しずく「泣いているかすみさん」
夕日差す茜色の部屋の中でひとり──
かすみさんが、泣いていた。
いつもの──侑先輩に泣きつくときの──わざとらしい猫なで声はなりを潜めて、誰かに聞かれまいとするようなくぐもった嗚咽を、私の耳が捕らえたから。
戸を開けた音で、私が部室に入ってきたことには気づいているだろうに、何も反応は無い。
あるいは、そんなことも気に留めないほど、哀しいことがあったのかな。
呼んでみたけれど、返事はない。
びくっ、と肩を少し震わせただけで、かすみさんは泣き続ける。
──いつから泣いているんだろう。
私のいない間に何かあったのかな?
同好会の誰かが泣かせるとも思えないし、前々から何か悩みがあったとか?
「何か辛い事があったのなら、歩きながら聞くから」
やはり、かすみさんからの返事は無い。顔も相変わらず伏せたままで、動こうという様子も無い。
困ってしまった私は、とりあえず一緒にいてあげようと思い、すっ、と彼女のとなりに座った。
もしひとりにして欲しいのなら、既にかすみさんの方からそう言われているだろう。
この人は、自分の気持ちを隠さずに、真っ直ぐ伝えてくれる人だから。
いたずらしたり、人をからかったりするけれど、嘘は苦手な人だから。
こんなに静かに泣くかすみさん、初めて見たかも。
せつ菜さんと衝突した時も、かすみんBOXに何も無かった時も、感情をこれでもかと表に出していたのに。
今のかすみさんは、らしくなくて分かりにくい。
もしこの人の心の中を覗けたなら、泣いている理由も分かるのかな。
そんなことできるはずもないので、かすみさんの胸の内を想像してみる────
『───ってぇ、なんで誰もいないんですかあ!』
『うわぁーん!かすみんかなしいですぅ…!』
『ぷん!なら、いいですもん!誰もいないのなら──』
『おそらに向かって、歌います』
『おそらに乗せて──かすみんの可愛い声を、今ここにいないみーんなにも届けちゃいますからねー!』
だから、やっぱり今のかすみさんが分からない。
こんなに沈んでる姿は、初めて見たから。
不機嫌そうだったり 、怖い目にあった時は、頭をなでてあげてるけど、今もそうしてあげたらいいかな。
気休めにしかならないかもしれないけど──。
「かすみさん、いい子いい子」
そっと形のいい頭を撫でる。
かすみさんはいつものように、私の手のひらを受け入れてくれる。
けれど、泣き止む気配は無い。
本当に、どうして泣いているんだろう?
──もしかして、私のせいだったりしないかな。
身に覚えは無いけれど、無自覚に彼女を傷つけてしまっていたとか。
今では、人から気に入られるいい子でおすましな私だけでなく、年相応に少しだけ茶目っ気のある私も出せるようになった。
テストの点数をからかってみたり、かすみさんの提案したいたずらに付き合ったり、楽しいと思える日が増えた。
この羽目を外す匙加減は難しくて、時々辛辣な物言いをかすみさんにしてしまうこともある。
けれど、かすみさんは調子のいい性格をしているから、多少の憎まれ口は軽く流してくれるし、彼女も私との応酬を楽しんでくれている──。
──そう思っていたのは私だけで、本当はストレスを溜め込んでいたのかな?
