……。この屋敷、とくに離れに沼津藩のお殿様がお泊まりになるってときに、もしもの時の脱出用として山の洞窟と繋げたって」
ルビィ「もうとっくに埋まったと果南様が言っていたのに……」
本当にあったなんて、と最後につぶやいた。
善子「で、ルビィはここにどこからどうやって入ってきたの?」
問い詰めるかのような善子の様子に、ルビィは少しためらったあとジッと見つめ。
ルビィ「――善子ちゃんを探してここに来たの」
ルビィ「きっと便所だろうと、しばらく座敷で待っていたんだけど、まったく来ない。戸締りはしてあるし、雨戸もあるのに善子ちゃんだけがいない――」
ルビィ「――そこで思い出したの、子供のころに聞いたこの抜け穴のこと」
ルビィ「あちこち探し回って、最後に納戸を調べたら……真ん中の収納箱が少しずれていて、小さな隙間を見つけたの」
善子「あっ……!」
入るときに起きたことを思い出す。ぶつかった団子の無事を確認するあまり、箱をしっかり閉じていなかった。
ルビィ「それからロウソクを持って入ってみたんだけど、ここで火が消えちゃって、しかも叫び声が聞こえてきて怖くなって震えてたら、そこで――」
善子「私とぶつかったわけね」
そういうと、ルビィは小さくうなずいた。
善子「……あとでちゃんと話すわ。その前に」
善子「来て、ちょっと見てほしいものがあるの」
ルビィ「うん……」
不思議そうな顔でうなずく。無邪気で、危なっかしい姉――庇護欲がわいた善子は手を差し伸べる。
善子「ほら、ここは暗くて危ないから……手、貸すわ」
ルビィ「うん……ありがとう……」
差し伸べられた手に一瞬、きょとんとしていたが、小さく笑って善子の手を握る。そして、ほんの少し頬を赤らめた。
なんだか複雑な思いを心を抱えたまま、ルビィと共に再び洞窟を潜っていく。
善子「――見て。ほら、あれよ」
蓮華座の上、例の鎧武者を指さした。
ルビィ「ピギッ!」
小さな叫び声をあげて、善子の背中にしがみつく。落ち着かせたあと、ゆっくりと前に出て観察する。
ルビィ「あれは――」
ルビィ「変だよぉ……誰がこんなところに持ってきたんだろう」
首をかしげていた。
善子「どういうこと?ルビィはあの甲冑を知っているのね?」
ルビィ「うん……ずっと前にみたことあるもん。あれは、ずっと昔――ルビィの先祖が落ち武者から手に入れたものなの」
ああ、と善子は察した。曜から聞いた、ミュウズ様の原形となった九人の姫と落ち武者たちのことを。
善子「ええ、知ってるわ」
ルビィ「そのミュウズ様――もとは小田原城から落ちのびてきた九人のなかに、弓術や武芸が達者な女傑がいたの。この甲冑は、あの宴会での襲撃で傷だらけになりながら、最後まで抵抗して村人に恐怖を植え付けた彼女のものなんだ」
善子「へえ……」
そんな怨念と憎悪が込められた、呪物に等しい物を黒澤家が後生大事に持っていたとは。それほど祟りに畏怖していたのだろう。
ルビィ「きっと果南様が昔、ここに運び込んだのかも……」
なんのために、と首をかしげるルビィに、善子は指をさして鎧武者をよく見るよう促す。
善子「ルビィ、あの甲冑のことはよくわかったから、よく見て……中身の顔よ。あれは、だれなの?」
ルビィ「やだなぁ善子ちゃん……中には何も入って――」
善子「よく見て。あの、兜の中よ」
真剣な表情の善子を前にして、ただならぬ気配を感じ取ったルビィは目をこらした。
そのすぐあと、ルビィは目を大きく見開き、呼吸が荒くなった。
ルビィ「……嘘、嘘、嘘だよ。なにかの間違いだよね、ね?」
ルビィ「うん、ルビィはきっと夢を見ているんだ。夢、夢なの夢」
善子「ルビィ……?しっかりして」
瞬きひとつしない目で虚空を見つめ、ブツブツと独り言を唱えるルビィに呼びかける。正気に戻るよう、両手でがっしりと肩をつかんでゆすった。
善子「ねえ、ルビィ!あれは誰なの、いったい誰なの……!」
ルビィ「あっ、善子ちゃん……あれは、二十四年前に山に逃げて行方不明になった――」
ルビィ「――ルビィのお父様、だよ」
善子「ええっ……!」
驚きのあまり懐中電灯を取り落としそうになる。
やっと声を絞り出す。
わなわな震えながら、ルビィはうなずいた。
善子「ちょっと待ってよ。あの死体……どうみても二十四年前のものに見えないわよ」
善子は戸惑った。あの甲冑の風化具合からみても、二十年相当の年月が経っていることは明らかだった。だが、中身の人間は腐敗し白骨化せず生気のない顔のまま残っている。
ルビィ「見間違えないよ、あの顔……あのときのお父様だもん……」
それだけいうと、わっと泣き出して善子の胸に飛び込んだ。善子は黙ってすがりつくルビィを抱きすくめる。
無理もない。
行方不明の父親が変わり果てた姿で――しかも、甲冑を着せられ二十四年も腐らず地底の奥深くに閉じ込められていたのだから。
しかしなぜ、氷点下でもないこの洞窟に置いても腐れないのか……。
善子「そっか……わかったわ」
昔読んだ書物に、その答えがあったのを思い出した。
湿度が高く、気温が一定の場所に死体を安置するとまれに起こる現象だと書物にあった。
死体の脂肪分が、外の湿気と結びついたことで変質し、死体の表面を蝋のような物質が油膜となって覆い、腐敗が止まってしまうらしい。
だから長い年月が経っても、死亡した当時のままの姿を残す。
その自然のいたずらを、西洋では神の奇跡だとして教会で崇拝しているらしい。
善子「本で読んだことあるけど、日本でも屍蝋になるのね……」
百聞は一見にしかず、半ば関心して鎧武者と化した黒澤輝石を見上げる。
欲望のままに母をいたぶり、三十六人も殺して山に逃げた父親の哀れな末路と考えれば、もの悲しさだけが善子の心に残った。
善子が蓮華座のすぐ下を懐中電灯で照らすと、線香をあげたと思しき灰とススの跡があった。
善子「果南はきっとここに来てた……お参りの正体はこれね」
自分にわかめ酒を飲ませて昏睡させるという、回りくどい一連の行動を理解する。この洞窟に眠る黒澤輝石を誰にも見せたくないから、だと。
そして、善子の関心はルビィに移る。
ルビィはずっと懐にしがみつき、声を殺して泣いていた。体の震えも止まらない様子だった。
今日はこれ以上、洞窟を調べることは出来なさそうだ。
善子「ルビィ、もう帰ろう。布団で休んだほうがいいわ」
優しくそう呼びかけ、その小さな体を支えつつ、離れに戻った。
明るい場所に戻って初めてわかったが、ルビィの顔色はだいぶ悪かった。
ルビィ「ごめんね……善子ちゃん……」
善子「気にすることないわよ」
ルビィ「うん、ありがとう……」
水で濡らした手ぬぐいで額の汗をふいてやる。そして、団扇であおぎながらルビィの心が落ち着くまでそばにいてやることにした。
ルビィ「ねぇ、善子ちゃんはどうしてあの抜け穴のことを知ってるの?いつ納戸の入り口に気づいたの……?」
枕元にいる善子に顔を向けて尋ねる。あとで答えると言ったことを今、思い出したようだ。
善子「実はおととい――」
初七日法要の前日の晩のことを全て話す。果南にわかめ酒を飲まされ、眠らされている間にコソコソとよしみと納戸へ入っていったことを。
ルビィ「じゃあ、果南様が……」
善子「そうみたい。どういう日にちでお参りするのかわからないけど」
ルビィ「それじゃ……あそこにお父様がいたことも……」
善子「そうかもね」
同調した瞬間、みるみる顔色が悪くなったルビィは、急に布団のなかに顔をうずめた。あまりに素早かったので善子はぎょっとした。
団扇を放り、丸くなった布団に手をやる。布団越しにもルビィが震えているのが、自分の手からしっかり伝わっていた。
善子「どうしたの、ねぇどうしたの?」
ルビィ「善子ちゃん、怖い、怖いよぉ……やっぱりあのとき、お父様を……」
ルビィ「きっとそう。果南様が……」
布団の中からルビィのくぐもった声がする。
善子「落ち着いて!私はずっとここにいるから」
しばらく呼びかけ続けていると、ようやく震えが収まったのか、丸まった布団から顔を出した。
ルビィ「――これは善子ちゃんだから話すよ」
絶対に誰にも言わないで、と断りを入れたルビィ。うなずいた善子の顔をジッと見つめつつ、話を始めた。