だとしたら、謝らないといけないけれど、確証もないまま謝るのも違う気がする。
かすみさんがわけを話してくれるまで待とう。
夕焼け色の部室も今は薄暗い夜の色に変わり、かすみさんの嗚咽は小さく、鼻をすする音も少なくなっていた。
泣き止んだのかな──?とりあえず一安心だけれど、でも少し寂しい。
もう少しだけ、こうしてかすみさんを慰めていたいと思った。
────私、何を考えているんだろう。
「……ん…しず子…」
やっと顔を上げたかすみさんが、私の顔を見て名前を呼ぶ。
目が腫れていて、いつもの元気な彼女ではないことが容易に分かった。
不謹慎だけど、このしおらしいかすみさんの顔──かわいい。
──私、こういうかすみさんも好きかも。
「いいよ。一緒に帰ろっか。お外も暗くなっちゃったし」
「うん…。ねえ、しず子」
「なに?」
「寄り道していってもいい?」
「もう遅いよ。ご家族の方は心配しない?」
「連絡しておくから大丈夫。それに、こんな顔見られたくない」
「かすみさんがそう言うなら…。けど、どこに?」
「お台場の浜辺。静かで誰もいないところに行きたい」
「うん、分かった」
私も家に連絡しておかないと。
もしかしたら、今日は帰れなくなっちゃうかもしれないけど、構うもんか。
こんなかすみさん、放っておけないもん。
それに───
この曇り顔のかすみさんを、今は私が独り占めしたかった。
──────────
──────
───
こういう時かすみさんは、私の細かい気づかいを感心しながら、からかったりすることもあるけれど、今はその元気も無いみたい。
真っ暗な海と、その上に浮かぶ夜景を眺めながら、互いに無言のまま時が過ぎる。
──そうして、どれだけこうしているのかなと思ったところで、ようやく打ち寄せる波以外の音が、私の耳を震わせる。
「ねえ、なんで訊かないの?」
目も合わせないまま訊いてくる。
「私がどうして泣いていたのか」
自分を『かすみん』と呼ぶ余裕もないようだった。
かすみさんなら、苦しんで、泣いている私を見たら、あの日のように強引に聞き出そうとするだろうけど──
私には、まだあのかすみさんを演じることは難しい。
「かすみさんが、話してくれるのを待ってた」
それに──
「──私のせいだったらと思うと、少し、怖くて……」
「───っ」
かすみさんの、息を飲む音が聞こえた。
ああ、やっぱり私のせい──
「そんなわけないよ!」
「……かすみさん」
「しず子は…何も悪くない。悪くないけど……だから、私は…うう…」
強い語気で否定したと思ったら、今度は弱々しく呻く。
どうしたんだろう?かすみさんにしては、歯切れが悪い。
私が悪い訳では無いようだけど、でも完全にそうとも言いきれない感じかな。
「うん…。自分でもそう思う…。でも仕方ないよ」
「何が?」
「私……かわいくなくなっちゃったから」
………………
………………
………………。
「────は?」
予想もしていなかった理由に、思わず素っ頓狂な声が漏れてしまった。
「……うん」
「本当に…?」
「うん…」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ!」
「だって、かすみさんはこんなにかわいいもん!」
「……っ。そんな……私、かわいくない!」
「そうやってムキになるところもかわいいよ!」
「……違うよ…。違うんだよ…しず子」
「何が違うの?」
「私……本当にかわいくないんだよ…」
「しず子のこと……イヤになりそうになっちゃったんだよ」
「……え?」
そこからかすみさんは、つぶやくくらいの小さな声で話し始めた。
「侑先輩は私のこと、いっぱいかわいいって言ってくれるけど──」
「歩夢先輩にも同じくらいかわいいっていうし、せつ菜先輩にはすぐ大好きって言う」
「正直この2人にはいつも通りだから、悔しいけど…私ももういい加減慣れたつもりだったんだよ」
「私が一番先輩をメロメロにしてる自信もあったし、いっぱい甘やかしてくれるのもあの人」
「けど…最近甘えられる時間が減っちゃった気がして……」
「それはなんでかな、って考えたら……」
「──しず子が、侑先輩と一緒にいることが増えてた」
私は、侑先輩ともっと仲良くなりたいと思ったから。
演劇祭の前にはチョーカーをプレゼントしてくれたり──
合宿の夜に3年生の先輩たちの特殊メイクに脅かされて、不意にあの人にしがみついてしまったことはあったけれど──
それでも私と侑先輩の関わりは、同じ1年生でも、かすみさんや璃奈さんよりも淡白だと感じていた。
この先、あの人が卒業して、新しい道に進んで、いつかスクールアイドル同好会で過ごした日々を思い出した時、そこに私との思い出がほとんど無かったら──