内容はこうである。
母の血が顔にこびり付く錯覚と、発狂した父親のおぞましい顔を突如鮮明に思い出す心的外傷の症状を起こしていたのだ。
そんなルビィを哀れみ、ダイヤと果南が付きっきりで添い寝をしてくれた。
しかし、数日ごとに果南がいないことがあった。
直接尋ねると、ちょっとした用事としか答えず、それを不審に思いつつも、子供のルビィはたいして気にせずそのまま寝ていた。
そんなある時、恐ろしい話を耳にしてしまう。
それは当時存命だった親戚と果南が、床についてまどろむルビィのそばで話していた事だった。
まだ幼かったのと、睡魔の影響で切れ切れの単語でしか覚えられず、こうヒソヒソと話していた。
――いつまでも続けられない、洞窟、逮捕されたら確実に死刑になる、外に出せば大きな騒動、家のためにやるしかない。
そして最後に、弁当に毒を……と話していたそうだ。
ルビィ「今夜あの甲冑に入ったお父様を見て、ようやくあの話の意味がわかったんだ……」
そういうと、目を伏せた。
善子「じゃあ……果南様はあの事件のあと、父をかくまっていたの?」
ルビィ「うん……」
善子は納得した。どうりで大勢の警官隊に包囲されて山狩りを行っても、見つからなかったわけだ。
きっと黒澤輝石はあの洞窟――蓮華座のあたりに隠れていて、食料や水はすべて果南や黒澤家の者が提供していたのだろう。
しかし、忍び寄る捜査の手と黒澤家の存亡に関わる事態に、世間体を恐れた果南らが弁当に毒物を入れて殺害した。
そのまま遺体を腐乱させ骨にして隠そうとしたが、遺体はなぜか腐らなかった。
果南たちは屍蝋化を知らなかったのだろう。とても驚き恐怖したに違いない。
ミュウズ様の原形となった九人が最初に住み着いた洞窟で起きたこの怪現象に対し、なにか神秘的なもの――スピリチュアルを感じたのだろう。
土蔵にあった甲冑を死体に着せ、蓮華座の上に安置した。それを偶像として果南が定期的に参拝しているのだ。
なんてどす黒いことなのだろう。都合の悪い存在は毒で制する――これを黒澤家が脈々と受け継いできたものなのか。
善子はこの家と、あの果南という存在に恐怖さえ覚えた。
ルビィ「お願い……もしお父様がいま見つかったら、ミュウズ様の祟りが現実になっちゃう。そうなったら村が大変なことに……」
起こりうる事態に恐れおののいたルビィは、布団のふちをギュッとつかんだ。
ルビィ「それにね、善子ちゃん。いま騒がれているあの毒殺事件、もしかしたらそのことと何か関係があるんじゃないかって……」
善子「えっ、まさか果南様が――」
ルビィ「――ううん、違う、違うよ」
強く否定しつつも、視線を泳がせたあと。
ルビィ「でも、おねぇちゃぁのことを思うと……」
善子「ダイヤのことね」
黒澤姉妹の父親を毒殺した果南が、ダイヤに対しても同じようにやったのではないか。そんな常識外れのことを、黒澤家の長老はやりかねないとルビィは内心恐れているのだろう。
善子「……そんなことあるはずないわよ」
そう答えるのが今できる精一杯の優しさであった。
その後、ようやく平静を取り戻したルビィを母屋へ帰し、善子は眠りについた。
善子「おはよう」
ルビィ「おはよう、善子ちゃん」
善子「大丈夫?目、赤いわね……」
ルビィ「えへへ、ちょっと眠れなかったの」
少し腫れた目を細めて苦笑していた。無理もない、変わり果てた父親と対面し、果南の後ろ暗い部分を思い出してしまったのだから。
このあと果南が現れ、一緒に朝食をとった。昨晩のあんなこともあってか、ルビィも善子も終始無言で食べていた。
そのあと離れに引き上げて、座敷でゴロゴロしたり読書で暇をつぶしていると、よしみがやってきて母屋に呼び出された。
――まさか、果南に洞窟のことを感付かれたのでは。
ドキドキと心臓が高鳴りつつ、母屋に向かうと。
海未「おはようございます。忙しいところ、申し訳ありません」
海未がひとりで座敷にあがっていた。
果南ではなくて安心すると共に、何か探りに来たのではないかと別のドキドキを抱く。
善子「海未、どうしたの……?」