そう考えると寂しくて、怖かった。
全てをさらけ出せるようになった今の私なら、おすまし無しの、等身大の私で侑先輩と接することができるかもしれない。
かすみさんが───私に勇気をくれたから。
「私、応援してたんだよ。ああ、しず子、ちゃんと侑先輩とお話できるじゃん、って」
「そんな光景珍しかったし、もしかしたら私が侑先輩を独占するから、今までこんなことすら出来なかったのかな、ってちょっと反省もしたよ」
「何より……」
「楽しそうにしてるしず子を見ると、私も嬉しかったんだよ──」
実際、侑先輩と話すのは楽しかった。
今までほとんど話さなかったのが、もったいないと思うくらいに。
他の先輩には『さん』付けだけど、あの人をあえて『侑先輩』と呼んでみたら、照れくさそうに歯を見せてはにかんでいた。
初めて出会ってから時間が経っていて、私自身ちゃんと名前を呼ぶ機会を逸してしまったことで、改めて呼ぶのは妙な恥ずかしさがあったけれど──
気に入ってもらえたみたいで、嬉しかった。
──私と侑先輩のそんなやり取りを、かすみさんはあたたかい目で見守ってくれていたらしい。
でも───
「──最初のうちはね……」
今はそうではないみたい。
「同好会じゃ、私だけがずっとあの人のこと『侑先輩』って呼んでたのに、いつの間にかしず子も呼び始めるし…」
「私だけの特別を取られた気分になって、イヤだったんだよ」
…………………。
「ただでさえ歩夢先輩とせつ菜先輩で大変なのに、そこにしず子まで加わったら…」
「私……侑先輩に見てもらえなくなっちゃいそうで、怖くなって…」
「でも、しず子には今まで出来なかった分、侑先輩ともっと仲良くなって欲しいと思う自分もやっぱり居て」
「こんなにわがままのくせに、イヤな子になりきれないめんどくさい女の子──」
「私、全然かわいくない。本当にかわいくなくなっちゃったんだよ…!」
そうか…。そんなふうに思っていたんだ。
一言でまとめてしまえば、それはやきもちだった。
侑先輩に甘えられる時間が減ってしまった、とかすみさんが言ったことで、私自身も自覚したことがある。
それは最近侑先輩と話してばかりいる──ことではない。
かすみさんとこうして話す時間も、減っていたんだと。
侑先輩との時間にかまけて、かすみさんをないがしろにしていたかもしれない。
この人が寂しい思いをしているのに、私は───。
「…………」
「それから、ごめんなさい」
「………なんでしず子が謝るの?私が悪いんだよ…?」
「ううん、私も悪いんだよ。かすみさんの気持ちに気づいてなかったから」
「や、やめてよ。そんな謝られたら、私、もう本当に悪い子になっちゃう。しず子に嫌われちゃう」
「大丈夫だよ。そんなことで私がかすみさんを嫌いになると思う?」
「だって…私…。嘘つきだよ?どんなしず子でも大好きって言ったのに…イヤになりそうになっちゃったんだよ?」
「でも、まだ本気でイヤにはなってないでしょう?」
「それはそうだよ。しず子のことイヤになんてなりたくないよ」
「なら、大丈夫。かすみさんは嘘つきじゃない」
「で、でも……!」
「まだ何かあるの?」
「そんなことない。泣いてるかすみさん、かわいかったよ?」
「やめてよ…。いつもの憎まれ口はどうしたの?少しくらい罵ってよぉ…」
「かすみさんのばか。なきむし。やきもちやき」
「うう…。しず子ぉ…」
顔をあげるかすみさん。
もう涙と鼻水でくしゃくしゃで台無しだったけれど──
「それでもかすみさんは、本当にかわいいよ」
そう言って、私はかすみさんの頭を撫でる。
「う、ううっ…………ううううっ…!」
必死に堪えるような大きなうめき声が聞こえたと思った途端、
「うわああああああああん!!」
がばっ、とかすみさんが私の胸に飛び込んできた。
あまりに急だったため、勢いに負けて押し倒されてしまう。
「侑先輩とどっちが好き?」
「しず子のいじわるぅ!!でも、しず子のそういうとこも好きいいぃ!!うわああああああん!!」
私はかすみさんの背中に片手を当て、もう片方でまた頭を撫でる。
こんなに号泣するかすみさんは初めて見た。
嘘泣きや怒り泣きは何度か見たけれど、ここまで声を上げて泣くこともあるんだ。
明るくて、元気で、得意げで、いつも同好会の皆さんやファンに笑顔を振りまくこの人が泣いていることが、何故だかたまらなく愛しい。
かすみさんのこんな姿を知っているのが、私だけだったら良いな。
ひとしきり泣いて落ち着いたかすみさんは、私に訊く。
「しず子…。かすみん、またかわいくなれる?」