海未「……そんなに警戒しなくてもいいですよ。ちょっと顔を見たくなったのと、お知らせしなくてはいけないことがありまして」
警戒している善子とは裏腹に、海未は穏やかな顔つきで。
善子「そう……で、なによ?」
後者のことを詳しく尋ねると、急に真面目な表情になって、こういった。
海未「――小原鞠莉が失踪しました」
思わず前のめりになる。個人的に聖良の次に怪しいと思っていた人物だったからだ。
海未「はい。昨晩、絵里と共に診療所に向かったら、いなかったのです」
海未「机に書き置きがあり――私は潔白であるが、あらぬ疑いをかけられたくないから、しばらく身を隠す――と、本人の字で書かれてありました」
海未「いま絵里が県全域に緊急配備を行うよう、手配中です」
善子「そう……あの紙はやっぱり鞠莉が書いたものだったの?」
海未に尋ねる。思えば、むつのときから様子がおかしかったし、例の紙片――犯人の殺人計画書を見せたとき激しく動揺していたからだ。
海未「はい、あれを書いたのは鞠莉です。破られる前の手帳から特定しました」
海未「その手帳は沼津の銀行が顧客に配っていたもので、この村では三つしか配布されていないことがわかったのです」
海未「黒澤家、渡辺家そして、小原家――」
海未「前のふたつは紙片の日付があるページが破り取られていませんでした。また、筆跡鑑定も行って特定に至ったというわけです。」
海未「さっそく事情聴取に診療所へ向かったのですが……遅かったですね……」
頭に手をやって残念がる海未。
善子「なるほどね」
善子は納得した。きっと海未が絵里に助言をして調べさせたのだろう、あのポンコツ警部がそこまで至るとは思えないからだ。
何だかあっけない結果に、善子は拍子抜けしていた。
標的を手帳に書いて、毒殺。あえて医者の区分を破り取ったのは、メモの全容解明を阻止する証拠隠滅のため。
極めつけは疑われ始めてから、失踪したことだ。これでは自分が犯人だと自供しているのに等しい。
しかし、探偵はそう思ってはいないようだった。頭に手をやってしばらく考えこんで、口を開く。
海未「どうでしょうね……何だか納得できないんですよ」
善子「と、いうと何よ?」
海未「あの紙を、なぜむつの死体の近くに置いたのか、それとも偶然落としたのか。しかし、我々が紙を見せたときのあの分かりやすい動揺ぶりを考えると」
海未「もしかして、下の医者の区分が破られているのを見て、誰かが自分の書いた通りに実行していると察し、恐怖したのではないか――」
海未「――だから自ら姿を消した」
海未「だとすると……あの紙は鞠莉に疑いの目を集中させるために犯人が置いた、とも考えられますね。第三の殺人の不可解な状況にも一応の筋がつきます」
海未「とにかく、鞠莉を早く見つけないことには……」
そこまで推理できるとは、さすが探偵だ。善子は舌を巻く。
海未「――絵里が一晩中、取り調べても黙秘し続けたんですよ。何を見たかも、あの紙があったかどうかさえも答えない」
海未「どうしようもないのと鞠莉の失踪騒ぎで、ついさっき釈放したんです」
そういうと、困った、困ったと連呼した。
善子「早く犯人を見つけてよね、また私が絢瀬に疑われるじゃない」
海未「ははは……面目ありません」
善子がチクリというと、頭に手をやってばつが悪そうに答えた。
海未「それでは、私は調査があるので失礼します」
そういうと帽子を被り、そそくさと出て行った。
海未が出て行ったあと、ルビィに鞠莉の失踪を伝えると目を丸くして驚いていた。
ルビィ「本当に鞠莉さんなの?」
善子「さあ、海未はそこまで言ってなかったわ」
ルビィ「そっかぁ……ねぇ善子ちゃん」
そうつぶやいたあと、ルビィは真剣な面持ちで善子にいう。
ルビィ「――あの抜け穴、もう行くのはやめてほしいの」
善子「どうしてよ?」
ルビィ「……あんな怖いところで、善子ちゃんに何かあったらルビィはどうにかなっちゃいそうだもん」
善子「それは――」
ルビィ「……お願い」
翡翠の瞳を潤ませたルビィに、善子はうろたえた。
母の遺した手掛かりを探るため、無理な頼みだ。そう拒絶しようとしたのだが、ウルウルしたあの目を前に言い切れず、無言でうなずくしかなかった。
静岡県警が緊急配備したものの、あの特徴的なであるのに目撃情報もあがってこない状況に、捜査陣は困惑していた。
絵里「一体、どこに隠れたのかしら」
懐中電灯片手にあたりを見回しながらいう。
いま絵里は山の調査にいくという海未と一緒に山道を歩いていた。
この山道は、頂上付近にあるミュウズの祠と九つの墓石へと続く砂利道。この捜索を絵里は少し嫌がっていたが、駐在警官と村人数名に猟犬の帯同でようやく同意してくれたのだった。
海未「しかし、いい山ですね。熊もいないし、散策のしがいがある」
明るいときにちょっとした登山でも、というと絵里ににらまれた。
絵里「いずれにしても、明日の夜は山狩りをしなくてはいけないわね」
絵里「――で、鞠莉の匂いがするということでこの犬についてきているんだけど……」
訝しげに犬を見る。実際、最後に目撃されていたのは海沿いの道で、こことは正反対の位置だからだ。
ここは獣の直感を、と海未がいうので無理に自分に納得させている。
導かれるがままに山道を歩くと、祠の近くにある小さく開けた草原のあたりで犬の動きが止まる。
絵里「どうしたの。え、そこに洞窟がある……?」
猟犬を連れた村人が指さす。そこに目を向けると、まるで狐の巣穴のようにぽっかりと空いたほら穴を見つけた。
海未「ほう……洞窟がこんなところにも」
絵里「この村の山は洞窟が多いの。落ち武者の隠れ家として最適よね」
ミュウズの九人がここに住み着いたのもうなずける。豊臣軍に急襲されても洞窟をつかって逃亡が容易に可能だからだ。
まさか、心を開いた村人にやられるとは思ってもいなかっただろう。
なんと不憫な者たちだ、海未はその無念さに同情する。
海未「――入ってみましょう。何か手掛かりがあるかもしれません」
絵里「そうね。あなたたち、入りなさい」
村人たちに指示を出す。
すると彼らは目を泳がせたり、顔を見合わせて、うろたえる。
絵里「なによ?どうしたの」
腰に手をやって眉根をひそめる絵里に、駐在が事情を説明した。
このミュウズの祠がある山の洞窟には伝承があり、九人のうち武芸者の女の霊が出るから村人は恐れて誰も入らないとのこと。
昔、その伝承を無視した者が洞窟に入り、その霊によって洞窟の奥深くへ連れ去られたそうだ。
絵里「ハァ……もう二十世紀よ。見えない原子で爆弾が作られる時代に何言ってるの」
そう悪態をつくも、村人は首を横に振るばかりである。このままではラチが明かないので海未が口を開く。
絵里「――ちょっと、待ちなさいよ!」
ギョッと目を丸く見開いて絵里がさえぎる。その顔は少し青ざめ、動揺の色が垣間見えた。
絵里「そ、そこは私たちより……彼らが最適よ。そう思わない、ねえ?」
海未「ですが。霊が出るといって断ってる以上、無理強いするわけには。むしろ私と絵里が最適ではありませんか」
海未「我々のような文明人の前に、幽霊も恐れをなしますよ。きっと」
にっこりとほほ笑む。
絵里「チカァ……」
しまいには言葉を詰まらせた。洞窟を前にうろたえた様子に、海未は絵里の弱点を察する。
海未「おや、暗いところは苦手ですか。鬼の絢瀬警部もお手上げとは――」
絵里「――そ、そんなわけないわ!ほら、行くわよ」
意気地のない男たちの前で強がる。手持ちの懐中電灯をブンブンと振って、勇み足で洞窟の前に立つ。
男勝りな乙女の強がりに、海未はフッと微笑する。
海未「では、行きましょうか。みなさん、二時間後、ここで落ち合いましょう」
駐在と村人たちにいい、ふたりで洞窟の奥へ入っていった。
海未「外と比べてだいぶ涼しいですね」
絵里「でも、ベタベタしてるわ……ヒャッ!」
海未「ど、どうしたんですか?」
小さな悲鳴をあげて飛び上がる様子に、驚いた海未。
絵里「う、上から冷たいものが首筋に!」
海未「鍾乳石ですね。天井から……ほら」
洞窟の上を照らすと、細い管のような石から水が滴り落ちてきている。