「何言ってるの。かすみさんはずっとかわいいよ。今までも、これからも」
「こんなに情けないかすみんでも?」
「かすみさんは情けないくらいがかわいいよ」
「それ…褒めてる?」
「褒めてるよ。ほら、いい子いい子」
「え…えへ、えへへへへ」
かすみさんが笑った。
なんだか久しぶりに、この人の笑い声を聞いた気がする。
お台場の夜景にも負けないくらいにかがやく満面の笑顔。
笑っているかすみさん───好き。
「なあに?」
「やきもちやいてたのは、かすみさんだけじゃないんだよ?」
「え?」
「私も侑先輩に甘えるかすみさんに、嫉妬しちゃったことあるんだからね」
「え~?しず子~?そんなかわいいとこあったの~?」
「うん。だから、やきもちやきなかすみさんも、かわいいってことなんだよ」
「えへへ。かすみんたち、結構似てるのかもね」
「でも、私はテストで22点なんて点数取れないけどね」
「んもう。しず子のばか」
『くすっ。あははははは』
「ねえねえ。せっかく海に来たんだし、帰る前にちょっと叫んでこうよー」
「かすみさん、意外とロマンチストなんだね」
「しず子に言われたくないよお!」
「ふふっ、冗談。良いよ、私も発声練習になるし」
「よーし!じゃあ、まずはかすみんから!」
すぅっ、と息を吸い込み口に手を当てる。
「私も───────!!」
「し、しず子!?」
「なあに?一緒に叫んじゃいけない?」
「いや、そうじゃなくて…。えっ?」
「ふふっ、かすみさんはもうそれで終わり?」
「えっ?ま、まだまだ!見ててよ!」
「私も、同じくらいかすみさんが大好き──────────!!」
「かすみんたち、ライバルだね─────!!」
「かすみさんには負けないも──────ん!!」
ばかで、なきむしで、やきもちやきな2人が、海に向かって互いの胸のうちを恥ずかしげもなく叫ぶ。
向こう岸の夜景の中にいる誰かに聞こえても構わない、むしろ届けと言わんばかりの大声で。
大声を出すって気持ちいい。
かすみさんの前で取り乱したあの日とは違う自分を、私はさらけ出していた。
でも、まだ物足りない。
「かすみさん、もう息切れ?」
「い、息切れしてないよ!全力を出し切ったんだよ!」
「ふふっ、なら私はもう少しだけ叫んでいくね」
ふえぇ、と声を漏らしてその場に背中から倒れ込むかすみさんを横目に、私は叫ぶ。
放課後から今までこの人と一緒にいて、気づいた気持ちを。
「私、泣いているかすみさんが好き────!!」
「笑っているかすみさんと、同じくらい好き─────!!」
「だから、これからもいっぱい泣いていいんだよ───!!」
「私はずっと、かすみさんをかわいいって言い続けるから────!!」
全てを出し切った私は、ふぅ、と満足げに息を吐き、倒れているかすみさんに目を向ける。
そこに────
目からさらりとしたひとしずくを流すかすみさんがいた。
「ご、ごめんなさい!やっぱりひどかったかな?こんな言葉」
「ううん」
かすみさんは身体を起こし、そっと涙を拭う。
「私、かすみさんの前で泣いたことない」
「目腫らしてるとこ見たことあるんだから、同じだよ」
「同じ…かなあ?」
「いいの!とにかく、かすみんも同じ気持ちってこと!だから───」
そこまで言って、私から目をそらし───
「いつか、かすみんにもしず子が泣いてるとこ、ちゃんと見せてよね!」
夜闇の中でも分かるほど、顔を耳まで真っ赤にしていた。
「もうだいぶ遅くなっちゃったね」
「今日はうちに泊まりなよ。しず子と話したいこと、まだまだいっぱいあるよ」
「ありがとう。私も、かすみさんともっと話したいって思ってた」
「ふっふっふ~、今夜はしず子が普段、侑先輩とどんなこと話してるか聞かせてもらおうじゃん」
「さっきはモヤモヤするって言ってたのに、開き直っちゃって」
「叫んだらいろいろスッキリしちゃったんだよ。それに、しず子はそんなやきもちかすみんもかわいいんでしょ~?」
「もう、調子良いんだから」
私はふと、自分がさっき叫んだ内容を思い出していた。
泣いているきみが好きだ 笑っているきみと同じくらい
あの台詞は───言葉は一度、どこかで見たことあった気がする。
小説?映画?いや、そのどちらでもない。
そう、確かあれは───とある詩の一節。
おわり
判定に困ったが同じくらい好きならしずかすだな
しずかすならではの絡みで良かった
おつ
乙
最初しずくが死んで幽霊になったのかと思った
次はかすみんを曇らせることに愉悦を覚えるしずくかと身構えた
純愛で自分はしんみりした
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