絵里「なんだ、脅かさないでよ……」
ホッと胸をなでおろす。女の幽霊にうなじをなでられたかと思ってしまった。
こうしておっかなびっくりの絵里と、落ち着いている海未はさらに深くへ進む。
やや下り勾配のある狭い地下道を通って、大きな空間に出た。
そこの地面には、だ円形の岩が筍のごとくあちこち無数に生えていた。光を照らすと、水にぬれていて白くツルツルした光沢がある。
この奇妙な岩は石筍といい、一直線に伸びた棒状のものから、丸みを帯びたこけし人形のようなものまである。すべて水を垂らす上の鍾乳石に向かって伸びていた。
絵里「奇妙な岩……大きいのから小さいのまで。人が隠れそうなくらいのもあるわね」
立ち止まって、地面の石筍たちに懐中電灯の明かりを照らし、絵里はつぶやいた。
絵里「こんなところに鞠莉は隠れているのかしら、海未――」
意見を求めて隣にいる同行者に光を向けた。
絵里「えっ……海未?」
だが、そこに誰もいなかった。
絵里「えっ、噓でしょ……?」
冷たい水を浴びせられたように、絵里の背筋がぞくりとした。この真っ暗で奇妙な地底世界に取り残されたという、大きな不安と絶望が一気にわいてくる。
ここは肌寒く、じっとり湿っていて、淀んだ空気。しかも何だか音が聞こえてきた。闇からこちらへ忍び寄る音に対し、声を絞り出す。
絵里「う、う、海未……そこなの?」
海未「ここです」
絵里「ヒィッ……!」
突然、背後から聞こえた声に思わず飛び上がりそうになり、あわてて姿勢を立て直す。すぐに明かりを声の方へ向けると、海未がいた。
絵里「もうっ、脅かさないでよ……!」
その顔は、同行者が見つかった安心感と怒りでくしゃくしゃになっていた。
海未「まっすぐ進んだら、ぐるりと回って絵里の背後にたどり着いたんです」
絵里「勝手に動いて……!」
そう口をとがらせると、すみませんと頭に手をやってばつがわるそうに謝った。
なんとか絵里をなだめたあと、辺りを照らしながら。
海未「しかし……ここは本当に迷路のように入り組んでますね」
海未「気を付けて前に進みましょう」
そういって、ふたりはさらに洞窟を進む。その途中、分かれ道に目印として手帳を破いて紙片を足もとに置いていった。
しばらく歩いていくと、先ほどより大きな空間にたどり着く。
海未「これは――」
絵里「なにこれ、池?」
そこには鍾乳石と奇妙な石たちに囲まれた、波ひとつない穏やかな地底湖があった。
ふたりは湖岸まで近づき、懐中電灯で湖を照らす。そして透き通った水面を覗き込む。
海未「見てください。底の石、真珠みたいですね」
そこには白玉団子のようなつややかな同じ大きさの石が無数にあった。きっと、湖水に含まれる石灰成分が洞窟の小石にくっついて、長い年月をかけて形成されたのだろう。
立ち上がった海未は、懐中電灯で湖の周辺をゆっくり照らす。奥には裂けたような岩壁の割れ目があった。
ただし、そこに行くには深そうな湖をまっすぐ渡るか、湖岸伝いに歩いて行くしかなかった。その湖岸もツルツルした石灰の岩肌と尖った奇石で、歩くのは困難だろう。
海未「となると……」
今立っている位置の左右に、二つずつ洞窟があった。そのうち、左手にある数メートル上にある洞窟のひとつを照らしたその時。
――何か、黒い影が動いた。
海未は目を見張る。自らの直感が人影であることを告げていた。
海未「誰ですッ!そこにいるのは……!」
その人影に力強く叫ぶと、すぐに影は洞窟の奥へ引っ込んでいく。
絵里「なっ、そこに何か……!」
海未「絵里、追いましょう!」
絵里「わかってるわよ!」
すぐにその人影を追って、ふたりはその洞窟へ入っていった。
海未と絵里が去り、静寂と漆黒の暗闇が戻ってきた地底湖。
「いったみたいね……」
それを待っていたかのように大きな石筍から、ふたつの人影が出てきた。
善子「見つからなくてよかったわ……」
善子であった。また今夜も洞窟を探検していたのだ。
ただし、今回の探検には同行者がいる。
ルビィ「も、もう大丈夫かなぁ……?」
すぐそばにいたルビィが不安そうにいう。その肩は小さく震えていた。
善子「もうっ、だから無理についてこないでもいいって言ったのに」
ルビィ「ぅゅ……だって善子ちゃんが心配なんだもの」
善子「怖いのに?」
ルビィ「怖いけど……ううん、怖くないよぉ……お姉ちゃんだから」
ブンブンと首を振ったルビィ。無理やりついてきた同行者に、善子は小さくため息をつく。
善子「はぁ……変なところで強情なんだから……」
この洞窟に入る前に起きたひと悶着を思い出していた。
死蝋化した黒澤輝石は恐ろしかったが、母の遺した洞窟の手掛かりを探求したいという好奇心がそれより勝っていた。
秘密裏に準備を済ませ、いざ探検に。
そう意気込んで、障子を開け納戸につながる廊下に出た瞬間。
そこでルビィが待ち伏せていた。
通せんぼするルビィとにらみ合いの末、同行するという条件を突き付けられた善子は仕方なく同意。
もちろん、最初は拒否していたのだが……大声をあげるというので受け入れざるを得なかった。あのピギャー、という金切り声を出されたら屋敷中の人間が飛び起きてしまうからだ。
こうして善子はルビィと一緒に洞窟に入った。
そこは針の山のような石筍がたくさんあって、まさに針千本と呼ぶにふさわしい場所だった。
善子「この道で足を滑らせたら、あの石に串刺しね……」
ルビィ「ピギッ……」
こうしてふたりは恐る恐るその場を後にする。さらに進んで、この地底湖にたどり着いた。
ルビィ「……わあ、白いお団子がいっぱいだね」
善子「ええ。どうやらここが白玉の池、という場所みたいよ」
湖岸に立ち、水面を覗いて感嘆の声を漏らすルビィにいった。
善子「あたりを調べて――」
善子「――シッ、誰かくるわ!」
ルビィ「ピギッ……!」
そのとき、奥の洞窟からユラユラ揺れる明かりと共に何者かがやってくるのが見えた。
こんなところで出会ったら、とても厄介なことになる……。
そう直感した善子は急いで懐中電灯を消し、ルビィと一緒に大きな石筍の背後に隠れる。
そのうちに絵里と海未は大声を張り上げ、奥の洞窟へ駆け込んでいってしまった。
こうして、先ほどの状況が出来上がったのだ。
善子「ふぅ……」
なんとかやり過ごせたことに安堵すると共に、善子の胸中に小さな疑問が残った。
――ふたりは自分たちと正反対の方向へ行ったのだが、誰がいたのだろうか。それとも、洞窟の石を人影と見間違えたのか。
そんなことを考えていると、なんだか肌寒くなってきたので、善子は洞窟探検に集中することにした。
ルビィ「本当にきれいな湖!この村にこんな幻想的な場所があったなんて……」
善子「……ええ、そうね」
無邪気な姉の笑顔に心が癒された善子だった。
ルビィに内緒で開いた地図には、この地底湖の奥にある割れ目の先に母が歌で遺した場所――白衣観音がある。
もしかしたら、そこにウトウヤスタカという最後の謎がわかるかもしれない。
すぐ行ってみたい、と思ったが今の手持ちの装備は懐中電灯だけである。
湖岸伝いに行くにしても、ルビィを連れている今は危険を伴うかもしれない。しばらく葛藤したのち、装備を調達して行くべきという結論に至った。
善子「ルビィ、次はあっちに行ってみよう」
洞窟を指さす。そこは絵里と海未が入った穴の隣だった。
ルビィ「うん」
善子「……ほら、手」
その洞窟は膝より上の段差があった。まず善子が先に上り、下のルビィに手を差し伸べる。
善子「……よっと!」
そしてルビィが伸ばした細い手をしっかり握って、一気に引き上げた。
ルビィ「ありがとう、善子ちゃん」
善子「さ、行くわよ」
地底湖を出て、穴に入っていく。しばらく同じ景色の地下道を進んでいくと、奥からここへ吹き込む風を感じた。
――外だ。
ふたりは歩みを進め、洞窟を出た。
ルビィ「村のはずれに来たみたい」
洞窟を出たふたりが立っているのは、山肌を切り開いたかのような平たい草原だった。その先は緩やかに下っている。
背後は急な崖と竹藪が茂っており、出てきた洞窟が見えた。
ここは九つ墓村を囲う三方の山のひとつで、今いる場所からは村の側面が見下ろせるようになっていた。
すっかり暗くなった村のはずれには畑や果樹園があり、そのすぐ下にはポツポツと人家の明かりが見える。
空は夏空らしい満天の星々と、富士山が見える方向からこちらへ白い尾を引いたような天の川が見えた。
ルビィ「みて、星の光が海に映っててきれい……!」
善子「そうね」
はしゃぐルビィに同意する。輝く星空と、反射して淡く明るい海――その景色はとても美しく、いつまでも記憶に焼き付けておきたいと思った。
善子「あんな事件が落ち着いたら、こうして星を見てゆっくり夜を過ごしたいわね」
ルビィ「……うん」
ゆっくりうなずいた。
たわいもない事から、お互いの事、思い出話が次々と出てきた。特にルビィは、善子が義父と共に過ごした東京での生活に目を輝かせた。
いままで天涯孤独の人生を歩んできた善子にとって、異母姉との語らいは大変楽しく心休まるひと時だった。
善子「あっ……そろそろ帰ろっか」
ルビィ「うん」
すっかり真上にあった月をみて、帰り支度を始める。そのとき、ルビィが動きを止めた。
ルビィ「あれ?あの家――」
善子「どうしたの……?」
ルビィを見ると、足元から見える村の家々のうち、それらと離れた位置にある藁葺き屋根の家屋をジッと見つめていた。
つられて善子も注目する。
その家の窓、しめきった障子に人影が映り込んで、サッと奥へ消えた。それはほんの一瞬だったが、印象的な恰好をしていた。
復員軍人が被るような前つばの戦闘帽子を被った、背格好からみて男のような人影だった。
そしてすぐに部屋の明かりが消え、その家は真っ暗になった。
その瞬間、ルビィは善子のもとへ寄った。その弾かれたような彼女の行動に驚いた。
善子「……?いったいどうしたのよ」
ルビィ「あの家、帽子を被った男の人がいたよね……?」
善子「それが?」
その問いに対し、首をかしげながらこういった。
ルビィ「あの家――花丸ちゃんの尼寺なの」
善子「えっ、大食いの尼の……!」
ギョッとした善子は再びあの家に目をやった。
そのあばら家――花丸の尼寺はずっと真っ暗なままで、人の気配など一切なく沈黙した様子だった。
ルビィ「そうだよ、尼寺なの。変だよぉ……こんな時間に男の人を入れるなんて、尼寺は男の人は入っちゃいけないところなのに。しかも電気を消して真っ暗にして……」
善子「……電気が消えてたらおかしいの?」
善子は眉をひそめる。ルビィはコクコクと何度もうなずいて。
ルビィ「だって、花丸ちゃんは明かりをつけっぱなしにして寝るんだもん。電気がないと眠れないんだって言ってたから……」
日常習慣に反する行動をしている花丸になんだか胸騒ぎがしたが、すぐにある連想をした善子はフッと鼻で笑った。
みだらな連想をした。ああいう者でも、人並みに肉体を欲するのか。
男を引き入れるなんて、ずいぶん俗っぽい尼である。
それに男も男だ――たて食う虫も好き好きとは、よく言ったものだ。確かに胸の大きさは善子自身も認めてはいるが。
この連想をルビィにそのまま伝えることはせず、早く帰るよう促す。
善子「とにかく……客が来たのよ、ほら、帰るわよ」
ルビィ「だっておかしいよ、お客様が来たのに電気を消すなんて――」
善子「――とにかく、ほら、帰るわよ!」
ルビィ「でも……」
まだ気になるのか、オロオロするルビィの手を引いて洞窟へ戻る。
来た道をそのまま戻って、離れに着いたころには花丸のことなどすっかり忘れていた。
座敷の時計を見たとき、針はもう深夜の一時をさしていた。
別れ際、母屋の寝床に戻るルビィに言い聞かせる。
善子「ルビィ、今日のことはくれぐれも果南様や家の者には――」
ルビィ「大丈夫、大丈夫。ルビィと善子ちゃぁの秘密だよ!」
笑顔でいうと、スタスタと離れを去っていく。それを見送ってすぐに善子も床についたのだった。
引用元:https://fate.5ch.net/test/read.cgi/lovelive/1689244300/
第3話へ続く
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